血の争い2

 六年前の事故。塀二の父が死に、框に闇渡が憑いた日のこと。お化け屋敷のつもりで忍び込んだ框に室倉や妖魔のことは知らなくても、自分を庇った大人がひどいケガをしたことはわかった。

 自分のせいで人が死ぬ。

 泣きながらやって来た自分と同じ年の小さな子供を見て、彼を深く傷つけてしまったことも幼心ながら悟った。

 その大人が知らない相手でも、最期の頼みを無視する選択肢は框には無かった。


 昔のことをぼんやりと思い出しながら、框はもがいて暴れるように庭の地面をかく噤を眺めていた。

「クソっ、わからない! 全部この忌々しい家のせいだ。塀二ちゃんを取り戻したら全部焼き払ってやる。呪具も妖魔どもも、全部だ!」

 爪が剥げ血が流れるのも構わずに憤怒の形相で地面をまさぐる動きを止め、不意に框に目をやる。

「お前、しぶといわね。そうか……瘴気に慣れているせいね。まったく、何もかも気に入らない」

 土で汚れた指を伸ばし、茫洋とする框の襟首を掴んで乱暴に揺する。

「こうなったらお前を先にしてあげる。もう普通に、お前が触った汚らわしい包丁で刺し殺してやる。塀二ちゃんを探すのはそのあと」

 引きずられ庭から廊下へと引き上げられた框は庭を見渡した。塀二がいない。

(どっか……行ったんだ。だったら、あたしが留守を守らなきゃ……)

 家を守り、少しでもここを塀二にとって居心地の良い場所にする。その為だけに框は生きてきた。塀二が室倉家の宿命から逃れられないのなら、せめてと。

 襖と炬燵に体をぶつけ、春日居の死体が目に入る。心が痛むと同時に、彼女に教わったことを思い出した。


「術の基本は、心。敵に術をかけられたら『嫌だ!』って思うことが重要なんよ。あとは言霊の力を借りること。結界の向こうに入りたい時には『おじゃまします』。閉じ込められて出たい時には『おじゃましました』。当たり前に繰り返されてきた言葉には、その意味が示す力が宿るもんなんよ」

「へえ、そんなことでいいんだ? あいつに閉じ込められて置いてかれるとかありそうだから、良いこと聞いた」

「何言うてんの。室倉の術はそんなもんでは覆せへんよ」

「あんた役に立つこと教える気あんの?」

「おお、怖い怖い。そやなあ、室倉の力に対抗するんやったら呪具を頼るか、あとは春日居の血やな」

「……あんたの、血?」

「ここだけの話、ウチの一族の血には妖部の力を弱める効果があるんよ。これ、室倉はんには内緒にしてな?」

「あのねえ、そんなこと知ってたって、あんたの血なんか使えないでしょうが」

「確かに。そんな理由で切りつけられたりしたらかなわんわ」


 そう語っていたその血が、畳の上に広がっている。離れる前に框は掌にそれを掬い取って、喉から頬にべったりと塗りつけた。不思議と体に力が戻っていく。

(嫌だ……死にたくない!)

