血の争い

 日本国内四大妖部第二位、滝箕祢たきみね家。滝箕祢行護あんごはその現当主である。地球守りが彼を乱射される最終兵器ノーレストアサルトと呼び常に戦闘の最前線へと送る理由は、彼の一族が戦闘能力に関して妖部の中で群を抜くからだ。

 また依霊は瘴気や浄気によってその性質が揺れやすく、敵に回れば損失が大きいためにそうそう表へ出ない。比べて精神性が人間と変わらない妖部は扱いやすい。軽んじられているがゆえに重用される。

 地球守りの支部が次々と壊滅させられている現状で彼がその犯人捜しを任されるのも自然な流れだった。

 〝天狗〟と通称される滝箕祢は依霊にも肉薄する尋常ならざる怪力を持ち、雷を発し、一族に伝わる特殊な格闘術を操る。相手が依霊であっても罠があっても関係ない。発見次第叩き潰す。そのつもりで彼は一心不乱に追跡した。

 確かに地球守りは壊滅の危機に瀕してはいるが、それに仇をなす反・地球守りもまた万全であるはずがなかった。元々ひとつの地球守りを構成していた依霊に等しく危機は訪れたからこそ、敵は離反したのだから必ず弱っている。

 そのはずが、追跡の果てに遭遇した敵を前に、行護は叩き潰すどころか苦も無く屈服させられてしまった。帯同していた依霊は既に消滅している。

「こんなバカな……。こんなはずがあるか!」

 いくら吠えても地面に伏した膝が伸びない。傷ひとつ負っていないというのに体がまるで言うことを聞かない。不意打ちを喰らわせるところが届かず、互いに触れずにこの状況に陥ってしまった。

 目の前の女が痩せた頬を膨らませて子供のように笑う。

「嬉しいわ。最強滝箕祢を殺せるなんて、こんな栄誉は無いものね」

 そんな言葉を上から浴びせられるなど、滝箕祢にとっては許しがたい屈辱だ。しかしどうすることもできない。

「てめぇ、さっきの防御はまるでアイツの――!」

 出会い頭に飛び掛かったとき、壁に弾かれた。その壁に行護は見覚えがあった。

 どんな依霊であっても罠があっても構わない。しかしもしそうなら、警戒すべき要素があるとするなら。

 女は手を打ち合わせ、嬉しそうな声を上げた。

「あら! あなた弟を知っているの?」



 耳に入る言葉をノートへ書き取る手を止めて框が顔を上げた。そうして気を反らすのはもう何度目か、憶えてもいられない。

「どないしたん? お勉強は苦手言うてたけど、もう飽きたん?」

 炬燵の向かいで一番新しい居候、春日居は微笑む。小首を傾げて見せるとと白い喉に光が当たって、ただの蛍光灯なのに同性から見ても色っぽいのがなぜか悔しい。

「別にそんなことないけど、そろそろ夕飯の支度しないとと思って」

 春日居はいつも笑顔を讃えてはいるけれど、取り繕ったもののように感じる。それでも信用できないとまでは思わない。何よりあれこれ聞かせてくれる情報は塀二では教えてくれない内容なのでとても貴重だった。

「ごまかしは無しにしぃな。集中できてへん理由は、あのふたりが中々戻ってぉへんからやろ? 今頃どこぞであんじょう仲良ぅ――なんて思たら、そら勉強どころじゃないわなあ」

