闇飛沫蹴立て夜を往く

 朝に降り出した雪は勢いを強め、町の景色を白く覆ってしまうほどになった。表の門から家の玄関までの距離が霞み、飛び石はすっかり埋もれている。

「ふほっ、さっぶさぶ!」

 塀二は転がり込むようにして玄関に入り、口元を覆っていたマフラーをズラすとそこでも尚白い息を吐き出した。

 感覚を失うまでに冷えた手足の疲労は激しくとも達成感はある。雪雲のせいで表はすっかり暗くなっているが時刻はまだ午後四時。どうにか夜になる前に調査を終えることができた。

「おかえりー……ってこりゃまた。雪だるまになってまあ」

 脇の台所から顔を出した框が目を丸くして駆け寄った。

 室倉家は先々代で改装されるまで玄関は土間で台所と共通だった為、今も間に壁はなく段差があるだけとなっている。

「何して来たかよくわかんないけど、収穫あったんでしょうね?」

 框は塀二の頭や肩を叩いて積もった雪を払い落とした。続けて手に温かい息を吐きかけ、赤くなった頬を擦って温める。

「わらび、わびさび」

 塀二は返事をしようとしたが、凍りついた唇は震えるばかりで意図した音を紡がない。

「説明はいいって。お風呂用意しといたから、入っといで」

 余計なことはしなくていいといつもなら邪険に扱うお節介が、涙が出そうになるほどありがたくて塀二はコクコク頷く。

 つま先まで凍りつき曲がりも伸びもしない足で靴を脱いでフラつきながら脱衣所へ移ると、サッシ越しに風呂場の暖気が伝わって思わず「ほう」と声が漏れた。

 しかしここで満足はできない。服を脱ぎ捨てステンレスの浴槽へ雪崩れ込む。急な温度変化で皮膚が痛んでも熱に溺れたくて、縮んだ肺の僅かな空気を頼りに湯の中に沈み込んだ。

(守ってナンボの室倉は後手が本領だから気付くのが遅れたのはいい。でも、これはなあ……)

 下校する生徒の一人一人に気付かれないよう結界を張って瘴気を払い、それから町中を走り回った。術の痕跡を探る目的があったが、成果はなかった。

 驚いたのは被害が学校内に留まっていないということだ。気になって駅へ向かうと誰もが咳き込み動きは緩慢で、一様にいかにも具合が悪そうにしていた。

 インフルエンザの大流行。そう見えるかもしれない。術式も呪具の波動も見つかっていない。雪を蹴飛ばせば顔を出す地面が瘴気で満ち満ちているのも単に不調で町民の心が傾いているせいだろう。

 しかしながら、例え原因を特定はできなくとも猫美を始め生徒たちに結界が効いたことを考えれば何かしら邪悪な意思が働いていることは間違いない。予測は塀二にじっとしていることを許さず、町中を駆け回らせた。被害の拡大状況を調べる内に学校が中心地であることを知り、違和感は募った。

(挑発か? 敵は俺と戦うつもりでしかけてきてるとしたら、舐められてるのか。舐められるのが一番マズいんだよなあ、守護する身としては)

 室倉を狙うということは室倉が管理する蔵を狙うということだ。蔵を破り、封印された妖魔を一度に解放されれば衰弱した地球守りでは対抗できるかわからない。

 地球守りに〝戦闘〟の救援要請も出した。電話は留守で録音だった点は心配だが、人手不足を考えれば応えてもらえるかどうかがそもそも微妙なところではある。

(人事を尽くして天命を待つ、か。……尽くせたかな)

 顔を出すと湯で詰まった耳にぼやけた音が聞こえた。脱衣所に踏み入る足音。室倉の知覚で探ると同じ位置に微かな瘴気があった。框の気配だ。

「わっ、あんたなんで入口閉めてないのサ」

 框は浴槽の中を見ないよう中腰になりながら脱ぎ散らかされた服を掴んで洗濯機に放り込んだ。棚に塀二の着替えを置き、そのまま屈んで脱衣所の端に落ち着く。

「そういやあんたが出かけてる間に電話があったんだけど、『もしもしサンタクロースですけど』なんて、フザけたこと言うんだよ」

 框にしてみれば馬鹿馬鹿しいイタズラ電話を報告したつもりが、それを聞かされた塀二は血相を変え浴槽から飛び出そうとした。

「サンタクロース? そいつなんて言ってた!」

「きゃぁ」

 塀二はその瞬間完全に我を失っていたが、框が意外にもかわいらしい悲鳴を上げて身を引いたことで逆に驚かされ、そろそろと湯の中へ戻った。

「ハレンチですまん。……それで、そいつなんて言ってたんだ」

「えと、よくわかんないんだけど『嵐が来るから篭ってなさい』だってさ」

 冷静に受け止める。普通に考えるなら「大人しくしていろ」ということだろう。手は貸せない、とまで意味を込めているのなら覚悟が必要だ。

(それならそれで、もう何段か備えておかないといけないな)

 湯船から跳ねた湯で濡れた脱衣所の床を拭く框を眺めながら、思考がまとまるまでの間、彼女と話すことにした。

「あー、おかしな話と思うだろうけど……そいつは本物だ。本物のサンタクロースって言うには語弊があるし、見た目はガキだけどな。地球守りにはおとぎ話や伝説に出てくるような名前を名乗る奴が多いんだよ」

 地球守り東圏所属、サンタクロース。伝承や噂話を信じる想いから生まれた依霊。塀二は一度だけ会ったことがあり、見た目は子供であってもそれがただ事でない存在であることは室倉の知覚を通してわかった。

