室倉塀二、起床する2

 慣れた通学路をふたり、しんと冷えた空気を裂いて塀二と框が駆ける。吐き出す息は濃く白みを持ち、あっという間に溶けていく。

「ほらほら、急いだ急いだ!」

「だーっお前がのんびりアイロンなんかかけてるからだろうが!」

 走りながらも喧騒は再開していた。

「だってキリのいいところまでやっときたいじゃん。この時期乾きにくいんだからサ」

「わかったから尻を突くな尻を!」

「だって遅いんだもん」

 なんとか時間内に学校に着いて上履きに履き替えていると、予報の頃合を待たずに雪が降り始めた。塊が大きく見るからに重い塊が重なり、見る見るうちに校庭を覆っていく。

「わぁっ、雪だあ」

 表の様子を見て感嘆の声を上げた框だったが、子供っぽい反応が恥ずかしかったのか顔をしかめ喜びをごまかそうとしていた。塀二はそれを横目に内心でため息をつく。

(こいつ、瘴気と関係なく進んで禍々しくなってないか? 普通にしてりゃかなり可愛いのに。……いやいや、それより雪だよ、雪。こんな時にまいったなあ……)

 瘴気は人の悪感情を基にしているので、人の住む地上から遠く離れた天から降る雪や雨は瘴気に犯されていない清廉なる存在だ。しかし浄化するということではなく、紛れさせ隠してしまうので塀二にとっては迷彩がかかるに等しい。点葉羽の調子がおかしい現状で夜まで降り続くと厄介だ。悪天候による人々の気分の沈降も瘴気の発生に拍車をかける。

「なに暗い顔してんの。もしかして具合悪い?」

 框に顔を覗き込まれ、塀二は首を振り教室へと先を急いだ。

「いや、なんでもない。さっき雪ではしゃいでたお前の顔を忘れないようにしてただけだよ」

「こっの……まったくもう。なんでもないんだったらさっさと顔戻しなさいよ。明るく楽しく充実した人生があんたのモットーでしょ?」

 追い抜いて前へ出た框が教室のドアを開くと、それまで陰気に引きずられていた塀二が先に教室へ飛び込んだ。

「おはようみんな! 俺がいなくて寂しかったか!」

 表情を輝かせた塀二が呼びかけると、そこかしこから挨拶が返ってくる。

「朝からうるっせーよ」

「どうせ昼にはバテるんだから抑えとけ馬鹿」

 非難の声には毒は無く、明るく迎える態度を見れば歓迎しているものだとわかる。特に久しぶりの再会というわけではない。単純に塀二はクラスの人気者だった。

「ねーねー室倉くん、何か新ネタないの?」

「お前ね、急にそんなこと言われても……うををわわわ」

 女子に声をかけられた塀二がうんざりした顔をすると、同時に脱ぎかけたコートの袖からシャボン玉が吹き出して教室は喝采に包まれた。

 笑顔で満たされた教室を見渡し、満足げに頷く塀二の横で框だけが面白くなさそうな顔で席に着いた。塀二が人気を得ていることが気に食わないという狭量ではない。人生を最大限に楽しむことを信条にしている塀二の、その信条そのものが気に入らないでいる。

 自分の人生が短いことをよく理解している塀二は良い思い出として他人の記憶に残ることで自分を活かそうとしている。その為なら寝不足を覚悟でDVDを見ることを厭わず、遅刻寸前でも手品のタネを仕込むのを忘れない。その切ない努力が、框には納得できない。

「なあ、貸したの見たか?」

「観た観た。アクションあっちいな」

 映画のワンシーンをスローで再現してクラスメイトとじゃれ合っている塀二を遠くに見ながら框は眉間にしわを寄せた。楽しげにしてはいるが顔色は良くない。疲労の色だ。毎日毎日目のクマを濃くして、無理が蓄積しているのが窺おうとしなくても伝わった。

(何が明るく楽しくだか。あたしには、笑ってるように見えないっての)

