闇飛沫蹴立て夜を往く闇2

 熱源は体温だけが頼りなので特別温かいということはないが、風が防げるだけで随分違う。外側から見た以上に狭さで、三人は抱えた膝を突き合わせる。

「で、ちゃんと紹介してほしいんだけどサ。この子なんなワケ?」

 框に半眼で睨まれた女は立ち上がり、天井で頭を打ちながらも足を前後に開き腰を落としてぐっと肩を前へ出した。差し出した手も合わせて片手がどこかで見たようなポーズだ。

「やめろ狭い狭い」

「手前発車しますは快速でござんす。ヤンボーマーボーと申しましてもシャカシャカ広うござんす。ドサクサ産まれのドサクサ育ち――」

「長そう。巻きで」

「ノーニャ・ツィーグラフダフだよ、ヨロシクね」

 日本語はどこで覚えたのか、切り張りしたようにところどころ印象が変わる話し方に少々戸惑う。

 それはそれとして、もっと他に気にしなければならないことがある。

「自己紹介に大事な部分が抜けてないか、吸血鬼」

「イエス、アイアム! 怒れる闇の化身を恐れよ! ワハハハ!」

 女は塀二と同じく妖怪を祖に持つ妖部で、欧州を担当する最強の夜を往く者ナイトウォーカーの血統だ。正体が知れたことで脅威の襲撃者からたちまちおかしな外国人に変身した。

「へー」

 リアクションが薄くとても理解してい無さそうな框は胸元に手を入れてネックレスを取り出した。何をするつもりかは大体わかった。

 それは前回の誕生日に塀二がプレゼントしたもので、十字架の飾りが下がっている。「どうせなら魔除けを」という理由で選びはしたものの闇渡の封印に干渉する恐れを考えあとから術はかけていない。つまり単なるアクセサリーだ。

「あのなあ、そんなの効くわけないだろ――ってえぇっ?」

 塀二は鼻で笑おうとしたが、女――吸血鬼はばったりと横倒しになりうめき声をあげながら地面を叩き始めた。

「バカにされてる。親の仇の如くバカにされてるデス」

 嘆いているだけだった。知識に誤りがなかったことを知ってホッとする。

「吸血鬼って言ってもな、伝説と似た特性があるからそう呼ばれるようになっただけで、お前が知ってるのとは別物だよ」

 日光を浴びて灰になりもしなければニンニクが苦手かどうかは食の好みレベルの問題でしかない。心臓に杭を打たれるともちろん死ぬ。処女の血で復活はしない。

「それより、それ・・ちょっと見せてくれ」

 塀二が手を差し出すと吸血鬼は求められているものを理解し、少しの迷いを見せてから腕の包帯を解いた。肌を埋める刺青状の模様を見て、さすがに框も息を飲んで口をつぐんだ。

(ひでぇなこりゃ……)

 まるでタールの海だ。風が届けば、あぶくが弾ければ誰もがその臭気に顔を歪める。触れればそこから染み込んでくるように思えて、怖気づいた塀二の指は触れるのをつい躊躇った。

「一体誰がこんなことを……」

「これは異なこと、ご同輩。貴方と同じに決まってるデス」

 悪夢のような現象を身の上に抱えて、吸血鬼はぎこちなく微笑んだ。

 言われれば塀二にもわかる。それは一族が受け継いできたものだ。呪われた宿命を負うのは自分もそうだった。

 ならば簡単に同情することはできない。己の覚悟を否定することにも繋がる。

 だが室倉の知覚を通して塀二に見えるものは余りにもあんまりな、悲惨な生き物の姿だった。



 子供の頃は自分が幸せに暮らし続けていくことになんの疑問も持たなかった。自分が特殊な血統に生まれたことを知った時もそれは変わらなかった。そのかろうじて普通な日常のすべてが壊れたのは彼女が祖父から暗黒の遺産を受け継いだ時だ。

 いつ天に召されるかわからない状態の祖父を、彼女は孫としてごく当たり前の感情として悲しんだ。祖父の体を犯す瘴気を他へ逃がさない為、肉体に刻まれた術式を他へ移す必要があることは聞かされていた。