「ならプレゼントが届かないって文句言えばよかった」

(良い子じゃないからだろ)

 塀二は本音を隠し曖昧に頷いて、すっかり感覚の戻った指で肌についた気泡を擦り落とした。

 加勢は期待できない。蔵守りとしては蔵を守ることのみに集中するのが正しく、また賢い。

 だが塀二にはそんな消極的正解を選ぶつもりはさらさら無かった。嵐が過ぎるのを待っていられるほど、彼の人生は長くない。



 九時台の地方ニュースは十年に一度だという地域一帯の大雪警報と、この町に深刻な流行病が蔓延していることを伝えた。その二つは町から人の気配を消し、景観を一変させている。

 学校の校庭は見渡す限り白に染まり生命の息遣いは鳴りを潜めそこが馴染んだ場所であることを忘れさせる。夜を支配する瘴気が活発化する今、町は確実に別世界へと近づいている。

 靴の先を雪の中に差し込むと、そこから瘴気があふれ出してくるように錯覚して掘り返すのをやめた。夕方に確認した時から考えても驚異的な加速度で濃くなっている。そろそろ人の精神状態に影響を及ぼし始める進行度だ。

(くそったれ、温室の野菜か。ぐんぐん育ちやがる)

 このまま夜が深まればあちこちで害思徒が出現するだろう。予定を早め行動を急いだほうがよさそうだった。

「はいお茶」

 思案顔の顎に当てられた手を開かされ掌に水筒の蓋が乗った。中には茶が満たされていて、もうもうと湯気が上がっている。

 塀二はウンザリした気持ちで隣に立つ框を見やる。

「それで、なんでお前がついて来てんだ」

 框は悪びれない。

「何遍も言うかんね。手を貸すし異変が起きてるなら尚更ほっとかないでよ」

 話しながら襟にカイロを放り込まれた塀二はいかめしい顔をする。非常時と理解しているとは思えない楽天ぶりだ。

 しかし今度ばかりは本当に框の助けが必要になる可能性が高い。塀二はそんな不安を感じていて、だからこそ安全な場所にいてほしかった。

「おにぎりも作ってきたんだ」

「なにこれ、ピクニックじゃないんですけど」

「ピクニックならもっとちゃんと支度するから」

 口の中にねじ込まれ強制的に黙らされた。冷めかけてはいるが塩加減が程よく染みている。具は鮭だ。喉を通っていく感触は塀二に夕食を取っていない空腹を思い出させた。

「ちくしょう。こんな時になんてうまいんだ」

「落ち着いて食べる」

 黙って咀嚼していると手拭きまで出してきて、つい現況を忘れそうになる。

 框の緊張感の無さは果てしなく、その時がどういった状況であろうとこうして塀二を日常に引きずり込む不思議な雰囲気を持っている。そうしたマイペースに塀二は何度も救われてきた。

 できることならいつまでだってこの心地良さに浸っていたい。しかしそれはできないことだ。

「あのな鴨居。今日は本当に危ないんだ。だから……少しでも離れてろ」

 拭った指の湿り気はすぐに冷気で乾かされた。凍り付こうとする手を握って血を巡らせ、ポケットから妙禁毛を取り出す。日常はここまでだ。

 筆先で中空に字を書く。瘴気を払い害思徒の危険を遠ざける、普段の術とは正反対の試み。

「集まりて雲をなせ! 〝いによん〟」

 前方で字が弾け、周囲の景色が波を打ったように見えた。隠れていた瘴気が積雪を跳ね除けて飛び出し、一点を目指したかと思えばたどり着くことはせずにぐるぐると渦巻いて黒い竜巻となる。初めて見る光景に框は目を細めてたじろいだ。

かたち無きよ器を成せ! 〝まどか〟」

 続いて刻んだ一字で渦は制止し、球形に変化した。その大きさは塀二の背丈を軽々と越し、小屋ほどの大きさに育つ。このまま放置すれば相当大きな害思徒が誕生することだろう。

 害思徒は大きさによって呼称を区別される。小型犬以下がコボルト、成人以下でゴブリン、小屋以下でオーガ、それ以上でトロルと言った具合だ。呼称が洋風なのは瘴気を浄化する自然や優秀な術士が多く都市設計にも工夫が凝らしてある為国内では近年まで害思徒として実体化する例自体が少なかったせいだ。

「三枚、いや四枚かな」

 集めた瘴気の様子を見ながら一歩二歩と下がる。いつ害思徒化するとも知れない瘴気はもちろん注意に値するが、塀二の主な関心は周囲の様子にある。

 敵が何を狙って瘴気を増やし町の人間を苦しめているのか、現時点でわからない。室倉一族はあらゆる呪いの類に耐性を持っていて、瘴気慣れしている框でさえ平気なくらいだ。ふたりに対しては決定的な攻撃になっていない。

 なら何が目的かと考えれば、単なる食事なのかもしれなかった。人間を苦しめ育てた瘴気を食らうことで力を増す。例えそれ自体が狙いではないとしても瘴気の濃い環境は害思徒や妖魔、瘴気に感化された依霊にとって都合がいい。それを見過ごすわけにはいかない。

 瘴気が活発になる夜。この異変の中心地でわざわざ目立つように瘴気を払い、食事を台無しにすることで敵の出方を見る。それが塀二の計画だった。自主的に瘴気を結集させる都合上点葉羽は邪魔になるので始めから置いてきている。つまり塀二は異変があれば自力で察知しなければならなかった。