 半眼でふてくされながらも框は自然と塀二が机に放り出したコートからシャボン入りボトルを取り出し栓を詰め、畳んだコートと共にをロッカーへ入れ、これまた塀二の鞄の中身を机に移してから自分の席に戻った。

 それが終わるのを待ち構えていたタイミングでおもむろに、前席の女子が振り返る。

「おはよ。どしたの、機嫌悪くない?」

「うるさい」

「うわほんとすごい機嫌悪い、そしてひどい」

 軒下猫美のきしたねこみ。体育部にも見かけないようなショートカットの文化系で、框のきつい物言いに怯まない希少な生徒だ。眼鏡の奥の瞳が好奇心で光っている。

「塀二くんが新ネタ見せたのは相手が誰だって同じだから心配しなくていーんじゃない? 気が多いわけじゃないよ」

 落ち込んでいる人を見かければ盛り上げ、悩んでいる人がいれば相談に乗る。塀二がそうするのは全て充実した人生の為。誰が特別でもない。そんなことは框にもわかっている。わかっているからこそ怒るのだ。

「塀二くん面白いし、人気あるもんね」

「そう? 辛気臭いと思うけど」

「それにちょっとカッコ良いし」

「黙ってれば馬鹿には見えないくらいはあるけどサ」

 一般の人間には室倉の宿命は秘密であり、事故によりその〝一般〟の範疇を超えた框もそれを隠している。彼らは瘴気の存在すら知らない。致し方ないこととわかってはいても、クラスメイトの能天気さで余計に苛立った。

「なんであたしがあいつのことで機嫌悪くしたり心配しなきゃなんないの」

 框が質問をぶつけると、猫美の挙動が怪しくなった。身振りが増え、視線が宙を泳ぐ。

「いやほら、誰にでも優しい旦那さん持つと心配だろうなあって話」

「誰が旦那サ誰が」

「だってあんたら毎日一緒に登校してるし――」

「家が近いから」

「同じ学区なんだからそれ言い出したら――」

「うるさい」

 頑固な姿勢に諦めた猫美はため息をついた。

「思春期中学生としては冷やかさずにはいられないんだけどなあ」

 平然と登下校を共にする割に素っ気なくも見えるふたりをどうにかしようとお節介を焼いてはみるものの、框は関係を認めようとはしない。しかしながら周りから見れば言い逃れはできない間柄に見える。

 そこで、猫美は一つ意地の悪い思い付きを試すことにした。

「あのさ、塀二くんのこと気になるって言う子がいるんだけど」

「ああん?」

 カマかけに作り話をしてみると、予想以上の反応をされて猫美はたじろいだ。思わず身を引くほど近づけられた顔には今更嘘だとは言えない迫力がこもっている。更には無意識に瘴気を発して、離れた所で他の男子と盛り上がっていた塀二がビクっと顔を向けた。

 框はそれに気づかず猫美を睨む。

「それがなんだってのサ」

 この剣幕を前に今更「嘘です」とは言えない。

「えーと、一応あんたに話通しといたほうがいいかなって思って」

「なんでそうなんのサ。勝手にすればいいでしょうが! ほら告白してこい!」

「えっ? いや、私じゃない……」

「かっこいいとか言ってたろ?」

 聞く耳を失くした框に突き飛ばすように押しやられ、猫美は塀二の前に立った。

 友人とアクション映画の話をしていた塀二は鶴の構えのまま固まって戸惑う。気になるのは突然クラスメイトの女子が目の前に来たことよりも、その向こうでもの凄い形相をして今にも飛びかかってきそうな殺気を放つ框だった。