 それでも彼女は自分が祖父の寝室に通されたのはその命を、別れを惜しむ為だと思っていた。次の生贄が自分だということは露ほどにも思わなかった。

 その日から彼女、ノーニャは常識外に住んでいる。


 あれから十数年、必要に迫られて何度も戦った。戦わなければならなかった。普通の人間では果たせない役割の為に死力を尽くす、妖部として生まれたからには当然とされている認識は根深い。

 だがノーニャは何度も戦い終わらせた戦場で自分ひとりが残った時、とうとう逃げ出した。戻らない日常を恋しがるのも、籠の鳥どころかアイアンメイデンに閉じ込められたような日々を繰り返すことにも疲れてしまったていた。

 もう嫌だった。望むまでもなく与えられるはずだった幸せを取り戻したい。それならそこにいては駄目だと知っていた。

 それから流れ流れ、今は遥か極東の国で自分と似た境遇の少年と、不思議と暢気な悪魔憑きの少女と話している。彼らに通じる言葉を教えてくれた故郷での文通相手に心の中で感謝を捧げた。

「お前、頑張ってんだなあ」

 妖部の少年はまるで自分が痛むかのように辛そうな顔をしている。彼にはこの醜悪な模様の意味がわかるらしい。そう言われただけでも普段人目に晒すことを嫌っている肌を見せた甲斐があった気がした。

「あ、そうだ。これ残ってるから片付けちゃってよ」

 元通りに包帯を巻いていると、悪魔憑きの少女がホイル包みを手渡された。凍えていた嗅覚が急に目を覚まし、隣で眠っていた空腹を叩き起こす。

「オゥ、ライスボール!」

 一日ぶりの食事に声を上げると、妖部の少年に睨まれた。

「違う、握り飯だ。これのどこがボールかよく見てみろ。俵型だから百歩譲ってライスタワラと呼ぶのなら許す。コンビニに売ってるようなのはまた別だぞ。海苔で保護しないと掴んだら崩れるような物を握り飯とは呼ばない。握れないからな。そして見よこの弾力、味わえ歯応え舌応え。しかして口の中で見事に解ける絶妙な米粒と米粒の結びつき。これだ、これが本物の握り飯だ」

「イエス、和をなによりとする国民シップを表すがごとくデスねー」

「あのねえ、それ褒めてるの? 作る過程で握ってんだから出来は関係ないっての。いいから食べな。お茶もあるから。あ、トマトジュースのほうがいい? 今用意ないけど」

「バカにされてる。蛇蝎だかつの如くバカにされてるデス」

「うん? 変な子だね」

 悪魔憑きの少女の視線は冷たいけれど、心まで同じでないとノーニャには伝わった。なぜならバスケットからどんどん食べ物を出してくれる。

 地球守りに通報される危険を考えれば早くここから逃げなくてはならないにも関わらず、もう少しだけこの居心地の良さに包まれていたかった。



 塀二がじっくりと観察した結果、吸血鬼の皮膚に浮かび上がっている刺青のような模様は術式そのものではなく、術が彼女の体に取り込んだ瘴気が寄り集まり一般に視認できるまで成長した結果だとわかった。締め上げた縄が食い込んで溢れ出した中身。決壊寸前のダムという比喩がほとんど比喩になっていない。

 鼬の使い魔が負傷したにも関わらずすぐに復活したわけもそこにあった。一定のエネルギーを使い魔として扱いやすいよう変換したのではなく、必要なだけ瘴気を吸い上げることで構成されているせいだ。浅い攻撃ならその場で回復したかもしれなかった。