 塀二が猫美を連れ立って出かけた昼頃からかなり時間が経って今はもう夕方だ。事情を説明しがてら家まで送ってくるだけだと言っていたのに。

「そんな心配してない! お昼食べてないのにとか、そういうことは考えるけど」

 机をバンと叩いて、框はそそくさと居間を出て行った。台所ではなく玄関の方へ行ったので言葉では否定してもやはり気になるらしい。

「……可愛いもんやなあ」

 春日居が鼻で笑うと、隣でノーニャが小さく唸った。

「うー……ここの所、もっかい教えてプリーズ」

 春日居が框に講義をしている間、一緒になって学ぼうとしていたのは勿論気付いていたが、春日居に要求を受け入れるつもりはない。

「勝手に聞く分にはええけど、別個にあんたの相手する義理はあらへん。大体『ここの所』とか言われても、読めへんし」

 ノーニャはノート代わりにチラシの裏を使い、彼女の母国語で書かれているせいで春日居にそれを読むことができなかった。

「意地悪言わず教えてくだしーまし。個人が強くなるのは地球守りも喜ぶと思うデス」

「妖部を危険視してるんやから、余計な力を付けさせたら怒られるんと違う?」

 縋るノーニャを春日居が押し退けていると、框が戻って来た。手に複数のプリントと、封筒を手にしている。

「へえ、ここ郵便物なんか届くん? 結界でなんもかんも弾くと思うてた」

「回覧板とか地域のお知らせとか、ご近所づきあいがあるから。迷惑チラシは来ないようにしてるらしいけど……。なんか変なのが来てる。なんだろコレ」

 そう言った框が掲げた封筒は青と赤で縁取られたエアメール。読めない宛名ののたくった線は、ノーニャがチラシに書き込んだものと同じだった。

「オウ! 親愛なるペンパル!」

 言うが早いか封筒を引っ手繰たぐり、喜びのまま破いて開いた。そんな話を聞いたように思い出した框は「ああ」と頷く。

「日本語を教えてくれたっていう、文通相手?」

「イエス! 使い魔の名前も考えてもらった仲良しデス。『8匹ペット飼ってる』ってことにして、漢字の名前を。これだけは書けるように憶えたデス」

 そう言って、ノーニャはすらすらとチラシの裏に書き付けた。それを見て、框は不審に眉を顰める。

 禍蛇まがへび穢蛭けがれひる仇鼬あだいたち忌鮫きさめ怨蜘蛛おんぐも卑熊ひぐま病蜂やんぱち淀鼠よどねずみ

 知る限り、どれも嫌な意味の字ばかりが使われている。「ペットの名前考えて」と頼まれて出て来るとはとても考えられない。ノーニャはそれを知らないようでニコニコと自慢げにした。

 あくまで不審に感じる程度の框の横で、放り出された空の封筒を手に取った春日居はずっと深刻に驚愕していた。

「差出人の名前……なんでなん? 〝ムロクラ〟って書いてある気がするんやけど」

「フーム? よくある名前なのでは?」

 一気に顔色を悪くする春日居に構わず、ノーニャは便箋に視線を戻し喜びの声を上げた。

「ワオ! 遊びに来てくれるそうデス! 日本にいるなら折角だから会いたいと思っていたのでハッピーサプライズ! 早速おもてなしの準備をせねば! どーぞ手伝って下しーまし!」

 はしゃぐノーニャに手を上下へ揺すられ、事態がよくわかっていなかった框は根本的なところに思い当たった。

「待ってよノーニャ。あんたいつ相手にココの住所を報せたの? どうしてあんた宛ての手紙がここに届くの?」

 異常事態を把握して、ノーニャの顔つきが喜びから一転緊迫した。

 そこへ、玄関の呼び鈴が鳴った。狼の記憶が新しい框は警戒を露わにする

「むつき、どう……?」

『蔵守りの気配を感じるが、小僧とは思わぬ方が……よいであろうな』

 春日居の震える指が持つ封筒に書かれた名前はツグミ・ムロクラ。誰も応答されないうちに、来客が鍵と結界で守られた戸を開く音が三人には聞こえた。



 寺での儀式を終えた塀二は猫美を軒下家の前まで送った。

「なんか私思い詰め過ぎて変なこと考えてたみたいで、恥ずかしいなあ。でもさ、框のことは……ちゃんとケジメ付けてあげてね」

 照れ顏でぎこちなく笑う猫美に、塀二は黙って頷き軽く手を挙げてその場を去った。

 しばらく歩き上着から巾着袋を取り出して眺める。

 自分に向けられた恋心を、この呪具で消し去った。マトモに顔向けできるはずがない。それが最善だと納得しても非が無いとまでは信じられない。他人と深く関わるごとに罪悪感が増し自己嫌悪は強くなる。

(俺はもう框のことだけ悩んでいたいのになあ……)

 この件は框にも話せない。知ればきっとあのお人好しは怒るに違いなかった。「あたしの親友に催眠術をかけるな」とトンチンカンに憤慨する様子が目に浮かぶ。かと言って黙っていても勘付かれる気がした。