「……何か用?」

 上げていた足を床に下ろしたのは疲れたからではなく、必要に迫られた場合すぐに逃げ出す為。生存本能と室倉の血が訴える警告に従い框からは目を逸らした。

「ああもう――好きです! 付き合ってください!」

 指でぐりぐりと背中を指され、猫美は自棄やけになって大きな声を出した。

「えっ」

 響き渡ったあと一気に静まり返った教室の中、突然の告白に塀二はあ然としてしまい動けずにいた。その脇を横にやって来た框が突く。

「ほら、さっさと返事しなさいな」

 我に返った塀二は卑屈なニヤつきで緩んだ顔から真顔に戻り、頭を下げた。

「ごめんなさい」

「えっ。うわあ、フラれた! オッケーでも困るけど」

「残念だったね、ほら戻るよ」

 無意味に傷つけられた猫美の肩に框が手を置く。今日初めて、ほんの少しだけ微笑んでいた。

「私なんであんたと友達やってんのかわかんなくなった」

「いつでもやめてくれて構わないけど」

 框が猫美を連行していき、呆け顔の塀二は置き去りにされる。

「よう、今のなんだよ」

 それまで話していた男子に再び話しかけられ、塀二は首を傾げた。これ以上ないほど不可解な展開だった。告白されるほど猫美に特別な感情を向けられていたとは思えず、今のやりとりにも違和感が残る。

「つーか、なんで鴨居が引率してんだ。鴨居はお前と付き合ってるんだと思ってたのに」

「あー俺も。そのせいでみんな残念がってるし。鴨居コエーけど結構美人だもんな。コエーけど」

 細面に整った顔立ちをしていて中学生の割に大人びた美形なので、いつも半分塞がった半眼をもう少し控えめに伏せ口を閉じれば儚げな色気さえ漂う。しかしながらそこからツンケンした敵意が抜けることはないのでけっしてそうなることはなかった。

(瘴気さえなきゃ違うんだろうけどなあ……)

 自分の失態のせいだとわかっているから塀二にしてみれば申し訳ない気分になる。

「つまり塀二は取り返しのつかないドMってことか」

「大丈夫だよ、性癖は自由だよ」

「やめろ、なんの話だ」

 勝手に発展する会話に慌てて参加しながらも塀二は框と猫美へ視線を残したままでいた。

 塀二には框がわからない。

 毎日家へやって来ては頼みもしない家事をこなしていく。六年前の事故の罪悪感だけで、そんなことができるものだろうか。そんな風に勘繰って、期待してしまうことが何度もあった。しかし本当にそうなら今のようになるはずがないと、今回も期待は自らによって打ち砕かれた。

(やっぱり、俺には身に余る勘違いだよなあ)

 塀二は口元を緩めて鼻から息を抜き、首を戻しておしゃべりを再開した。今日という一日を精一杯楽しんで生きるなら、幻にかまけているわけにはいかない。


「おーう室倉、サッカーしようぜー」

 給食を食べ終わって席を離れようとすると廊下から声をかけられた。外を見るとちらちらと降り続く雪が校庭に浅く積もっている。悪天候を意に介さない精神は、塀二がまさ望む青春だ。

 しかし今日はもう限界が近い。

「悪い、やめとくわ。また明日誘ってくれよ」

 付き合いの悪さを責める声に顔をしかめながらバッグを手に教室を出ると、階段を登り締め切られた屋上出入口の踊り場を目指す。塀二はそこを自分の休憩スポットに決めていた。

 時間を無駄にしない為勉強にも必死で取り組み、休み時間は全力で遊んで喋って放課後は約束をこなし、夜が更ければ瘴気を払う。これが毎日だ。今日は睡眠時間を削って映画を見ていたせいで寝不足もある。いい加減に休んでおかなければ身が持たない。

 踊り場にたどり着く目前、追いかけて来る足音に気がついて振り返ると框がいた。大判のケットを抱え、唇を不機嫌に強張らせている。

 なんのつもりか尋ねる前に唇が攻撃的に尖った。半眼も鋭い。

「あんたがこないだ午後の授業まで寝過ごしたから先生に聞かれて困ったんだかんね。今日はあたしが一緒にいて、昼休み終わったら起こしたげるからサ」

「いやそれは悪かったけどよ。それなら昼休み終わりに電話してくれりゃ――ってツネるなよイっテぇなもう! 何度も同じとこやられたらしまいにゃどうにかなるぞ!」

 頬を引き剥がして階段を駆け上がり、塀二は目的の踊り場に立った。

 学校生活を楽しむ為には昼休みこそ寝てはいられないが、既に眠気は抗い難く意識を失いそうなところまできている。今は敢えて眠っておくべきだ。放課後にはまたクラスメイトたちとの約束がある。