 術というより自然現象。意思に従う害思徒と考えれば危険極まりない。自在に使いこなしているように見えて術士の心は常に瘴気に晒されている。当然苦痛なはずだ。

 だというのに当人は握り飯を平らげ茶の入ったカップを空にしてご満悦で鼻歌を漏らしている。

「ウープス、ケッコーなニアインサイド」

 この楽天ぶりには呆れるよりも尊敬が正しい。

「……俺の分も食べるか?」

「良きに働くデス」

 その身の上にある懊悩を理解できるだけに、塀二は既に彼女を糾弾する意欲を失っていた。

「ねえ、その服どこで買ったの?」

 クラスメイトにそうするように、框が気軽に話しかける。殺されかかった鮫をけしかけた張本人であることはわかっていなさそうなので黙っておくことにした。

 吸血鬼が着ているドレスは波打っている分布地は多い割に肌を隠す面積が異様に小さい。カマクラの中ではミスマッチに過ぎる。それでも当人は極々平然としていた。

「貰いものデス」

「へえ、こういうのって高いんじゃない? 可愛いけどわたしには似合わないからなあ」

「駅前でウロウロしてたら親切な紳士が風のように現れ、湯水のように買ってもらったデス」

「えっ? そいつ、あんたに何かしようとしたんじゃないの?」

「密室へ連れ込まれたので逃げマスた。造作もナシのツブテ。ンー、お茶をもう一杯、頂き物にしてもよいデス?」

 一般人にいかがわしい欲望を向けられていたらしい。世間知らずぶりに呆れはするものの、何かされたところで跳ね除ける力は充分に持っているからこその無用心だろう。

「ダメじゃない、気を付けなくっちゃ。世の中悪いヒトがたくさんいるんだからね?」

 框は心配するが、吸血鬼一族は普通の人間より老化が遅く、十歳くらいに見えるこの少女も実年齢は倍を軽く超えていると塀二は見積もった。分別はあるに決まっている。

 と、框の作り出す日常空間に囚われていた塀二は忘れていた現実を思い出した。

「やい吸血鬼。この町に何をした。これはお前の使い魔の仕業だろう」

 肝心の問題がまだ解決されていなかった。町を襲った体調不良の原因が掴めていない。

「ワッツ?」

 眉を上げるノーニャがふざけているように見え、塀二はつい熱くなって拳で地面を叩いた。

「とぼけるな! 使い魔たちに食事を与える目的でこの町を瘴気まみれにしただろ!」

 明らかに人類を見守る側に付いた地球守りの理念に反する行為だ。

「お前の一族が担当する地域は欧州。お前、その役目をほっぽり出して逃げたな? ここにいることがその証拠……。待て、お前じゃ……ないのか?」

 話しながら矛盾に気がついた。

 ノーニャが担当地域からこうして離れていることは事実だ。彼女は逃げたのだから、戦う力はもう必要ない。地球守りに追っ手を差し向ける余裕がないのは知っているはずだ。その状況で苦痛を強めてまで瘴気を蓄える不自然は見過ごせない。

 謂れのない罪を問われてノーニャはさすがに気分を害したようで眉を吊り上げた。

「ノウ! ワタシは違う! アナタが悪いコトしてた、だからジャマした!」

 ノーニャが鮫をけしかけてきた時、塀二は瘴気を集めていた。それが悪事に見えたらしい。

「でもアナタはモンスター違うデス。……だからアナタは地球守りの罠かと」

「わかった、もういい。じゃあ一体何が……?」

 いつからか、框が肩を抱いて震えていた。顔色が悪い。闇渡を憑依させて消耗したせいか、遂に他の人間と同じように影響を受け始めたようだ。

「……大丈夫」

 いつになく力のない声でそう語る。

 気付かれなければずっと黙って、隠し通そうとしただろう。逆に言えば、誤魔化すこともできなくなった今は相当に深刻だ。

 顔を見られまいと膝に顔を埋める框を見て、塀二は自分を殴りつけたい衝動に駆られた。もっと気を配り、思念を読み取っていれば早くにわかったかもしれない。

「これを使え」

 塀二はバッグから長い長い数珠をじゃらじゃらと引きずり出して框の体に巻きつけた。珠の一つ一つが大きく、輝きは古ぼけている。

「なに、これ……」

賢舌大数珠ケンゼツノダイジュズ。百数十の高僧が晩年口の中に入れて過ごした霊石を集めて作った、それはそれはありがたい逸品だ。呪いや術の類からソフトにお前を守ってくれる」