 框は目に見えないどこかの出来事には呆れるほど鈍感だが、手の届くところの問題には時々ヒヤリとするほどの鋭敏さを発揮する。親友の変化に気が付くのもすぐだろう。

(オカズ減らされるとかは別にいいけど、あいつを怒らせたってこと自体がヘコむんだよなあ……)

 鬱々とした気持ちを引きずってフラフラと、まっすぐ帰宅する気にはなれず寄り道に町の結界をいじる。その内に空腹に負け家路を選んだ。

 空を見れば既に光を失いつつある黄昏時。活発化する瘴気が邪悪を呼び覚ます時間帯だ。塀二はもう「この町には結界があるから大丈夫」とは楽観しない。

 それでも、寄り道をしてしまった。このあとそれを何度も後悔することになる。


 塀二が室倉家の前に着くと、妙な静けさが気になった。

(あれ? なんだ、誰もいないのか。……それで当たり前なのにな)

 ここ数日忘れていた孤独感をくすぐられたことを自覚して自嘲する。それもまた宿命のひとつだったはずなのに、随分と変えられている。

(急に人数増えたし、食材に買いに出かけたとかそんなとこだろ)

 気にせず敷地に入り戸の前に立つと、嗅覚を突く刺激があった。鼻よりも喉にまとわりつくような、嫌な臭いで眉間にしわが寄る。

 鍵がかかっていなかった引き戸を勢いよく開け放つと途端にむせ返るほど酷くなった。これは血の匂いだ。怒りと恐怖の思念も残り香のように漂っている。

(これは……!)

 一瞬、頭の中で様々な感情と衝動が駆け巡って、深呼吸を一つ置く。それからは慎重に一歩を進めた。靴は脱がずそのまま床板を踏む。

 室倉家は玄関を上がればすぐ左に台所、そして右に居間がある。そのどちらからも物音がしない。あれだけ騒がしかった日常が遠のいている。

 首を巡らせ足先を滑らせるようにして探索すると台所は無人。そして居間には血溜まりが広がっていた。敷布と畳を赤く染め、照明の光を鈍く反射させている。

 凄惨な光景の中心にいるのは春日居だ。着物の裾を乱して足を開き、その股から帯の下にあるべき腹まで無残に裂かれている。明らかな致命傷だ。当人に意識はなく力なく手を首を垂れ炬燵を背もたれに固まっている。

 あまりの状況に見入っていると、廊下の奥から何かが近付いてきた。

 細身の女が床に顔を擦り付けながら這っている。肘を立て裸足の爪先を滑らせ、何かを小声で呟き、やたらに長い髪を鬱陶しそうに払いながら塀二がいる方へと向かってくる。

 この異常事態を作り出したに違いない人物の正体を看破し、罰を与えなくてはならない。しかし室倉の知覚がその正体のほんのさわりを掴んだ時点で塀二の瞳は揺れた。

「そんな馬鹿な」

 思わず出た声に気付いた女が動きを止めた。首を持ち上げにんまりと嬉しそうに笑う。執拗なまでにレースで飾られた長いワンピースは季節に不似合いな薄着で、髪からは長いかんざしが突き出している。

 その顔を見て塀二は戦慄した。いつも疲れが抜けない表情でやつれていた父が、術や呪具の勉強をすると褒めてくれたときの面影があった。何より自分に似ている。

「ヤダわ、君が悪いところを見せちゃったね」

 両手で床を突き、勢いよく女が体を起こす。不安定に糸で吊られているような、斜めに傾いだ奇怪な立ち方だった。

「でも塀二ちゃん、あなたが悪いのよ? あなた自分のことなんにも教えてくれないんだもの。あなたがこの家でどう過ごしていたか、思念を探って調べるしか仕方ないじゃない。初めまして。室倉つぐみ、あなたのお姉ちゃんよ」

 ガラガラと掠れた声は甚だ不快で、旧知の仲かのように語っておいて、「初めまして」と告げる。辻褄が合わない。しかも肉親だと言う。

 大きく見開いた目は光を飲み込む闇のようで生気も意思も感じない。肌が白いというより顔色が悪く、ところどころに青筋が透けている。そのくせ表情だけは活発。彼女は超常かつ異常なのだと塀二は察した。