「うわぁ……なんか一年分って感じ」

「おい、近づくなよ」

 瘴気もここまで濃くなると物理的な干渉力を持ち、普通の人間でも見ることができる。気の抜けた感想を言う框に呆れかけた塀二だったが、急接近する気配を察知して全身を緊張させた。

 戦いの始まりだ。

「あ、中でピクピク動いてる」

「おい離れてろっつったろ! ――伏せろ!」

 框が水族館の水槽でも眺めるかのような気安さで瘴気の球体を観察しているのを見て、塀二は仰天して飛びかかった。体当たりしてそのまま雪上を転がる。回転する視界を、何か黒いものが通過していった。

 素早く立ち上がるとそこにはもう球体が無く、代わりに別の黒いものが出現していた。

 鮫だ。否、空中を泳いでいるので鮫であるはずがない。それに化け物じみた大きさをしている。小屋ほどあった瘴気の塊を一瞬で呑み込んだことにも不自然が無い、巨大な黒い鮫の形をしたものが塀二と框の二人を中心に回遊している。

 塀二が持つ室倉の知覚はそれが瘴気であることを見抜いた。どす黒く、中でも殺意に特化した悪意の塊。気圧されて目を逸らしてしまいたくなる。

(鮫の意思エネルギー……なわきゃねえよなあ)

 動物は人間に比べ意思エネルギーが弱く、それによって思念体が形成されるまでは相当な時間を要する。しかも瘴気となると動物にはほとんど無縁だ。殺意で言えばそれが生きる為であるなら悪意とは呼べない。そして動物の行動理念は全て種が生きる本能に直結している。

 目の前に不条理がある。あるはずないものが成すはずない形をして、自分を狙っている。あれだけの瘴気を一瞬で吸収したことを考えればいかに強力かも推し量れた。

(正体がなんであれ、瘴気は払うのが室倉の務めだ)

 塀二は妙禁毛を構え深呼吸を繰り返し冷静であるよう努めた。しかし身震いは抑えられず心臓は意思を裏切ってどんどん脈を速める。

 この場での最優先は框を守ること。框を戦わせないこと。結果として町を守るにはそれが前提になると断言してもいい。

「下って落ちろ! 〝なおらし〟」

 放った一字は身を翻してかわされ、鮫はその回避動作を利用して襲いかかってきた。しかし凶暴な乱れ歯は攻撃した塀二ではなく、何を思ったかその場から走り出した框へ向かった。

「なにしてる動くな馬鹿ったれ! 〝なおらし〟」

 尻尾目がけ続けて放った一字も命中せず、鮫は校舎へ逃げ込んだ框を追い昇降口に激突した。

 尾を振って校舎の中に入ろうとする動きを見て框は難を逃れたのだと知り安堵する。それからすぐに救出する為の一歩を踏み出した瞬間、またも突然近場に瘴気の出現を察知した。

 断頭台の刃のように、絶望的な攻撃力が空から降って来る。

 反射的に膝を突っ張った足は止まらず雪の上を滑り、靴の先わずかの地面に亀裂が走る。横一文字に伸びる溝は切り裂かれたように真っ直ぐの断絶を校庭に描いた。勢いでその裂け目に乗った足をどけると、底の見えない深さに瘴気がこびり付いていた。

(殺意に続いて、今度は拒絶の意思かよ)

 他人を排斥・否定しようとする害意。一瞬のことでどういった攻撃かはわからなかった。しかしその正体はもう判然としている。

「初めましてのはずだが、いきなり随分なご挨拶だなあ」

 塀二は緊張で強張る頬を引きつらせながら振り返り校庭の朝礼台を見る。追い詰められている今でなければ到達不可能であろう研ぎ澄まされた集中でようやく察知することができるレベルの、ほんのわずかな波動。二度に渡って突然瘴気が出現しているように思えた攻撃は、なんの不条理もなくすぐそこに発生元が存在していた。

 少女だ。塀二よりも少し年下だろう。薄い色の金髪にフリルで過剰に飾られた、所謂ゴシックロリータの黒いドレスを着ている。異様なのはその薄着と、露な肌のほとんどを包帯で覆っていることだ。顔さえ半分隠れている。

 塀二は唾を飲み込んで無表情なその少女をまじまじと観察した。巨大な石組みの遺跡を見上げているかのように、途方も無い存在感に圧倒される。強大な瘴気を秘めながらも恐ろしく安定して静やかで、そこに込められた思念を見定めることすらできない。視覚以外に捉えられるものが微かで、すぐそこにいるにも関わらず遥か彼方にいるように錯覚を起こした。塀二が今まで頼りにしてきた自らの能力を疑いたくなるほどだ。

 だが塀二はこれに似たものを知っている。依霊だ。幼い外見。内包する強烈なエネルギー。冗談のような攻撃力。全て合致する。依霊はダメージを受けても外面的には怪我を負うことがなく消滅するかしないかだけなので、包帯を巻いていることだけが不自然として写る。呪具の類にも見えない。

「おいおい、なんだってんだ今日は。ついてないな」

 十年に一度の豪雪、町全体に及ぶ呪い、そして依霊と思しき敵。

「って言わせてやる」

 吐息を指に当てて温めながら、ともかく不運な客人を睨む。

 こんな夜は早く終わらせて元通りの日常に戻らなければならない。塀二が望む人生設計には、こんなトラブルは不要なのだから。



 夜の校舎を走り回り勝手に砕けていくガラスの音を後頭部で聞きながら、框は走る。

「ああ! きっつう! 脇腹痛いいったい!」

 泣き言を喚きそれでも必死に逃げた。廊下を抜け、階段を上り、落ち、立ち上がる。

 特別体力に自信があるわけではなかった。競争をすれば運動部の連中には敵わない。それでもどうにかこうにか瘴気の鮫の猛追から無事逃げおおせていられるのは、鮫の狙いが框自身ではなく足元の影にあるからだった。