「ばっちぃ」

「あぁっ! 何すんだお前⁉」

 かなぐり捨てられた数珠を慌てて拾い、塀二は涙ぐむ。

「お前これがどんだけ貴重でありがたい物かわかってないだろ? 凄いんだぞ! 安全だし」

「おじいちゃんの口でコロコロした物プレゼントするなんて、そっちこそ何考えてんの」

「プレゼントじゃねえよ貸すだけだよ」

 猫美を楽にしたように、框にも口の字を切るという風にはいかない。闇渡を封じた術に影響が出る恐れがあるからだ。

「これしかないんだ。頼む、使ってくれ」

「……あとで覚えときなさいよ」

 反抗する気力が尽きたらしい。大人しく巻かれてくれた。

 框のこうした元気のない姿を見るのは塀二にとって初めてのことだった。強引な姿勢に度々引っ張られてきた塀二にとって、これは光を失ったに等しい不安に当たる。

「私もリトル、しんどいデス」

 ノーニャまでもが弱音を吐き始めた。あらゆる毒や病に耐性を持つのは妖部の共通項だが、呪いや術に強いのは室倉だけだ。

「さっきの蛇を出せ。あれには術を突破する力がある。締め上げられてればいくらか紛れるだろ。お前にはもうちょっと元気でいてもらわなきゃ困るんだ。頼むぞ」

 框はぐったりとして塀二にもたれかかっている。気づいてやれなかった後悔が募った。そして意欲が燃える。今度のこれは、絶対に見逃さない。

 カマクラの外、視認できない世界に室倉の知覚が存在を感じ取った。豪雪に紛れず宙に浮く瘴気の塊が脈動し主張している。

「〝おけ〟!」

 筆を振るって四角を結ぶ。現れた結界は障壁となりカマクラを打ち破り、外から飛んで来ていた瘴気の弾を受け止め拡散させた。

 害思徒が体当たりを仕掛けてきたのかと思わせるほど高密度に構成された圧縮瘴気。それを飛ばして攻撃してきた。瘴気に属する上位存在の常套手段だ。

 崩れたカマラクの雪を框の上から払い落とし、瓦解した屋根から脱出する。すぐ横で大蛇が顔を出したかと思うととぐろの中に吸血鬼がいた。目論見通りいくらか元気を取り戻したようだ。瘴気に守られて、というのは皮肉な話ではあるが。

『待たせてくれたな、半端者ども』

 姿を見なくともわかる。今度こそ依霊だ。ここまで接近すればその依霊を中心に町全体の瘴気が渦巻いていて、住民を苦しめる呪詛が放たれていることも感じることができた。

 瘴気は人の精神に影響を与える。脅かし、挫け、弱くする。首を上から押さえつけられているような圧力が実際にあるような気がして、塀二は顔を上げられないでいた。

「アナタ、しつっこいデス!」

 蛇に守られ息を途切れさせながらノーニャが空に吠える。その言葉で塀二はまた少し理解した。膨大な瘴気を抱えた彼女の存在は、それを力とする者にとって〝ご馳走〟だ。

『諦めずに追ってみるものだな。面白い見つけものをした』

 当然闇渡のことも好物になる。依霊に封印を解く術があるとは思えないが、框が死ねばどのみち解放されてしまう。守る為には必ず撃退しなければならない。

「私のことはスルーでいいデス!」

『そうはいかん。半端者に生まれた己が運命と諦めるがいい』

「そんなの嫌デス! 〝病蜂やんぱち〟!」

 吸血鬼の肩に出現した一抱えほどある巨大な蜂が体を丸め、尻を上へ向け針を飛ばした。圧これもまた縮瘴気だ。

 結果を見るまでもなく無駄骨に終わると塀二にはわかっていた。依霊と吸血鬼の使い魔では意思エネルギーとしての器が違い過ぎる。かえって余計な力を与えるだけだ。

「私は、フツーに生きたいだけなんデス!」

 苦痛で錯乱しているのかノーニャは朦朧としているように見えた。妖部は依霊に対して切り札となり得る力を持ってはいるが、九死に一生の確率の話であって闇雲に挑んで叶う相手ではない。

「恋したり、結ばれて子供できたり、私はそういうのがいいんデス」

 蜂の使い魔で攻撃する為に状態は悪化していく。呟きはうわ言のように語気が弱い。

『化け物の身で許されるものか。ヒトとして暮らしたくばヒトとして生まれることだ。もっとも、生まれ直したところでまた殺すがな』

「私は――フツーがいいのに」

 涙に咽ぶ悲痛な叫びが塀二の胸を揺さぶった。

(わかる、わかるぜ吸血鬼)