 敢えて考えるまでも無いことを強く心の中で唱えて、一気に体を起こすと噤の手を振り切った。

「お前っ、どうして――!」

 怒号を背に聞きながら庭へ向かって駆ける。しかし足がもつれてすぐに転んだ。そこからもう一歩も動けなくなる。血を失い過ぎていた。荒く呼吸をする力さえ残っていない。

「そうか、春日居の血ね? へえ、やるじゃない。でもだから何? どうするつもり? 蔵の呪具でも使うつもりだったの? ダメよね。だって鍵がかかっているでしょう」

 悠然と余裕を持った口調で、そのくせ足運びは荒々しく噤が追って来る。それを遠ざけたくて、肺を締め上げて叫ぶ。

「お願い、帰って! あんたが塀二のお姉さんなら、ケンカなんてしてほしくない!」

「お前なんかに心配されなくたって塀二ちゃんとは仲良しだから。塀二ちゃんの子供を産むのはお前や春日居なんかじゃない。お姉ちゃんの役目なの」

 苛々と髪をかきむしりながらうっとりと表情を蕩けさせるアンバランスな様子を見ながら、この相手には話が通じないことを悟った。

「もう謝らなくていい。春日居の血でも呪具でも使って、逆らいたければやってみればいい。お前はここで死ぬんだよ!」

 逆手に構えた包丁を見上げながら框は唇を動かす。ほとんど声は出なかった。

「影に息づく生ある者よ、主の命に従い給え」

 春日居から習ったことは聞いて数時間も立たない付け焼刃。呪具の台帳に目を通してはいたが蔵に鍵がかかっていては当てにすることもできない。

「潜む影持つ宿主の声が、呼ぶ名を聞いて従い給え」

 絶望的な状況下で框が頼りにする存在はたったひとつ。ある意味では塀二よりも信頼している大切な存在。

 噤が吹き出して笑う。

「ナニそれ、解呪の儀式? そんなことしたって妖魔を縛る術式はもう無いわ。お前に憑いた妖魔はもういないのよ!」

 嘲笑を浴びながら、框は友の名を呼んだ。

「我に従う汝の名は〝むつきゆすらかばえれえれもくれん〟。助けて――むつき!」

 シンと静まり返り、一拍置いて異音が鳴る。ビシリと、厚いガラスにヒビが入ったような音がして地面に亀裂が走った。

 否、それは亀裂ではない。濃く固まった瘴気が根を張るように広がっている。その中心にいるのは放り出されたノーニャの首だ。その瞼が唐突に開く。

『よう耐えた。よう繋いでくれた』

 首は浮き上がり、唐突に吹き荒れた瘴気の渦に紛れたかと思うと闇色の衣へと転じ、失われたはずの胴と四肢を象った。顔はノーニャ。しかし頭に響く声を框はもっと古くから知っている。

「……むつき?」

 自分の影からノーニャへと移った闇色の怪人に戸惑いながら呼びかけると、不敵な笑みが返ってきた。

『無論じゃ。でかしたぞ小娘――いや、框。褒めてつかわそう。余と汝を結ぶ術式は崩れ、奪われた名と力は余の下へと還った。故に汝は余の主ではない。じゃが望みは叶えてやろう。余と汝の等しき敵を、討たずば腹が治まらぬ』

 噤は舌打ちをして復活した闇渡へ敵意を飛ばした。

「鬱陶しい! 吸血鬼の術式を頼りに再構成したのね?」

『肉体を消し飛ばすだけでは術式は消えぬ。詰めが甘いのう、外道の蔵守り。……いや、蔵守りは元より外道か。じゃがこれほど相性が良いということは、さてはこの娘の身に宿る術式も……。まったくつくづくロクでもない』

 闇渡が柏手を打つと、地面に這っていた木の根のような瘴気の塊がのたうち噤に襲いかかった。

「くだらない小細工! 瘴気の分際で室倉に立てつくな!」

『蔵守りの血族が細工を軽んじるか。片腹痛いわ』

 噤が張った円の結界に触れると瘴気の根はいとも容易たやすく砕けて散った。

 庇われていることに気付きながら、框は不安でたまらなかった。闇渡がノーニャの体を使って動いている。ノーニャは無事なのか。問いたいことが沢山ある。

 しかし代わりに戦う闇渡の背中が透けていることが、答えのひとつに思えた。

『框、汝にはもっと多くを伝えておきたかった。そればかりは悔やみ切れぬ』

「やめてよ。そういうこと言うの。あんたいっつももっと偉そうだったじゃない」

仮初かりそめの器ではいつも通りにはいかぬよ』

 闇渡は攻撃を防がれながらも前進した。瘴気と結界のぶつかり合いが近くなり、その姿は増々揺らぐ。

『よいか。これから伝えしこと、けっして忘れてはならぬぞ』

「……やだ。聞きたくない」

『仕様の無いことを申すな。余に残された時は少ない。しかと受け止めよ』

 次々と命が無くなっていくのを見せつけられて、闇渡が戻って喜んだ。しかしそれはすぐに立ち消えるまやかしだったと知って框は涙ぐむ。

 小さな頃から一緒に過ごした妖魔。それは正しい存在でも正しい在り方でもなかったのだろうけれど、不思議と嫌な印象は最初から感じなかった。長く過ごして掛け替えのない友達のような気持ちでいた。