 鮫は同じく瘴気の塊である闇渡の存在を感知してそれを食らおうとしている。その度に床は抉られ、形を変える影の中で闇渡は高笑った。

『クック、踊れ踊れ! この忌まわしき封じがそう容易くどうにかなれば苦労はせぬわ』

 封印によって力と実体を失っている闇渡は手を出すことができず、また封印そのものに干渉する手段でない限り攻撃を受けることはない。

 ただし依代である框の命が絶えれば、その限りではない。

「ねえむつき、いける?」

『ほう……余を頼るとは、蔵守りとの約束はよいのか』

「それどころじゃないっての!」

 非常手段を持ち出す理由は自分の身が危ないからではない。

 框は休まず足を動かしながら窓から校庭を見下ろした。地面に深い亀裂が走り、塀二が逃げ回っている。何とかはよくわからないが、戦っている。

(助けなきゃ、急がなきゃ!)

 初めに逃げたのも鮫が怖かったからではない。放っておけば塀二がこの恐ろしい怪物と戦ってしまうと怖れたからだ。引き付けて、塀二から危険を遠ざけなければいけなかった。そうしなければ塀二はまた無理をして、もしかすると今度こそ死んでしまう。

「いいや死なせない、死なせるもんか」

 嫌な想像をして、框の眼に涙が滲む。

「あいつは納得しようとしてんだ! 全力で楽しんだから自分の人生は短いけどいいものだったって満足しようとしてんだ! あいつはメチャクチャ友達多くて毎日毎日遊び歩いてるよ。でも必死すぎてあんなの楽しいわけない。皆を笑わせるのに考えて手間かけて、皆はあいつのことを面白くて頼り甲斐があって付き合いの良い奴だって思ってる。あいつはそんな奴じゃない! 必死なだけなんだ!」

 常日頃から無理矢理にでも自分を高揚させ周囲を楽しませることに情熱を傾ける。それは充実した人生の為。もしくは自らが背負う宿命を一時でも忘却する為かもしれない。

「本当のあいつは、お父さんの言いつけも聞かずに遊んでるような、そんなしょうもない怠け者の、普通の奴なんだ! それを、あたしが……」

 父や框という犠牲者が出たことで、塀二は初めて自分が室倉であることを自覚したそうしなければならない窮状に瀕した。

「あいつは罪滅ぼししようとしてんだ! 頑張って家の役目を果たしてお父さんに許してもらいたいんだ。お父さんが死んだのはあいつのせいなんかじゃないのに!」

 独白に涙しながら、框の肺は熱を高めていく。限界は近い。

「あいつはもう根っからの蔵守りなんだ! 人生を楽しむことだって蔵の気色悪い道具を使いこなすことと変わらない。大事にして壊さずに保管して誰かに引き継いだら、自分だけとっとと死ぬつもりなんだ。そんなのあたしは嫌なのに!」

 ネイティブアメリカンの伝承に「大地は未来の子供たちからの借り物」という言葉があるが、塀二の人生観はそれに似ている。普通の人間が当たり前に感じている一生が自分の場合ひどく儚い。自分の人生を歩んでいるというよりも、誰かの人生にほんの少し間借りしているだけ。自分の命は世界の為にあるという風に、自己催眠めいた使命感が自分の命そのものを軽くしていると傍にいる框にも伝わっていた。

「できるもんならあたしの寿命をあいつに分けてあげたいよ! でもきっとあいつは受け取らない。あいつはあたしを被害者だと思ってる。あいつは絶対に、あたしと一緒に生きたいなんて思ってくれない!」

 呪いさえ解いてしまえばサヨナラ。個人的に何の用も無い。それが何より辛い。

「あたしはあいつにもっと心残りがあったらいいって思ってる。もっと生きたいって思ってほしいって思ってる」

 死んだ人に戻ってきてほしいと訴えることと変わらない、望むだけ苦しい想い。

「最低だけど、だからあたしはあいつを生かすんだ。お願い力を貸して! むつき、あんたはこいつに勝てる?」

 すべての絶望をねじ伏せる、絶望的な力が欲しい。

『たわけ。余とそこな玩具を比べるとは。おんし何を背負うておるか、てんでわかっておらぬようだ。余は華麗にして無比無類の妖魔なるぞ』

 以前に一度体を奪われた時に味わった、闇の中自分がどこまでも小さな点になっていく喪失感。できれば二度と味わいたくはない。しかし今はそれが必要だ。どうしても必要だ。叶わぬ願いに手を伸ばすのなら。

『願いを述べよ。作法は憶えておるな?』

 自分が取り込まれたまま消えることのないよう指を組んで祈りながら、框は一層大きな声で叫んだ。

「影に息づく生ある者よ、主の命に従い給え!」

『ならば余が名と力を返せ』

「潜む影持つ宿主の声が呼ぶ名を聞いて従い給え!」

『呼べよ余が名を知るならば』

「我に従う汝の名は〝むつきゆすらかばえれえれもくれん〟! 共に我が敵を粛滅せよ、汝が名は〝むつきゆすらかばえれえれもくれん〟!」

 屋上への階段を駆け上がり封鎖された扉に向かって飛んだ框の姿を、足元に這っていた影が膨らみ包み込んだ。



「チキュウ……守り?」

 塀二と距離を置いて向き合う少女は唐突に言葉を発した。不明瞭で短い質問。朝礼台の上、この雪景色にあって異常な薄着で悠然と佇んでいる。

 口にしたのは表社会に出ることのない常識外の組織名。そちら側・・・・に立っていることを示す一種の合言葉とも言える。

「そうだ。地球守りだ」

 逡巡なく、塀二は嘘をついた。

 室倉家のような妖部は世界のパワーバランスに影響を与える恐れがある為、地球守りによって管理・監視態勢を敷かれている。それはあくまでも傘下であってそのものとは違う。

 それでも嘘をついたのは相手の反応を見る為だった。

(攻撃的で、こっちが地球守りかどうか確かめたってことは殲滅派の依霊か? そうだったら問答無用で襲いかかってくるはずだよな)