 塀二もかつては同じ願いを追っていた。そして悩み苦しむ中、このままではそれだけで一生が終わってしまうことを悟り、諦めた。

「俺も化け物じゃなくて、フツーが良かったな」

 塀二はバッグから取り出したシェーディンシェードをただの敷物に、雪から掘り起こして抱きかかえた框を寝かせた。雪の上で人影が踊る。闇渡だ。

『余の名を呼べ。これ以上あの無礼者に奢らせておくのは好かぬ。名をよこせ!』

 今夜は既に一度卸している。依代の框がこれほど弱っている状態では危険極まりない。

 框が開きかけた口を塀二は慌てて押さえようとしたが、名前を言おうとしているわけではないとわかって悲しい気持ちで青白い唇の動きを見つめた。

「逃げて……あんたは化け物なんかじゃない。違うから……逃げていいんだから」

 涙がこぼれそうになった。誰か一人、そういうことを言ってくれたならもう充分。

(そうだろ、父さん。父さんが命がけで守った命だもんな)

 塀二の目に決意が燃えた。

「悪い、逃げられねえよ。俺はさ、やっぱり化け物だから」

 冷え切った頬を伝う涙から眼を逸らし、膝を伸ばして振り返る。

「俺は室倉だ。けどだからじゃない。そんな理由じゃない。俺はこの世界を守りたくて、その為に役立つ力を持ってるだけだ。守りたいから守るんだ! 守れるから守るんだ!」

 顔を上げ宙に浮く依霊を見る。ただそこにいるだけで屈服してしまいそうになる上位存在を心を燃やして睨み付ける。

 人型に羽が生え獣の爪と牙を持つ、一見してガーゴイルに近い怪物の姿がそこにあった。

 遺恨と痛惜の化身、病魔ペスト。病床の人間が己の運命を呪い、他人を疎んじる心が怨念と転じて結集した依霊。誰もが取り付かれるおそれのある醜悪な思念でできている。

 なぜ俺がこんな目に。生きていても仕方のない、むしろ死んだほうがいい人間が他にいるのにどうして自分が。俺は死にたくない。お前が死ね。そこに見つかるのは塀二の中にもあった感情の渦だ。

 皮肉な再会に苦い顔をしながら、塀二はおかしくなってほんの少し笑った。

 こうしてとんでもない相手と戦わなくてはいけないのも、かつて同じ迷い道を彷徨った自業自得のように思えた。それに誰もが取り付かれるというのは間違いだ。ここには瘴気を宿しても歪むことなく懸命に生きている例が二人もいる。

「なあ吸血鬼。お前、涙がどれくらい出るか知ってるか? たった数ミリリットルだ。だからとっとと枯らしちまえ! そんで、こいつをぶちのめすぞ!」

「ジャスタ、モーメン」

 吸血鬼は塀二の呼びかけに応え折れた膝を必死に伸ばそうとしている。内と外から、心を瘴気に攻め立てられていながら大した精神力だ。

『なぜそうまでして人間にくみする?』

 悪魔の誘惑が始まった。

『貴様らを理解もせず受け入れもしない。わかっているからこそ隠すのだろう、己が何者か明かさないのだろう! そんな者の為に命を捨ててなんとする。我々と来い。せめてこの世の終わりには、奪われる側でいるのは好かんだろう』

 聞く耳を持たず、塀二は足元の框を指差す。

「おかしなことになっちまってはいるがこいつは人間だ。ただの人間がどういうつもりで俺といるかわかるか。同情だよ。んなつまんねえことでこいつは自分の人生投げ出そうとしてんだ。憑かれただけで俺に付き合う必要まではないのにな。なあ、こいつ良い女だろ? そんな良い女がいる世の中なら、守ってみたくもなるだろ! 聞こえてんのか吸血鬼!」

 ノーニャが見捨てた土地に暮らしていたのは見捨てていい人間ばかりだったとは思わない。その点で塀二は彼女にも怒っている。

「イエス、グッズ守りの方、指示をプリーズ。憎き仇敵をボコボコにするデス!」

 吸血鬼の膝が伸びた。ペストが激昂する。

『身の程を知れ痴れ物め!』

「身の程? 自分なんて見つめてたらな、あっという間に人生終わっちまうんだよ。だから俺は全力でキョロキョロするって決めたんだ! 俺は自分のことなんてわかんねえけどな、テメーのことならわかんだよ! なぜなら俺は室倉だからな!」

 父の教えが脳裏に蘇る。つぶさに見、備えを活かす。そうすれば室倉の血が味方をする。

(全部を教わる時間はなかったけど、教えを守って蔵を守るよ。父さん!)