「ああ! どんなに会いたかったか! もっと顔をよく見せてちょうだい!」

 雑な足取りで走り込んできた相手に、塀二は両手を上げ身構え拒絶する。

「嘘だ! 俺に姉がいるなんて話、父さんから聞いてない!」

「やだわ、言うわけないじゃないそんなこと。だって室倉の仕事に関係ないことなんだもの。そう言えばあの男、死んだんですってね? ――ざまあみろクズ!」

 塀二の態度を見て立ち止まり不思議そうに小首を傾げたかと思うと、突然口汚く吐き捨てる。怒りと憎しみは心底からの本音だと思念で感じた。

「フザけんな! お前が姉なわけねえだろ!」

 もし本当に肉親ならばあの父をそんな風に罵るはずがない。そう信じたい気持ちは強い。だが室倉の知覚は彼女が同族であることを既に認めていた。絶対に認めたくないのに、どうしても室倉だった。室倉家の中でその存在がおぼろげになるほど周囲に残された思念と波長が同化している。

「塀二ちゃんはきちんと教わったんなら知っているでしょう? 室倉家は男子のみの一子相伝。産まれた子供が女なら捨てられるの。と言っても地球守りが厳重に管理するんだけどね。そのせいで弟が産まれたのに会えないなんて、おかしいじゃない?」

 ニコニコ笑う女の両手が塀二の頬に触れる。心臓まで凍りそうなほど冷たかったが、掌には血が渇いていた。その血に宿る、春日居の無念が伝わってきて目に涙が滲んだ。

「しかもあなたはまだ十二歳なのに、もう春日居が派遣されたっていうじゃない。お姉ちゃんビックリして飛んできちゃったわよ。でも間に合ってよかったわ。あの女、まだ・・みたいだったから」

「そんなことの為に――春日居の腹を裂いたのか!」

 驚きで麻痺していた塀二の感情に熱が戻る。

「あんたがここにいるのは反・地球守りが手引きしたからだな。そいつらに妙なこと吹き込まれたのか。室倉のくせにたぶらかされやがって!」

 蔵で聞いた妖魔の警告――「黒玉の姫」の正体がやっとわかった。この破綻者を作り出した闇というのが敵方の依霊だ。磨かれ研ぎ澄まされた切っ先となってここ室倉家を穿った。

 その連中にはもちろん、そんなことが起こっているのに打ち明けなかった地球守りにも憤りが募る。弱味を見せたくないからと言って窮状を招いてどうするというのか。

「こらっ、お姉ちゃんに向かって『あんた』なんて言っちゃダメでしょ?」

 伸びた爪で塀二の額を突き、腰に手を当ていかにも「怒った」というポーズを取る。

「あんな女殺したって、そんなに怒ることないでしょう? 塀二ちゃん、あなたは春日居一族が妖部に何をしているか知らないのね……。春日居の血はね? 妖部の力を衰えさせるの。遺伝の強制なんて地球守りの嘘だわ。あいつら、春日居の血を混ぜて妖部を少しずつ弱らせたかったのよ」

 それは事実かもしれない。地球守りは自分たちに対抗する力を持つ妖部を恐れている。雑に使える先兵としては必要としながらも疎んじているはずだ。少なくとも「仲間」とは考えていない。

「でももう終わり! 地球守りの支部はほとんどお姉ちゃんが潰したから。これからは塀二ちゃんとお姉ちゃんで自由に、ふたりで幸せに暮らそうね!」

 満面の笑みで恐ろしいことを言う。

 地球守り支部の続発的な壊滅。同じ話をサンタクロースに聞かされた時には疑われるのが嫌で言わなかったが、手際の良さから術士が絡んでいるとは読んでいた。しかしそれがまさか身内とは、考えもしない。

「馬鹿が! そそのかされて手駒になった奴に自由なんかあるか! 依霊がいなくなったら地球意思を誰が守る? 地球意思は龍脈そのものだ。ただでさえ沈黙して不安定になってるのに、依霊っていう捌け口を失くしたらどういうことになるか、あんたも術士ならわかるだろうが!」