 母に教わった料理の手順を憶えておいてくれて、あとから教え直してくれたのは闇渡だ。塀二から邪険に扱われたときには励ましてくれて、逆に塀二を叱ってもくれた。

 その付き合いが今日で終わる。

『蔵守りの小僧のことは案ずるな。彼奴きゃつは今、室倉に伝わるものの中で恐らくは最も厄介なものを継承しているところじゃ。必ず戻って参るであろう』

 少し安心しながら、続く最期の言葉を聞く。

『汝が蔵守りの小僧と離れぬつもりでいることは承知しておる。ならば心せよ。小僧はこの先大きな過ちを犯す。どうしてもそうせずにはおられぬ立場に在るがゆえに』

「それって、どういう――?」

『仔細を語るほど読めてはおらぬ。あとは赤月八を捜して頼れ。いかに時が流れようと、あの一族は決まって気が良い。……さあ、話はこれでしまいじゃ』

「……ありがとう」

 掛け替えのない友人の最後に万感を込めるなら、その言葉しか思いつかなかった。

『ああ、框。汝との日々は楽しかったぞ』

 闇渡は振り返って框にほほ笑みかける。その足元と頭上に円形の結界が浮かんだ。

「グダグダやってないで、さっさと片付け!」

 二つの円が繋がって円柱を結ぶ、その寸前に闇渡の姿は煙となって流れた。狼と戦った際に見せた、自身を分解させての移動術だ。

 煙は呆気に取られる噤の眼前へと収束する。

『余の力すべて汝に託す。甦れ吸血鬼!』

 覆い被さるように重なった唇を、噤は一瞬の間もなく嫌悪の表情で突き飛ばした。すぐさま袖で口を拭って唾を吐く。

あなどるんじゃないわよ! 舌なんかとっくに引っこ抜いてあるんだから。室倉が意思を伝えるのに声なんて要らな――あらっ?」

 吸血鬼と呼称されるノーニャの一族は他者の精気を吸って力を増す。その際舌と舌を介するのをあくまでも効率を考慮した話だということを、噤は膝を折り地面に手を付きながら思い出した。

「でも、こんなにだなんて……」

「侮られて困る? ミートゥ」

 突き飛ばした黒い遺骸からは妖魔の気配が消えていたはずだった。それが明らかに意思を持って地面を転がり、挙句に体勢を立て直して身構えた。姿は闇の怪人のままその表情からは険しさが消えている。

「地球守り所属、グズ守りさん管理下、ノーニャ・ツィーグラフダフ。地獄から戻るが相応の吸血鬼。白木は打った? 十字架に聖水は? どちらもナシなら『やったか?』なんてソーアーリー」

 まずは框に微笑みかけ、そして相対する。今度は敵として間違えずに。

たばかりの便りでもそれを頼りにここで繋いだ絆がある。言葉を教えてくれたことは感謝しマス。おかげでここで学べたデス。命を繋いで死んでいく、おじいちゃんおばあちゃんたちが繰り返してきた、その意味と価値」