 意思エネルギーが自然物と結びつけば精霊、動物と結びつけば妖怪と呼ばれる。どちらにも片付かず蓄積した結果が依霊、途中で瘴気に汚染されれば妖魔となる。

 そこにいる少女の正体は妖魔か妖怪か依霊か、まだ判別はつかない。だがそれを知ることは塀二にとっては二の次だった。

 何であろうと邪魔をするなら駆逐する。家業と、充足した人生の為に。

「俺は地球守りだ。だったらどうする? ええ、化け物」

「化け物なんかじゃ――〝仇鼬あだいたち〟」

 細かな網目からこぼれるように、少女の背中から溢れ出した瘴気が膨らむのを見て筆を振り上げる。強張りではなく、塀二の口の端は吊り上がった。

「いくら純度が高かろうと瘴気は瘴気! だったら室倉の専門分野だ! ――世を区別せよ!〝おけ〟」

 目の前に展開した四角の結界障壁に何かが衝突した。細長い体の獣、鼬だ。これもまた規格外に大きい。

 発する波動を感じて確信する。鮫を追おうとして足止めされた時に受けた攻撃の正体はこれだ。強い拒絶の意思を感じる。

 校庭を切り裂いた容赦ない切れ味は口の字の結界に遮られ、突風だけが届いた。塀二はそれを向かい風に駆け出す。

「器を捨てて霧と化せ! 〝かいえ〟」

 目標は少女でなく結界に張り付いた鼬。一字が矢となって食い込んだ瞬間、鼬は瘴気となって四散した。直線上前方にいる少女が絶叫を上げる。これは悲鳴だ。

 術を無に帰す術。言わばかたどられた影絵を壊す為、組んだ指を上から叩くような行為だ。強引な分術士には苦しみを伴う。

 塀二は全速力で少女に詰め寄った。少しでも射程を短くして連打からの短期決着を狙う。

「地に伏して龍になおれ! 〝まく〟」

 身をよじって苦悶する少女の足元、朝礼台に当たって文字が砕け、四方の地面から飛び出した鎖が少女に迫った。

「〝禍蛇まがへび〟!」

 瘴気が少女の右腕を包み、腰よりも太い大蛇の首が突き出て朝礼台を押した。胴を伸ばしながら発射台のように少女を打ち上げて宙へと逃がす。鎖が追うよりも速い。届かない。

「望んで留めよ! 〝かぎり〟――うぎゃあああ!」

 少女を目で追いながら筆を振り回して大きく空を切る。学校の敷地をすっぽり包む半透明の立方体が出現し、天井が少女の行く手を阻む、はずだった。

「〝怨蜘蛛おんぐも〟!」

 大蛇と入れ替わり出現した巨大な蜘蛛は少女の腰に節足を絡ませて取り付き、尻から糸を出して天を塞ぐ立方体の上辺を掴んだ。ブランコの要領で落下運動を転換しながら加速していく。

「おいおい器用だな……!」

 動揺しかけた心を御し、塀二は次々に字を結んでいく。

「括りに鎮め! 〝とらふ―囚―囚〟!」

 錆色の輪が文字の数だけ少女が進む空中に出現するも、縮んだ輪にかかったのは糸だけでそれさえ切り離して逃げ延びられる。

「〝禍蛇まがへび〟!」

 また右腕に現れた大蛇の首は地面を叩き、雪と土をえぐり跳ね飛ばしながら塀二目掛けて直進した。

 塀二はすかさず蛇に対して身構えたが、また別の波動を察知したことで少女の動きを見逃さずに反応することができた。

「〝仇鼬あだいたち〟!」

「〝おけ〟!」

 極近距離で発生した疾風の斬撃をほぼ同時に展開させた結界で受け止める。休まず横っ飛びに跳んで今度は大蛇の牙から逃れた。

 悪寒と恐怖に突き動かされる時間が続く。震い立つのは鳥肌ばかりだ。

(鮫を入れたら蜘蛛が4匹目、全部で何匹いやがんだ? こっちは手が少ないっつうのに)

 塀二の術士としての力量を無視しても、呪具は使用する局面を限られるものが多い。何しろ呪具なので気安く使えないのは当然だった。

「もっとキツイの持ってくればよかったか、いやいいか」

 室倉の真髄は特殊な知覚を駆使しまじないはもちろん敵の特性を見抜き、あらゆる呪具を自分の体の一部のように使いこなすことにある。窮地でこそ問われる極意だ。使える道具が限られるのなら、その道具を千にも万にも活用すればいい。

 塀二が起き上がると少女はすべての獣を消し身一つで堂々と仁王立ちしていた。最初に見た時とまったく様子が変わっていない。

 比べて塀二は術の連続使用で疲労を隠せないところまできている。こめかみを汗が伝うほど分かりやすい変化はなくとも、精神はもう底近くまで消耗しつつあった。

(大丈夫だ。まだおにぎりひとつ分の元気はある)