 原初の時代、生命が意識らしい意識を持たなかった頃から気の遠くなる時間をかけて意思エネルギーを蓄えた地球意思。それが暴走して起こる災害は地球規模になる。天変地異だ。世界が終わる。

「何言ってるの? 人類が滅んだって、妖部は生き残れるから平気よ」

 愕然として、言葉を失った。

 この狂女は何を言っているんだろう。地球意思を踏み台にして代替わりを行おうというのか。

「大丈夫、お姉ちゃんに任せなさい。〝光烏ひかりがらす〟は今ここにあるのよね? あれなら地球意思だって簡単に殺せるわ」

 易々とまたも恐ろしいことを言う。

 無形のエネルギーを片端から刈り取り吸収する力を持つ〝災級〟呪具、光烏ひかりがらす。理屈だけなら地球意思にも通用する。しかし元は妖魔だったという光烏ひかりがらすが、明らかに格上の存在を飲み込んで無事で済むかを考えれば道理を外れる。上手くいったところで封印が解けより強力になった妖魔を次に相手にすることになることは容易に想像できる。

「地球意思さえ崩壊すればまだ残ってる依霊は自動的に一掃される。あとの妖部はそんなに苦労せず支配できるわよ。邪魔な滝箕祢はもう潰しておいたし」

 驚いてから、地球守り支部が次々潰されていると聞いた時点でわかっておくべきだったと己を叱咤する。彼は必ず追跡に差し向けられたはずで、それでもこの女がここにいるのなら、そういうことだ。

「あ、信じられないのね? ふふっ、滝箕祢が〝最強〟なのは『そう思わされているから』なの。滝箕祢と室倉は跡継ぎ同士で戦わされる変な儀式があるんでしょう? それだって術士の室倉に『敵わない』と思わせておかないと怖くて仕方ないから、未熟なうちに叩いておこうって言う姑息な発想からきてるの。知らなかったでしょう?」

 塀二もそれには薄々気付いてはいた。しかしそういう問題ではない。滝箕祢が最強でなくてはいけないのは、そうでなくては不都合があるからだ。

 現在国内妖部三位である菱木田家は、かつて今以上に立派な重鎮であった。ところがある時代に身内争いを起こし、他の一族や依霊妖魔をも巻き込む戦争状態に突入する。それを圧倒的な武力によって治めたのが滝箕祢家だった。

 そのときに菱木田家は一度滅び、現存しているのは諍いのきっかけを作った分家となっている。当時の罪を忘れないよう家名を〝日陰菱木田〟と改める形で。

 そうした事件があったからこそ妖部は地球守りによって支配され、跡継ぎや伝承を管理されることとなっている。しかしそれだけでは足りない。平穏を維持するには滝箕祢という図抜けた強者が必要なのだ。仮にそれが幻想だとしても。

 ここにいる女は、それもわからずに荒らし回っている。

(本当に世界を滅ぼすつもりなのか……?)

 驚きで二の句を告げずにいた塀二の耳に、微かな声が届いた。

「……塀二」

 聞き違うはずがない。耳に馴染んだ心地良い声。それが消え入りそうに震えている。

 反射的に、声のした方へと駆け出した。春日居の脇を通り居間を抜け、廊下に立って庭を見渡す。開け放たれたガラス戸の先に框が居た。

 地べたにへたり込み離れていてもわかるほどガタガタと震えている姿を見て塀二は顔を歪めつつも庭へ降り足早に近寄る。

「……ケガはないか」

 框の影には妖魔の気配が無かった。瘴気は周囲に漂っているがまとまりはなく、縛り留める術式が完全に消されている。だからこそ塀二は框がここにいないと間違え、静けさを感じた。だがそうではなかった。誰がやったかは考えるまでもない。