「ノーニャ、それじゃあんたもやっぱり……」

 死者が蘇った。そんな風に感じるのは二度目のぬか喜びだと框は察した。

 奪った精気でムリヤリ引き戻した意識に、体は瘴気で固めたまま。どちらも覚めれば消えてしまう夢の出来事に過ぎない。

「グズ守りさんと仲良く――穢蛭」

 ノーニャの首筋から使い魔が框に向かって飛んだ。町の結界に吸い取られたままの軟弱ではなく、闇渡から受け継いだ瘴気に満ち満ちた本来以上の力だ。

 不透明な何かに包まれ、框は心も体も楽になっていくのを感じた。呆けていく意識の中、向き合ったノーニャと噤を眺める。

「さあ、自分で名付けた使い魔に倒させる皮肉なやつにしてやるデス。仇鼬!」

 決意の瞳に涙を貯めて、ノーニャが吠える。受けた噤はうんざりと気だるげだった。

「瘴気相手に室倉が不利に転ぶことなんてないのに」

 放った使い魔を迎え撃つ円の結界。直線に伸びるシンプルな斬撃はそれで弾かれるはずだった。

 だがその結界は接触の前に燃え落ちる。鼬の一撃を受けた噤の胸から鮮血が飛ぶ。

『なら浄気が相手だとどうだい?』

「すいませぇん! 加勢を呼ぶのにうんと時間がかかりました!」

 振り向けば塀の上に人影がふたつ、八百屋お七とプルートの姿があった。門の方からは框が知っている声も聞こえる。

「ちょっとちょっと、何が起こってるのよ。框ぃー! 平気なのー?」

「フフッ、ここは我ら闇の使徒が踊る舞台。力無き者は去るがいい。……入れない。クッ! 組織の連中め、ここでも邪魔をするのか」

「ちょっとお七さーん。入れないんだけど、もしかして結界? ちょっと焼いてもらえないかな」

 穢蛭に包まれ意識がぼんやりしている框は問答を聞いて「いらっしゃい」と呟いた。途端に室倉家の結界は客を受け入れ、框の下へと猫美が駆けてくる。

「ちょっとコレどういう状況になってんのよ! ……大丈夫なのぉ?」

 猫美は血まみれで座り込んでいる框を見るなり迷わず穢蛭の中へ飛び込むと、途端に脱力して框にしなだれかかった。框は迷惑そうに顔を歪ませる。

「なに急に? しっかりしなさいよ」

「それ、ムリぃ……」

 穢蛭が司る〝怠惰〟の呪に当てられた結果だった。瘴気に特別な耐性を持つ框のようにはいかない。

「役立たず!」

「あによぉ、心配して来たのにぃ」

 ふたりが悶着するそこへ、黒のフリルセーラーへと着替えた夢玖が現れる。

「覚悟が足りぬ者はそこで見ていればいい。敵が何であれ、立ち塞がるのが誰であれ、オレひとりだけで釣りがくる」

 堂々とした足取りは事態を何一つわかっていないことなどまるで感じさせずに、庭へ踏み入るなりノーニャを睨んだ。すかさずプルートから「そっちじゃないです」と首の向きを噤へと修正されても何事もなかったかのように続ける。

「オレの名はカオス! 死の天使を駆り、やがて死の天使に狩られる者。哀れな敵よ、不運も無力も嘆くことはない。闇はより深き闇に呑まれる運命なのだ」

 登場するなり勝ち誇られた噤は血を流す肩口を押さえながら憎々しげに歯を食いしばった。周囲に無数の円の結界が浮かんでも逐一八百屋お七が焼き払う。

「クソッ! クソッ! てめえらふざけんなよ! ふざけんなよ!」

 急に荒い言葉で喚き立てる噤を見て、框は心を疼かせた。

 既に勝負は着いている。ならば、もういいのではないかと。塀二さえ戻れば彼女を無力化してくれるだろうから、それまで待てないかと。穢蛭の効果でいくらか感情が麻痺していることも手伝って普段以上の甘さが出ている。

 しかしその想いも一歩踏み出すノーニャの横顔を見て引っ込んだ。言葉を挟むのをためらうほど悲痛に歪んでいる。

「墓に花を供えてあげられないことは心残りデス。アナタの為にできるコト、せめて――苦しまないよう一瞬で!」

 空高く飛び上がって、両腕を掲げる。そこに幾つもの獣が宿るのが見えた。使い魔を一斉に叩きつける、ノーニャの瞬間最大攻撃力。結界は八百屋お七に焼かれる以上、噤には防ぐ手立てがない。