 突然、校舎の窓が次々に割れた。

 框があの中に、危機の中にいる。早く助けなければ闇渡の力を借りて戦ってしまうだろう。その意味を正しく理解しているとしても、框ならそうするに決まっている。

 この術士を倒さないことには救援にもいけない。うまくすれば術士を倒した時点であの鮫も消滅するかもしれないという期待もある。この場で必要なのはとにかく勝つことだ。

(待ってろ、頼むからそれまで耐えててくれ)

 妙禁毛を口に咥え、肩に下げたバッグに手を入れた塀二はつま先に力を込め地面を強く蹴った。今度は少女と別方向、体育館に向かって走る。

 背後に真空の斬撃が発生したことを感じながらも筆を手に取らず、背中を向けたまま構えず、体が反応できるぎりぎりの直前で身を屈める。

 鼬が頭の上を超高速で通過するとすぐに首を触って確かめる。汗で冷えているだけで、きちんと繋がっていた。

 斬撃は前方にある体育館で炸裂して、入口塞ぐ鉄扉はおろか壁までを両断して建物を上下に分ける。全体が軋んで傾いたが、切断面がぶつかって支えとなったおかげで倒壊はせずに踏み留まった。

 鼬の姿はもう無い。一度攻撃したことで学習されたようだ。同じ手は通用しない。

(知恵もあるか、こりゃいよいよ長引かせたくないな……)

 吊り下げ式の扉は下半分が音を立てて倒れ、塀二はそこにできた穴から体育館の中に潜り込んだ。かなり暗いがきちんと片付いた広間なので支障は無い。

 警戒しているのか、遠間から動かない少女からまた同じ波動が生まれたのを感じた。塀二は足を早め向かいの鏡張りの壁面端へと急いだ。

 緊張と疲れで腿が上がらず足がもつれて転ぶ。そのままワックスの床を滑り、壁にぶつかって止まった。気にして恥じている余裕はない。体の横で鏡が途切れているのを触って確かめると、バッグから装飾で飾られた短剣を取り出した。

 

(間に合え――!)

 祈りながら鞘から抜き放った短剣は勢いのまま掌を滑って宙へ飛ぶ。くるくると乱回転する薄い刃の向こう、入口のある壁が持ち上がったかのようにぱっくりと割れるのを見て、塀二はほくそ笑んだ。

 絶対的な攻撃力を持つ突風が体育館入り口に飛び込んで来る。だが更に速いものがあった。

 迎え撃う形で飛んだ刃が喉に突き立ち鼬の直進が止まって床を揺らして弾む。刃の柄は逆手に、中東の踊り子風の女が握っている。

 煌びやかな衣装が翻り刃が滑ると鼬は高い声で鳴く。そしてその場にぐったりと倒れ伏しすぐにかき消えた。

「正確な仕事、ご苦労さん」

 口元を隠した薄布の向こうで唇が横へ伸びる。ホッとした塀二が鞘を放り投げ、女は踊りながら直接刀身でもって鞘を受け止めると同時に姿を消す。霞のように消えていなくなり、からんと軽い音を立てて短剣が床に落ちる。

 室倉家管理呪具の一つ、カムカキタナバーラ。抜き身の刃を鏡に映すと鏡から現れた踊り子が剣を手に鏡に映るあらゆる生物、思念体を切りつける。ある程度の濃度があれば害思徒も攻撃対象だ。速度を越えた一瞬で発動する上に確実に致命傷を与える点で信頼が置ける。

 ただし危険度は自身や他人に命の危険がある損級。鏡に映ればそれが誰であれ刺されてしまうからだ。比較的運用は簡単だとして、塀二は今夜の為に蔵から持ち出していた。

 構成する術を壊したのではなく、今回は鼬自体に傷を負わせた。こういった使い魔型を組み上げるには通常準備と期間が必要になる。ほぼゼロ時間で召還しているからには予め用意してあったのだろう。修復にはそれなりの時間がかかる。

(これで鼬は舞台を降りたな)

 床に落ちた短刀を回収すると、天井から軋みが聞こえた。

「おわっ、ヤッベ」

 崩れる。そんな不安を覚えた一瞬、塀二の気が逸れた。

 ハッとしたところでもう遅い。足首に太い粘質の糸が絡み付いていた。出所を辿れば体育館の入口を通って外まで伸びている。あの大蜘蛛の波動と、少女のいる辺りまでだ。

「しまった――」

 短剣はまだ手の中にある。しかしこの場所で抜けば鏡に映って自滅する。迅速な思考がかえって硬直を生み、迷う間に糸は強く塀二を引いた。床に肩を打ちつけながらも、塀二は短刀を離さずにバッグへしまった。或いは己の命よりも、呪具を優先するのが室倉だ。

 扉の切断面にぶつけた額が切れて血が流れる。一瞬飛んだ意識をなんとか繋ぎ止め、塀二は神経を張り詰めさせて視覚と知覚を凝らした。

 少女の足元に大蜘蛛がいて、糸はそこから伸びている。取り巻く思念は執着。相手が瘴気で術ならば、室倉の能力は冴え渡る。

「器を捨てて霧と化せ! 〝かいえ〟」

 筆が描く字は蜘蛛でも少女でもなく、絡み引き寄せる糸を狙った。

 糸は千切れ、残った糸を伝わって消散が伝播していく。しかし根本に届く前に断ち切られて大蜘蛛は姿を隠した。

(ダメージにはならなかったか。いや、脱出できただけでも由とするべきだな)

 引きずられていた慣性を利用してうまく立ち上がった塀二だったが、目眩を感じて上半身をぐらつかせる。連続して呪具を使ったことに加え、戦闘の緊張が大幅に体力を奪っている。