「ノーニャの、友達が来て……塀二のお姉さんだって……」

 どんな超常に遭遇しても呆れるくらい平然と構えていた框が見せる、怯え切った動揺が痛ましい。

「こ、これ……助けられる?」

 そう言って框が差し出したのは、ノーニャの首だった。そこから下は無く突き出た頸椎から血が滴っている。

 塀二は言葉を返すことができず、嘆きの表情のまま固まったノーニャの瞼を押さえて閉じた。その瞬間、「どうして」という遺された思念が伝わってくる。

「地球守りが嫌いみたいだから仲間にできると思ったのに、姉の私より先にあなたと一緒に暮らすなんて許せなかったのよ」

 塀二を追って、噤が廊下に現れた。

「そのアバズレも殺したかったんだけど、塀二ちゃんの前で謝らせてからにしようと思って。さあ、早く『大切な弟をたぶらかしてすいませんでした』って土下座してくれる? 急いでよね。その汚い股ぐちゃぐちゃにしてドブに捨てたいのよ」

 静かな凄みが距離を超えて迫って来るようで、框は小さく悲鳴を上げノーニャの首を腹に抱え庇うように身を捩った。

 塀二が肩越しに後ろを向くと、庭に落ちていた見覚えのない棒きれが目に入った。実物を見るのは初めてだが、室倉家に伝わる資料でそれが何かは知っている。呪具だ。室倉家で管理されていた物ではない。

 損級呪具、介錯棒かいしゃくぼう。打たれれば自責の念が強い者ほど深刻な傷を負うという効果を持った呪具だ。負い目、罪悪感を抱えた相手に対して強力な武器となる。

 ノーニャが首だけ残して体が見当たらないのは、それほど激しい罪の意識があったということなのだろう。かつて支部を守れなかったことへなのか、そこから逃げ出したことへなのか、それとも別に理由があるのか。今となっては尋ねることもできない。

「ざまあないな室倉!」

 突然に、上から罵声を浴びせられた。見上げると屋根の上に誰かがいる。人ではない。依霊だ。黒い衣をまとった少年の姿。指先に橙の炎を灯しては消してヘラヘラと笑っている。

 軽薄と横暴の具現、ジャックオランタン。悪戯心から生まれ時代の影響を受けにくく現代でも強い力を残している依霊だ。

「ヘイ、どうするよ? このままじゃお前も死ぬぜ? 二択だ。こっちに着くか、死ぬか、選びやがれ!」

「塀二ちゃんに乱暴な口を利くな」

 噤が腕を伸ばすとどこからか飛んで来た大きな筆がその手の内に収まった。庭を掃く竹箒たけぼうきのようなサイズだが、先端は柔らかい毛で出来ている。おそらく人毛。塀二も扱っていた妙禁毛と同種のものであると察した。

「てめえ! なにしやがる!」

 噤が舞うように大妙禁毛を振って円を描くと、ジャックオランタンが光の帯で絡め取られた。結界による捕縛術だ。たまらず苦しみの声が轟いた。

「なにしやがる! てめえも二択で選んだろうが! 弟に会う為に地球守りと人類をぶち殺すって誓ったくせに!」

「だから、もうやったでしょう? 私は塀二ちゃんとここで暮らすの。その為に地球守りも、お前ら反・地球守りも潰したんだから」

「なにっ!? てめえ――」

 最後の、恨み言を吐き切る前にジャックオランタンは弾けて光に変わった。一切の容赦も躊躇もなく、一瞬にして依霊が消滅させられてしまうさまを塀二はただ見上げていた。

 同じ術士だからこそわかる。自分とは力量の次元が違う。策と備えで弱点を突くわけではなく、力任せに叩き潰す。そんな冗談はとてもマネできない。

「だからって……退けねえよ」

 立ち上がり、足元の框に背を向けた。何か言葉をかけて慰めるべきだろうが、とてもそれができる心境にはなかった。怒りと悲しみでグラグラと腸が煮え、自分さえ落ち着かせられない。