 そこへなぜ框がついて来たのかがわからない。寝坊して迷惑をかけたのは本当だろうが、昼休み中張り付くつもりならそれこそ迷惑になるのではないかと気になる。

 塀二の懸念を他所に、框はケットを塀二に差し出した。

「ほら、ここ冷えるからそんな恰好じゃ風邪ひくっての」

 妖部は一般的な病気にはかからないので心配はいらない。しかし直感が働いて反論はしないほうが賢明と判断した。

「おうありがとな。……なあ、本当にずっとここにいるつもりなのか?」

「誰か来たらおっぱらったげるし」

「その辺は対策するから大丈夫なんだけどな」

 そう言って塀二はバッグから布を取り出した。濃紺のストール状で、短い繊維の揃った毛先は清潔に反射し高級感が漂っている。

「シェーディンシェイド。うちの管理呪具の一つだ。体に巻きつけて影の中に入ると普通の人間からは見えなくなる」

 点葉羽と同じく危険度は〝平級〟。裏地を内側にして使わなければ効果はなく、裏表は室倉の知覚がなければ判断がつかない。ここ踊り場にある薄い影でも直射日光でさえなければ条件としては充分だった。

「お前も知覚はフツーの人間と同じだからな。ホラ、どうだ?」

 框から受け取ったケットの上から身にまとい実践して見せる。

「わぁっ、ホントだ面白い」

 途端に塀二の姿が見えなくなり、框は感嘆の声を上げた。手を伸ばすと感触だけはあって、あるはずの布地を摘んで持ち上げると寝不足の不健康顔が現れる。

「こんなの持ち出していいの? 完全に私用なのにサ」

「俺は人生を楽しみ尽くすために手段は選ばないのだ」

「何を偉そうに」

 不機嫌に呟いて、框は踊場の隅に座って足を伸ばした。次いでぽんと素足の腿を叩き、きょとんと呆ける塀二に苛立って顔を歪める。

「枕になったげるって言ってんの」

「はぁ? お前いいよそういうことは」

「くっついとかないとあたしもそれで隠れられないでしょ? ひとりでこんなとこにいるの見られて変な噂立てられたら嫌だから」

「そりゃ、俺の本意じゃないけどよ……」

「わかったんならつべこべ言わない」

 これ以上反抗すればいよいよ怒り出すと見て、塀二は仕方なく従うことにした。

 まず床へ横になりゆっくりと首の力を抜いて頭を下ろす。横面の触れた腿の弾力は当人の人格とはかけ離れていて柔らかい。

 塀二の脳内で果てしない思考が始まった。

 もうこれは、そうだと断定していいんじゃないか。罪悪感だけで一緒にいるのか普段から疑問だった。これはもう決まりだろう。そう思っていいのではないか。ここまで思わせぶりにするからには框も同じ気持ちでいるに違いない。

 そう決め込んで、普段の態度や猫美に告白を勧めたことに対する疑問は残らず吹き飛んだ。

 意識することで体が熱くなる。框の腿に圧迫されるこめかみの血管から全身へ熱い脈動が伝播する。

「なあ鴨居、俺――!」

「いいから寝なって」

 感極まって開いた口を肘で打たれて危うく舌を噛みそうになった。涙目で睨もうとすると顔にケットをかけられて塞がれる。ほんの一瞬あると思えた愛情はやはり幻だったらしい。

(チキショー! 勘違いもさせてもらえない!)