 バッグに手を入れ木彫りの仮面を引き出す。

 ヨーロッパの仮装祭に使われるもので、国内の能と同じく種類ごとに演じる役が決まっている。塀二の手にある鼻が突き出た青い仮面が持つ役割は〝ペストの医者〟。流行病が発生した時にはその長い鼻にハーブを詰め実際に治療に当たったといういわくつきだ。病魔を無効化する効果と、患った人々を救いたいという治療師の思念が詰まっている。危険度は〝平級〟で安全ではあるものの病魔に対してのみ効力を発揮するという扱いづらい特化した呪具だ。

 町の様子から塀二は「もしかして」と推測し蔵から持ち出していた。

「病魔ペスト! お前を〝災級〟の危険要素と判定し、室倉の名において折伏する。大人しく陰に戻れ」

『依霊といえば神も同然。貴様ら人間崩れが、神に歯向かうか!』

「神っていうなら地球意思で、お前らはせいぜい天使だろ。引っ込めエンジェル!」

 手の中の仮面をノーニャに向かって投げる。

 受け取ったノーニャは迷わずにそれを顔に当てた。ドレス、包帯、仮面と不恰好な組み合わせだがたちまちペストによる呪いが跳ね除けられ、力が漲っていくのが見ていてわかった。

 ペストが、神が初めて警戒した。

 その硬直を逃さない塀二は〝圏〟の一字を放つも、かわされて逆に接近を許す。

 それも計算のうちだ。読んでいた、というわけではない。もしこうなったら、に備えておくこと。それが家訓として伝わっている。

 伸ばした腕を少し曲げると塀二の上着の袖からシャボン玉があふれ出して猛然と突進してきたペストを迎え撃つ。触れたら弾けるそれだけの儚さに包まれ、ところがペストは絶叫して雪上へ墜落した。

「清めたシャボンと消毒液だ。お前みたいなのには覿面てきめんだろ。このバイキン野郎!」

 それは単なるクラスメイトを喜ばせる出し物ではない。

 シャボン液と消毒用エタノールを近所の教会に持ち込み神父に無理を頼んだ。破邪の効果を与えるほどの術士は世間にそうそう見つかるものではないが、要はそこに込められる想いが欲しかった。聖水は邪を払う。そのイメージは広く知れ渡った当然の通念で、その当前という意識が意思エネルギーである瘴気や依霊には強く作用する。

「お願いするのがちょっと手間だったけどな、なにしろ俺は人望があるからよ」

 充実した人生を望んで誰とでも人当たりよく接するうちに教会が主催するチャリティーイベントに参加するようになっていて、特に框の手作り菓子は大歓迎されている。仮面と同じくこの異変の原因が最悪ペストではないかと踏んだ上でしてきた備えだ。

『ふざけた小細工!』

「それって褒め言葉だよなあ? なぜなら俺は仕込んでナンボの室倉だ」

 力と力のぶつかり合いによる単純決着、そんなものは他人に任す。

「おい吸血鬼! うまくすれば包帯なしで生活できるようにしてやる! だから全力で、こいつを叩け!」

「――! アイアイ」

 一気に瘴気を膨らませ、実体化した使い魔たちがノーニャの姿を隠した。

「レッツゴー・オール!」

 獣たちが号令に従い一斉に踊りかかる。塀二にとって初見の形もある。そして塀二は、彼女が自分と戦った時には手加減していたことを知った。

『おのれ、従属ごときが!』

 敵もただ蹂躙されるままではいない。獣の首を引き裂き、喰らい喰らわれる地獄を演じて見せた。血しぶきのように飛び散る瘴気が夜の闇を更に濃くしていく。

「おあとが、よろしいデス」

 使い魔のダメージは術士に還る。力尽きた獣たちが消えると同時、視界の隅でノーニャが倒れる。ただし親指だけは気丈に天を向いていた。

「おう。あとは任せろ」

『貴様ら半端者が、なぜ病魔の頂たるこの我が!』

 憎悪の咆哮が強がりにしか聞こえない。塀二は鼻で笑った。

「なにが頂だ。ビビッてたくせに」

『……なんだと』

 傷を負う肉を持たない依霊でありながらペストの翼は欠け腕はもげている。実体を維持できないほど消耗している証拠だ。だが今は夜で、この辺りにはペストと相性の良い病床の人間によって生じた負の意思エネルギーが氾濫している。放っておけばすぐに力を取り戻してしまうだろう。