「室倉家当主――室倉塀二の名において、あんたを〝災級〟の危険因子と認定し、これを折伏する」

「もう、塀二ちゃん! 『あんた』はやめてって言ってるじゃない。お姉ちゃんは妖魔じゃないよ? 塀二ちゃんと同じ、この世に二人だけの室倉なんだから」

「いいや、あんたは室倉じゃない」

「どうしてよ。塀二ちゃんにはわかるでしょ? お姉ちゃんが、お姉ちゃんだって」

 話が通じないなりに、この相手にはどうしてもわからせてやりたい。

 塀二は大きく息を吐き、それから厳しい目つきで敵を睨んだ。

「呪具の扱いが雑だ。依霊に対して非情すぎる。自分の都合で振り回して用が済んだらポイ捨てなんて、室倉がやることじゃないんだよ」

 可能なら対話し、それでも駄目なら封印して未来に託す。それが室倉だ。狼は諦めるしかなかったが、ペストの時にはそうした。

「地球守りも反・地球守りも区別しない。善も悪も関係ない。室倉は呪具と封印妖魔を守るだけだ。それを軽んじる輩に……室倉は名乗らせねえ!」

 塀二が放つと同様の敵意が、噤の瞳にも宿る。ただし視線は重ならない。

「……その女ね? その女に言わされてるのね? 大丈夫よ、塀二ちゃん。今すぐお姉ちゃんが助けてあげる!」

 大股で庭へ踏み出して来た噤へ向け、塀二は舌を動かし四角を切った。放たれた結界は噤が大妙禁毛で描いた円に砕かれかき消える。

「くそっ! やっぱり通じねえ!」

「そう、姉弟きょうだいケンカをしたいの? 嬉しいな。お姉ちゃんだって認めてくれるんだね! でもちょっと待って。先にその女を殺さなくっちゃだから」

「させねえよ!」

 舌を動かし指を動かし、同時に幾つもの結界を生み出し押し留めようとするが、どれも成功しない。幾度も水面を打つような音と閃光が瞬くだけで、並のように連射してもたった一枚の円を打ち破れない。

「……塀二ちゃん。あんまり邪魔するとお姉ちゃんでもホントに怒っちゃうんだからね。ちょっとでいいからお利口にしてて」

 笑顔のままの低音で塀二の体が痺れた。言霊の強制力だ。耐性を持つ室倉さえ圧するほどの。

 塀二は苦し紛れに手を伸ばした。庭に落ちている棒きれへ向かって念じると目当ての呪具が手の内に収まる。介錯棒だ。

 それを持って目の前に迫った噤の肩を叩いた。ほとんど触っただけだが、この呪具の威力は腕力を求めない。

「もうっ! 塀二ちゃん? いくら姉弟ケンカでも棒を使うのはダメでしょ? あとでちゃんと叱るからね」

 何も起こらない。いくら室倉の血筋であっても呪具の効果までは回避できない。だというのに介錯棒で打って平然としているということは、この女は過去と現在において何ひとつ『自分が悪いとは思っていない』ということだった。

「あんた……狂ってるよ」

 呆然とする他なかった塀二の横を拗ねた顔で通り抜け、噤が框の前で屈み込む。その耳元へ口を寄せ、ただ一言呟いた。

「死ね」

 途端、ビクンと体を震わせた框は口から大量の血を吐いた。目を白黒させわけもわからず胸元を見下ろす。とっさにノーニャの首にかからないよう遠ざけ、その姿勢を保つことができず横倒しに倒れた。

 言霊によって強制され、肉体が自主的に〝死〟に向かっている。

「框っ!」

 痺れが解けた塀二は半狂乱で叫んでしがみ付いた。

 春日居を殺され、ノーニャを殺され、自分に近付いた者が次々と死んでいく。框は中でも特別だ。絶対に奪われるわけにはいかない。

「心配するな、すぐに助けてやる。――室倉の名において命じる、悪しき呪よ散れ!」

 言霊に言霊をぶつけて框に向けられた命令を撤回する。効果はあったようで、苦痛に歪んでいた框の表情はいくらか安らいだ。

 しかしそれは束の間のことだった。

「室倉の血によって令を伏す」

 噤が再度冷たい言葉を呟き、框が呻く。唇が震え何か言おうとしているが吐血にあぶくを混ぜるばかりで言葉にはならない。

 噤を殴って問答している暇は無かった。

「室倉の名において呪を解く!」

「室倉の血によって令を伏す」

「室倉の名において――死ぬな! 殺すな!」

「ムダよ、塀二ちゃん」

 術士にとって意思はすべての始まり、言葉はすべての基礎。小細工のない力のぶつかり合いで負け、簡単に塗り替えられてしまう。

「なんでだああああ!!!」

 自分は間違いなく室倉家の当主で、父の死によって途中で切り上げられることになったとは言え正当な教育を受けていた。それが突然現れた姉にこうも軽々しくあしらわれるとは、あってはならないことだ。