 長引くほど不利だ。しかし出せる手札は決定打に欠ける。塀二は自分の未熟を痛感した。

 予め封じられている妖魔や瘴気に対しては強くとも、こうして自由に動き回られると思うようにいかない。

(泣き言言ってる場合じゃない。早くしないと――)

 丁度そのことを考えた時だった。

 校舎の方で発生した波動を感じ取り、恐れていた事態が遂に起きたと知る。

 足元が揺れる。轟音を上げ地面に叩きつけられたのは最初に現れたあの鮫だった。顎から腹にかけ大きく損傷し、大部分を失っているにも関わらず消滅することなく無残に痙攣している。通常なら鼬のように一刺しでも片付くはずだった。作為的に生かされている理由は勿論、食事を目的としているからだ。

『クック……久しいな、蔵守り』

 鮫の上に立つ人影は、大昔に幾つもの集落を滅ぼすほど人を喰らった凶悪なる妖魔――闇渡。宿主である框が悪魔に名と力を与え、闇色の怪人をこの世に戻してしまった。

(なんてこった……)

 塀二も密かに気に入っている黒髪。電気灯の光であろうと清廉に輝く艶やかさはわからないほど黒い靄に包まれ、全体に衣を纏っているかのようだ。頭の横から飛び出した触覚は冠に似ている。元の姿は見る影も無く、室倉の知覚で捉える限り框の思念はどこにも見つからない。

 遅かった。塀二は奥歯を噛む。

『余の復活を祝うてか、まっこと芳しき瘴気に満ちておる。良き哉、余は満足じゃ』

 棘と化した指を差し込んで鮫の表皮を引き裂き、首を差し込んで乱暴に貪る。こぼれた瘴気が飛沫となって迸る度、術士である少女はうめき声を上げた。

(完全に乗っ取られてるじゃねえか)

 依代の精神が健全でさえあれば、憑依した妖魔を制御することは不可能ではない。しかし妖魔に憑かれた人間が健全な心境でいることは難しい。普段飄々としている框なら或いはと、期待もなくなかったが、やはり駄目だった。

「やめろ――〝かいえ〟」

 たとえ心を塞がれ見る影もなく変じたとしても框は框だ。あまりの光景に見かねた塀二は気がつけば筆を振るっていた。

 闇渡が上から飛び退き、回帰を意味する一字を受けた鮫は弾けて消えた。その時に少女がもう一度大きな悲鳴を上げたが、すぐに折れた膝を伸ばして立ち上がる。結果的に手助けをしてしまったことになるが、それでも框が獣のような振舞いをするのを放ってはおけなかった。

『六年ぶりの愉悦に水を差すとは無粋な。まあよい』

 闇渡は四つん這いから身を起こし、そのまま宙に腰掛け浮かせた体を反らした。どっしりとした余裕が憎らしい。術士をまるで怖れていない。

『では食事以上に心踊る見せ物を楽しむとするかの。ほれどうした、生に励め。そこな娘は充分以上に貴様を屠れし器にあろう。散漫な室倉など雑兵に過ぎぬぞ』

「図に乗るなよ。お前はあとでちゃんとしてやる」

 少女は突然現れた自分以上の闇を警戒してはいるようだったが、それでも照準が自分から動いていないことを塀二は感じ取っていた。隙を見せればすぐさま飛びかかってくるに違いない。

『あれが何かもわからぬうちに、図に乗りしは誰ぞ』

「〝禍蛇まがへび〟!」

 意味ありげな闇渡の言葉が終わると同時、少女が大蛇をけしかけてきた。

「同じ手が――」

 機敏に筆を振り上げた塀二を二重の戦慄が襲う。もう何度も確認した波動、打ち倒したはずの鼬の波動だ。少女の背中で膨らんでいる。

「〝仇鼬あだいたち〟!」

 負傷した使い魔は回復に時間が必要。仮に急ごしらえでどうにかするとしても術士の生命力又は精神力を大幅に奪う。そうなれば決着は早くなると勝算を見出してもいた。

「なん――でだぁっ!」

 だが鼬の動きに遜色はなく、瞬く間に蛇の頭を追い越して迫った。

 組み立てていた作戦を放棄し、塀二は無我夢中で筆を振る。刻んだ口の字には普段以上の気力が篭り、鼬の突進を跳ね返す。が、続いて蛇の牙が触れるといとも簡単に崩れ去った。

(見誤った! ――って、なにをだ?)

 硬直した塀二は大蛇の突撃をまともに受けて飛ばされた。ぐるぐると入れ替わる視界以上に混乱が治まらない。理屈に合わない。あれが使い魔でないならなんなのか。

「〝怨蜘蛛おんぐも〟!」

 塀二の体に糸が絡む。今度は地面と接着していた。捕縛したいようだが固定する地面が雪に覆われているので意味を為さない。

(知恵はあっても浅いらしいな。なら付け入る隙はある)

 塀二は体を横に転がして脱出する。糸が絡んで腕が封じられたままだがそれ以上の道はない。

 最短の時間で選んだ最良の手を重ね僅かな隙間にねじ込んで勝利を掴む。そういう綱渡りが必要な相手だ。

「〝穢蛭けがれひる〟!」

 縛られた腕の先で筆を上に向けている間に粘質の何かが圧し掛かかってきた。半透明の何かに包まれている。呼吸に支障はないが、これ自体が呪いを秘めているようだ。怠惰、倦怠。精神支配で戦意を奪う用途の使い魔らしい。しかし室倉に呪いは通じない。