 塀二は腹立ち紛れで腿に爪を立ててやりたくもなったが、無意味な争いはよすことにした。主に反撃されて生まれる痛みが無意味だ。

「……オヤスミ」

「はい、おやすみなさい」

 泣き寝入るとすぐにやって来た睡魔に何もかも譲り渡す。神経は痺れるように五感を手放していき、ケット越しに頭を撫でられていることもわからなくなった。


 揺り起こされて目を覚ました塀二は聞こえるチャイムを意識しながら体を起こした。昼休み終了前、生徒たちに教室へ戻るよう促す予鈴のはずだが、階下は妙に静かで昼休みの終了を惜しむ嘆きが聞こえてこない。

「おふぁよ。くぅ……」

 同じく寝入っていたらしい框が伸びをする。その無防備な仕草が普段見せない可愛げを感じさせ、塀二はどきりとして必要以上に距離を取った。

「……うん? なにサ」

「別になんでもねえよ」

 床へ落ちたシェイディンシェードを丸めながら顔を合わせないようにする。眠気でボケて気にならなかったが、膝枕なんてどうかしている。これほど接近することは今までになかった。必要も無い。

「そういえばサ、さっきそこの所に誰かいたような気がしたんだけど」

 ケットを畳みながら框が顎で指したのは屋上へ通じるドア。上部が摺りガラスになっているが向こう側に誰か立てば姿形くらいはハッキリ映る。

「寝ぼけて夢でも見たんだろ? 屋上、出られっこないんだから」

 ドアには鍵がかかっていて他に出入り口は無く屋上は封鎖されている。鍵を持った誰かが通ったのならふたりも目を覚ましていたはずだった。

「だよねえ。……でも、こっち見てた気がするんだけどなあ」

 あくびで出た涙をこすり暢気な声を出す框とは対象的に、塀二の表情は引き締まった。

 制服の胸ポケットから羽を取り出す。普段は鈴に繋いでいる点葉羽だ。瘴気が近づくと動いて報せてくれる。框の影に潜んでいる闇渡については、框の髪を結びつけることで闇渡の瘴気の波動を覚えさせ感知しないよう細工がしてある。

 見ると点葉羽は振動すらしていない。この付近に瘴気を介する不審は無いという証明だ。しかしここ最近は思うような反応を示していない。

(『あやしきに目を凝らせ』、だったな……)

 蔵で聞いたアドバイスも踏まえ、塀二は点葉羽に干渉する何かがあると判断した。となるとこれ以上の仔細は自分の目で、鼻で確かめるしかない。

 振り返ってドアに張り付き、神経を集中する。

 瘴気の痕跡は感じない。昼間でも人目に触れるほど実体化の強まった害思徒であれば必ず室倉の知覚にひっかかるはずなので、瘴気絡みの可能性は究めて低いと判断できる。

「ねえ、どしたの?」

 戸にへばり付く塀二の後ろから框が声をかける。時間を気にしてのことだが、様子を見てどことなく授業どころではないという空気は感じ取っていた。

「俺たちはシェイディンシェードを巻いていた。普通の人間からは見えない。なのにお前が言う通り『誰かが見てた』んなら、それは超常のヤバい奴だ。害思徒か、依霊よるれいか」

「ヨルレイ?」

「おいコラ初耳みたいに言うな。説明したことあんだろが」

「あー、それって地球守りとかの話? だったら興味ない」

「お前……まあ、それもそうか」

 塀二は尚もガラスへと眼を凝らしながら、吐きかけたため息を吸い込んだ。

 元々框はその辺りとは何の関係もない普通の人間だ。知らずに済むのであれば、そのほうが良いに決まっている。

 依霊とは生命の思考によって発生する思念が結集し一個の人格を形成するに至った思念体で、言わば地球意思の小規模版。一般的なイメージとしては幽霊が近い。

 同じ思念の集合でありながら害思徒やその発展である妖魔と区別されるのは瘴気と対を成す前向きな意思エネルギーである浄気を多く取り込んでいるからで、獣同然の害思徒ととは一線を画す知性を持っている。ただし、妖魔が知性を持っていないかというとけっしてそうではない。室倉家の蔵に封印されている化け物、妖魔たちや闇渡もまたそうであるように、ほとんどは対話が可能な発達した人格を持っている。