 框は苦しみが繰り返す中でノーニャの首を差し出し塀二に託そうとしていた。こんな時にまで自分より他を助けろと言っている。

 どうしてこんなことになっているのか。猫美から「ケジメをつけろ」と言われて、結論は出せないまでも今夜のうちに何か伝えようと決めていた。その機会が永遠に失われようとしている。

「……泣くほどのことかしら」

 上から降ってきた声へと塀二が首を向けると、噤は心底不思議でならないという様子で首を傾げていた。

「お前が! お前がぁぁぁ!」

 逆上した塀二が掴みかかろうとするも結界で弾かれ庭を転がる。

「うん。そこでじっとしていてね」

 一層の固く強い言葉の力が重くのしかかって地に押さえ付けられる。体が熱を持つほど力んでいるのに指一本として動かせない。

 丁度顔の高さが框と揃って目が合った。ドシンと響くほど思い切り踏みつけにされた痛みが自分に伝わってくるかのようだった。塀二は自分の心が憎悪で染まっていくのを感じながら高笑いを聴いた。

「塀二ちゃん、もう隠さなくっていいのよ? 可哀想で言えないのならお姉ちゃんが代わりに言ってあげる。こんな女は別に重要じゃないって。だっておかしな妖魔がついてたから面倒を見ていたんでしょう? でもそんなの、お姉ちゃんが払ったから」

 やめろ、言うな。どれだけ懸命に念じても口が動かない。噤の言霊を打ち破れない。

「そう、やろうと思えばできたのよ。そんなこと簡単に。でも室倉にとっては妖魔のほうが大切だから、だからこの女を犠牲にしたの。いい? それだけは弁えて死んでいけ!」

 違う。そうじゃないんだ。言い訳を伝えられずに涙ばかり溢れさせる塀二を見つめて、框はほほ笑んだ。

「知ってた……よ? むつきが、教えてくれたから」

 血で染まった唇で、苦しげに語る。

「お父さんに、頼まれた。塀二のそばにいてって。そうする為の理由なら、あたしは……なんでもよかった」

 確かに塀二にも、無抵抗な封印妖魔を消滅させることは難しくはなかった。それを見過ごしてきたのは室倉の役割があったからだが、それだけが理由ではない。

 自分と框を繋いでいる縁を断ち切ることが塀二には恐ろしかった。必要が無くなれば関われなくなり、独りになる。それが心の底から恐ろしく、嫌だった。

 結界で守られているはずの室倉家に幼い框が侵入できたのは中に迎え入れる思念が働いていたから。塀二は「友達が欲しい」と願っていて、その想いが框を引き入れた。

 その時から今のこの時までずっと、ふたりは『一緒にいたい』と感じていた。

 想いが重なっていることが嬉しくて、窮地にありながら塀二は笑い出したい気分になった。しかし悲鳴を聞いて一時の感情は去る。

「部外者のくせして図々しいんだよ! このメスガキ!」

 噤が框を蹴りつける。大きく仰け反った框はそれきり動かなくなった。

 塀二はどうにか動く眼球で噤を睨み、渾身の気迫を込める。

 天地の間で他の誰が許しても、この女だけは許せない。全身全霊を燃やし尽くしても絶対に討ち滅ぼさなければならない。それを実行できない自分を恨んだ。

(俺に、もっと力があれば!)

 瞬間、誰かが囁く声を聞いた。眠りに落ちるように意識がどこかへ引っ張られる。

《室倉が力を求めるな》

 頭の中に響く感覚は封印妖魔の訴えに似ていた。しかし何かが違う。

《知恵と細工が室倉の本領。千変万化、翻弄してこそ室倉なり。やれやれ、当代の室倉は随分と、ぬるい》

 声の正体がわからないうちに、塀二の体が立方体に包まれ隠れた。

「塀二ちゃん!?」

 慌てふためく噤が円の結界をぶつけると、立方体は弾けて消えた。しかしそこに塀二の姿は残っていない。消えている。

「いやあぁぁっ――塀二ちゃん!!」

 金切り声が木霊する。その声が届く所には、塀二はもういなかった。

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