「〝かいえ〟」

 どうにか自由にできる肘から先を動かし字を刻み、まずは半透明を消し重みから自由になる。

 痛みからか気合を込めてか、絶叫した少女に体当たりを食らわせられた。ここへ来て初めての直接攻撃だ。これには面食らった。

 少女は倒れたところへ胸に跨り、塀二の首を絞めにかかる。

「グッ、お前……?」

 塀二は少女の顔を見て思考を止めた。それは半面だけでも知れる顔立ちの愛らしさでも、その表情が意外にも悲壮だったことでもなく、暴れて緩んだ包帯の内側に隠れていたものに気付いたからだった。

 刺青に見える。しかしその実は瘴気だ。信じられないほど精緻な術式で組み上げられ少女の肉に宿っている。これでは依霊と間違えたのも無理はないと、塀二は胸中で頷いた。

 瘴気にしろ浄気にしろ、本来発散されるはずの意思エネルギーが人の身に滞留すれば害と成り得る。見た目通りにおぞましく、カビに犯されているようなものだ。

 これほどの悪魔的な発想を、残酷な芸術を現実にする術を塀二は知らない。もしあるとするなら膨大な時間を要したと推測できる。積み重なった塵が層を成し、自重でもって結晶に化ける。そうやって完成した宝石が今目の前にあるこれだ。禍々しい光に当てられたように錯覚して塀二は目を細めた。

「もう……もう……」

 引き潰した声で少女が呻く。本当は戦いたくない。室倉の知覚を使うまでもなく、塀二は表情に悲痛の思念を読み取る。そして少女の正体を見抜いた。

(早く教えないと。この臆病で卑怯者の女に早く……!)

 塀二はもがいたが、女の細腕に宿る想像通りの怪力で首を締め上げられどうにもならない。意識が薄れかかった。

「――何やってんのっ!」

 ぼやけた耳に慣れた声が聞こえ、上にかぶさっていたものが突如なくなった。

 絶たれていた酸素との再会を咳き込んで祝う塀二に罵声が降り注ぐ。

「あたしが見てないと思って知らない女の子とイチャコラと……そういうのは一旦紹介してからにしろっての!」

 頬をつねられて突然の救世主が框であることを知った。

 ぼやけて役に立たない視覚とは別に、闇色の怪人を包む瘴気が凪のように穏やかになっていると知覚で知った。どうやら主導権が闇渡から框に移ったらしい。

「ああ、よかった……。根っこまでは持ってかれてなかったか……」

「えっ、ちょっと、大丈夫?」

 框は塀二を助け起こし、体に巻きついていた糸をあっさり引きちぎった。瘴気が落ち着いたことで輪郭がはっきりし、黒い衣は何かの神官か何かのように今や見える。

『ぬう……口惜しや。もう少しであったものを、興が乗り過ぎたわい』

「うるさい。あんたあの魚倒したんだったらすぐ体返せっての」

『莫迦を申すな。何を好き好んで返す⇔もなにもあたしの体でしょうが」

 框と闇渡が言い合いをする。憑依して存在が完璧に重なっている現在、塀二には框が一人で別々のことを話しているように聞こえる。不協和音のようで気分が悪い。

「悪いけどお前ら静かにしててくれ!」

 今は余計な口論をしている場合ではない。

 框が悠長にしている理由はこの場で最大の強者となったことを感じ取っているからかと疑ってから、普段からこんなであることを思い出して塀二はため息をついた。

 目の端に戦力差に臆せず身構える女を見つける。勇敢なのは当然だ。妖部ならば。

「お前も待て。えーと、なんつったか。ツィー……? えーと、とりあえず吸血鬼」

 呼ばれ、女はやや首を傾げる。素性がわかったからにはもう〝少女〟とは呼べない。

「アッオーウ、貴方はワタシをご存知デス? なぜゆえ?」

「わ、外人だ」

 カタコトの発音を聞いて今更そこに驚くのかと框に呆れつつ、引き続き女に話しかける。

「俺は地球守りじゃない。悪いな、さっきのは嘘だ。俺は室倉、お前と同じだよ。敵じゃない」

 目を丸くした女は構えを解き、背筋を伸ばすと明るい顔で頷いた。

「フー! 東方に妖しきグッズを操るグッズ守り!」

 瘴気を抱え込む術式に邪魔されて思念を読むことはできないが、一瞬で戦意が消えたのは態度でわかった。顔つきから荒みも消える。

 おかしな呼称に戸惑ったせいもあって、塀二は次の言葉に詰まった。状況が見えて逆に方針を失っている。一体全体何を話していいかわからない。

「えーと、本日はお日柄もよく……いや良くないな」

 この際世間話からでも、と思った塀二のしどろもどろを女が掌で制した。

「あいやしばらく、しばれます。私メイクザフーブツシ。オゥケイ?」

 何を言っているのかわからずポカンとしている間に女は大蛇を呼び出し、辺りの雪をかき集めると中をくり貫きあっという間にカマクラを完成させた。手連の早業だ。

「うお、それスゲー便利だな」

 散々追い詰められたことも忘れて塀二は感嘆の声を上げる。

「ささ同胞の方と知らない人、これは拙宅デス」

 女は早速入口でしゃが込んで手招きしている。

「何してんのサ。お呼ばれしたんだから入ろうよ」

 框は闇の衣を脱ぎ捨ていつもの姿に戻っていた。これほどの大雪は体験したことがなくカマクラも初めてなせいではしゃいで浮かれている。

 いつの間にか日常が帰ってきている。全身から脱力して、塀二は妙禁毛をポケットにしまうと框に続いてカマクラの中へと入っていった。

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