 元々感情それ自体に善も悪も無いのだから、浄気・瘴気というのは便宜上の区別でしかない。自分たちを生み出す素である意思エネルギーを確保する目的で人類と共存、暗に保護する地球意思と地球意思を取り巻く依霊たち多数派が人類に危害を働く少数派を悪と断じる為に妖魔と名付けたと言ってもいい。

 多数派とは言っても現代ではその当時のバランスは崩れてしまっている。地球意思が沈黙したこと。人類が発する意思エネルギーが瘴気に偏り多くの依霊が汚染され攻撃性を強く持つようになったこと。元々攻撃的な思念で構成された依霊が方針に反対したこと。技術の発展と共に社会が荒むに従って、状況は時代が進むと共に悪くなっている。

(情けないが……全然わからん)

 敵対派地球守りの依霊であるなら瘴気を帯びているはずだが、その気配は無い。ならば一体何が狙いで近づいてきたのか。敵か味方か、まずそれだけを知る何かが欲しい。

「ねえ、教室戻らないと。授業始まる」

「……そうだな」

 一旦諦め、あっけらかんとしている框のあとに続いて階段を下りながら塀二はこれからのことを考えた。

(もし敵対する依霊だったら……ヤバイな)

 依霊は害思徒とは比較にならない力を持つ、絶対に闘いたくない相手だ。地球守りに応援を要請するのが適切だろう。要請したところで、果たして確証のない現状で動いてくれるかどうかは望み薄だとしても。

「ちょっと、どうしたの」

 框に声をかけられて我に返った。気がつけば階段の途中で立ち尽くしていた。

「……ったく」

 框は降り切っていた階段を塀二の前へと戻り、軽く握った拳で眉間を小突いた。

「ひとりで悩むんじゃないっての。困った時にはあたしも、むつきもいるんだからサ」

 不敵に笑う框を見て塀二は笑い出した。体の力が抜け緊張はすっかりどこからも失せる。

 真名と実体を取り戻した闇渡ならいざ知らず、半端な状態の依代と未熟な蔵守りでは依霊に通じるはずもない。少なくとも塀二が数度会ったことのある依霊はそういう存在だった。