 塀二はゆっくりと続けた。

「お前はビビッてたんだよ。そこの吸血鬼の、瘴気を喰らう使い魔によ。じゃなきゃそいつが弱って動けなくなるまで潜伏する必要なんざないだろが」

 町の人間を苦しめ自分に都合の良い環境を作り、ノーニャにその影響が及ぶまで仕掛けてこなかった。潜んだ悪魔と放たれる臭気。点葉羽の不調の原因はそれだったのだろう。塀二の存在を見過ごすほどノーニャに関心を集中させていた。

「でも俺にはお前の肝っ玉の小ささなんてどうでもいいんだよ」

 妙禁毛を掲げペストに向ける。

「てめえ、俺の優先順位を壊しやがったな」

 枯れるまで力を出し尽くしたノーニャは倒れたまま動かない。しかし全力を出した分瘴気はいくらか減っていて、仮面もあるので普段よりは楽だろう。妖部は頑強だ。

 一方框は人間。条件はずっと悪い。

 呪具、ペストの医者でノーニャを復調させ攻撃力を得る。その選択がこの場においては最善だった。しかしそれは戦略という話に過ぎない。

「必死で守ってる人の生活、土足でぐちゃぐちゃに踏みにじりやがって」

 塀二には妖部として宿命を果たす覚悟がある。だからといってそれだけで満足する気も、諦める気もなかった。裏も表もすべて含めてそれが日常だ。框を後回しにしていいはずがない。

 本当なら、何よりも先に框を救うべきだった。

「あいつは俺がどんなに拒否しても聞かないでいてくれる、ありがたい奴なんだよ。……許せねえ! てめえには七枚全部くれてやる!」

 己の中で高ぶりが最高潮に達するのを感じて、塀二は思い切り筆を振り上げた。

「地に伏して龍になおり、括りに沈め! 〝まくとらふ〟」

 四方から鎖が飛び付き、ペストの体を絡め取って引きずり下ろす。続いて関節を捕らえた輪が地面へ埋もれて自由を奪う。

 筆は休まず次の字に移る。

「世に発するを禁ずる、〝りょけん〟!」

 ペストの首を膜が包む。波動まで完璧とはいかないがあらゆる干渉を防ぐ封じの膜だ。もう何の悪さもできない。

「世の風を乱すこと許さず、〝ぎょくさ〟!」

 手足に楔が打たれて苦悶で喉が反る。封じの膜が顔を覆っている為ただ体が痙攣を繰り返すばかりで何も聞こえない。室倉の知覚を持たぬ者には。

「尚暗き闇に落ち、比して輝くものと成れ、〝ゆてん―〝まろし〟!」

 八面体の枠組みがペストを囲み、一つ一つの面が闇色に変化して立方体の中に閉じ込めた。かと思うとすぐに形が変わり球形となる。

「我ら室倉はその時を待ち、共に生きる者なり、〝まる〟!」

 宙に浮く球体はみるみる縮み、ビー玉ほどの大きさになると音も立てず雪の上を転がった。

 塀二はよたよたと危なげな足取りで近づきそれを拾い上げると白木の箱に入れた。

 大きく肩を上下させて息を吐く。

 これでひとまず術式の完了だ。これを蔵に収めることで封印は完成し、室倉家が管理する限り永久に機能する。

 周囲に注意を向けるとペストが発していたこの町を覆う呪詛は晴れ、いつの間にか雪も止んでいた。框がもそもそと起き上がろうとしているのを見た塀二の顔が綻ぶ。

 が、まだ休めない。窓ガラスに関してはほぼ全壊の校舎。崩れずにいることが不思議な体育館。爆撃でも受けたような有様の校庭。日常へ戻るにはやらなければならないことがまだ残っている。これもまた、宿命なのだろう。

「さて、室倉やりますか」

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