 最後の瞬間を見たくない框が目を逸らす寸前、噤が口の端を持ち上げるのが見えた。

「面白い奴を連れて来てくれたじゃないの。塀二ちゃん、ちょっと借りるわね」

 ギラギラした瞳は夢玖を守って身構えるプルートを捉えている。その意味を理解できる者はこの場に誰もいなかった。

 噤が傷口から手を離し長大な妙禁毛を振り上げて地面に突き立てる。

 途端、声を上げる間もなくプルートの姿が消え、代わりに地面から迫り上がってくるものが現れた。

 高く聳え立った巨大なそれは、跳躍した位置から更に高くノーニャが驚愕して見上げるその姿は――。

「マーガレット……?」

 町の結界に残っていた思念を元に再構築されたそれ・・は瞳に意思の光を持たない。無機質に、石像が動くような素振りで固めた拳をノーニャへと振り下ろした。

 誰かの悲鳴を、高笑いがかき消した。


「ハハハハ! 死ね! 今度こそ死ね……はぁ?」

 しかし嘲笑は歓喜のまま結ばれずに立ち消えした。ノーニャが地面へと叩きつけられなかったからだ。

 戦意を失って硬直するノーニャと、激突寸前の巨大なマーガレットの拳が立方体の枠に捉われて静止している。そこだけが時間が止まったかのようだ。

 見上げる視界を遮る背中を前に、框は涙を流した。

「ああ……おかえり、塀二」

 何よりも頼もしく、何も負わせたくはない背中。塀二が戻って来た。

「粗末な術式を得意げに晒すな。散れ」

 枠のみの立方体と巨大マーガレットの姿が揺らいで消え、ノーニャが塀二の腕の中に落ちてきた。ノーニャは安堵し切って表情を緩ませる。

「グズ守りさん、あとは……」

 ノーニャの体が風に溶けるようにして霞んでなくなる。瘴気で補った胴と四肢だけでなく、首までもが同様だった。最期まで勇敢に戦って弔う遺体も残らない。

 しかしそのことを気にして悲しむよりも、框の中では違和感と不安のほうが勝っていた。闇渡がここにいれば今すぐ尋ねている。しかしそれはもうできない。

「塀二……? ねえ、あんたさ……」

 間違いなく見知っている彼。風呂上がりでロクに乾かさないものだから風邪をひかないか心配になるボサボサの癖っ毛から、固いペンダコができている指の先まで。どこひとつをとっても今更確認するまでもないほどよく知っている。

 でもどこか違わないだろうか。失われていくさまを見たのに態度が冷たすぎるような、むしろノーニャもマーガレットも彼が消したような素振りさえあった。

 振り返って自分を見る眼も淡白。まるで物を見るかのようだ。

 疑問は、框に代わって噤がハッキリと口にした。

「……お前は誰だ!?」

 敵も味方もズタズタにしてまで会いたがった弟の姿を前にしてそんなことを言う。やはりそうなのだと框は確信した。

 今日学校で猫美が騒動を起こしたような、中身の入れ替わりが今度は塀二の身に起きている。

 塀二の姿をした者は緩慢な動きで噤を見やる。

「愚問だな。問うは恥、信じれば意志のかじを握られる。他者の思考を己の内に取り込むな。術士ならば傲慢であれ。目に映るものは光の反射、耳に聞こえるものは大気の振動。この世に在ると信じるものはすべて世界という現象を受け止めた自分の〝感想〟に過ぎない。『我考える故に全あり』だ。今目の前にいるのはなんであるか、それを決めるのは己以外にない。わからないか? わからないから、聞くんだろうが」

 長く吐かれたため息が噤を刺激した。

「フザけるんじゃないわよ! 塀二ちゃんを返しなさい!」

 十指を自在に操り空中へ幾つも円を描く。四方八方を結界で取り囲み圧殺する動きがあったが、忽然と現れた立方体に残らず弾かれた。

「どうしてっ? 今、どうやって?」

 例えば舌を動かすような隠れた動作があったとしても噤には見抜くことができる。しかしそれもなかった。両手は腰のポケットへ差し込んだままで、まるで考えたことをそのまま実現させたような、完全なる無指による結界展開。

「室倉でありながら円を描くようなクズにはわからんさ。大方、結界を〝安定〟と心得こころえ違いをしている腹だろう。違うぞ。結界とは緊張と理を表す」

「塀二ちゃんの体を乗っ取り、室倉について語る、お前は何者だ!? 言え!」

「懲りずに問うか」

 心底呆れた風に笑う。

「まあいい、答えてやろう。無論、我は室倉。……四代よだい室倉」

 守り伝えることを唯一の伝統とする室倉一族は、歴史があることを格式としては重んじない。それを敢えて数えるなら塀二が六十五代目となる。その六十一代前、室倉家の代替わりが早いとは言っても軽く千年以上古い時代から蘇ってきたということになる。

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