 だが、そんなことは関係ない。行く先に何が迫っていようとやるべきことは決まっている。

「困ってなんかねえよ。俺は室倉、考えて備えるのが仕事だ」

 充実した人生を目指して手を尽くす。それだけだ。身近にいてくれる人物に心配をかけないことなど言うまでもない。



 教室に戻ってすぐ、二人は異変に気がついた。昼休みも間もなく終わろうかという時分に生徒の数が半分にも足りない。次は実習室での授業というわけでもないにも関わらずだ。

「おいおい、学級崩壊かよ。大変だうちのクラスの風紀が乱れている。どうしよう」

「馬鹿言わないの。ねえ、何かあったの? 午前はみんなちゃんといたのに」

 框が机に歩み寄り、突っ伏していた猫美に話しかけると猫美はハンカチで鼻を押さえながら顔を上げた。見事な鼻声で説明する。

「学校閉鎖になるみたい。今職員会議中らしいよ。……ずびっ」

 すすり上げるのをどうにかハンカチでごまかそうとしている。見回すと教室に残っているどの生徒もぐったりとして元気がなかった。

「え、じゃあどのクラスもこんな感じ?」

「うん。私もそうだけど昼休み入ってから急に調子悪くなってきて、計ってないけど熱あるっぽい。ダルい」

 じっと座っているにも関わらず猫美の頬は上気し、目元はぼんやりとしていて見るからに朦朧としている。

「先生たちは最初集団食中毒だーって騒いでたけど、あっちみたい」

 猫美が指差す掲示板にはインフルエンザに注意するよう呼びかけるポスターが張られている。毎冬のことだ。

「あー、乾燥してるとウィルスがどうとかって」

 框が安易に頷いたところで天井のスピーカーから音が鳴った。授業の始まりを告げるチャイムとは別の、校内放送の鉄琴だ。

『体調不良の生徒が多い為、午後の授業は中止です。生徒の皆さんは速やかに――』

 放送を聞いたクラスメイトたちは喜びの声を上げるでもなく、バラバラと帰り支度を始めた。椅子から立つだけでふらつく生徒もいる。

「ふたりは元気みたいね。私は親に迎えに来てもらう」

「ちょっと、大丈夫?」

 框には猫美の症状が特別重いように感じられた。

 そこへ塀二が近づいていく。

「軒下、ちょっと目を閉じてろ」

 塀二に突然押しのけられた框は腹を立てて押し返そうとしたが、塀二の顔つきがあまりに真剣だったので黙って引き下がった。

 思考力が鈍っているのか素直に従う猫美の前に立ち、塀二は懐から妙禁毛を取り出した。

 塀二が念じると筆先が光り、空中に〝口〟の字を書き出す。

 四角形は猫美を囲むと音もなく弾けて消え去った。それと同時に猫美の瞼がぱっと開き、若干ではあるものの瞳に力が戻る。

「あれっ? なんか楽になった。今何したの?」

「ちょっとしたおまじないだ。それよりお前、悩みとか引きずりそうな嫌なこととか最近あったりしたか?」

 話しながら腕を持ち上げ、制服の袖へ滑り込ませた妙禁毛を胸の内ポケットへ誘導する。

「まあ、あったと言えばあったかな」

「そうか……」

「ちょっと、何の話してんの」

 肘を突いてきた框を、塀二はうんざりした顔で見る。

「お前ピンと来いよ。今この状況が、マトモだと思うのかよ」

「状況って、インフルエンザ大流行?」

「お前馬鹿だろう」

 猫美から離れて小声で話す。框はムッとしながらもこれまでを振り返って考えてみた。

「あ、わかった。猫美の最近あった嫌なことって、あんたにフラれたことだ」

「なるほど~――って今はそんなこといいんだよ!」

「そんなことって、あんた女の子の告白をなんだと思ってんのサ。本当は猫美あんたのことそれほどでもなかったみたいだから別にいいけど」

「ええっそうなの? がっかり。いや、だから! 何の話をしてんだよ! お前見てたろ、今の見てたろ! ちっとも話が進まないんですけど!」

 地団太を踏みながら、塀二は涙目で再び取り出した妙禁毛と猫美を交互に指す。

「これが、ああなったろうが!」

「あ、そうか。瘴気?」

 ようやく框の思考が正解に向かったことに安堵しながら塀二は頷く。

 学校閉鎖に発展するほど急激に蔓延した体調不良。それだけならまだ常識の中の出来事で片付けることもできる。しかし妙禁毛の術で若干調子を取り戻した猫美、これは無理だ。

「瘴気は人間の鋭気活力を奪う。でもせいぜいボーっとするとかムシャクシャするとかいう程度で、いくらなんでもここまでにはならない」

 未だかつてないほどのレベルで瘴気が発生しているとなればその可能性もなくはないが、そこまでの事態に陥っているのならば既に害思徒が現れ他の被害が出ていそうなものだ。第一塀二が気付いている。

 瘴気そのものが直接的な原因でないとなると必然的に答えは絞られた。何らかの術か、或いは周辺に被害を及ぼす規模の――危険度〝災級〟に相当する呪具が何者かによって運び込まれたかだ。

「原因はわかんないけど、これは自然現象じゃない。意図的に攻撃されてることは確かだ」

 導き出された結論を口にすることでようやく框の表情に緊張が走った。

「じゃ、あたしらの出番ってわけだ」

「お前のはないよ、俺の出番だ。――おい軒下」

 内緒話を不思議そうに見ていた猫美に声をかけ、とろんとした目つきを見つめる。常識外の出来事に巻き込まれた被害者、その一人。救わなければ。

「今日はうちに帰ったら大人しく寝て、できれば楽しいことだけ考えて笑ってろ。日付変わる前には楽になるから、心配するな」

 日常のど真ん中に降って沸いた呪いも解けないようでは充実した青春どころか、明日から室倉を名乗れない。

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