室倉塀二、起床する

 耳を劈く目覚ましのベルを止め、顔を埋めた枕に未練を感じつつも引き剥がして飛び起きる。鏡を覗けば目の下に酷いクマがあった。

(また濃くなってるなあ……)

 ベッドの脇に積んであるダンボールから栄養ドリンクの小瓶を取り出し一息に飲み干すと、眠気の離れない顔を平手で叩く。それからもう一度鏡を見て短く気合の声を吐いた。

 少年の名は室倉塀二むろくらへいじ。正確な記録は残っていないものの江戸より古くから危険な呪いの道具を管理してきた一族の現当主にあたる。十三歳にして彼がその立場にあるのは彼の一族が代々短命を宿命付けられているからで、先代である彼の父親も数年前三十路を迎える前に死んでいる。

 妖怪を祖に持つ彼のような家系は妖部と呼ばれ、人間よりも遥かに優れた運動能力と生命力を持つ。ただし彼の一族に限っては長く生きることはできずまた身体能力も一般の人間と変わらない。それは彼らが扱う呪具の影響によるものだ。呪われた道具を扱う宿命が故に運命まで呪われた一族。それが室倉家。

 昨日再生をかけたまま寝てしまったDVDのパッケージをよけながら寝室を出ると、板張りの廊下の奥から物音が耳に入った。塀二は眉根を寄せて嘆息する。

 父親は死に他に家族はない。なので、朝目覚めると台所から葱を刻む音が聞こえてくるというのは本当なら彼が対処すべき怪奇現象だ。これがもう半年は続いている。

「何を当たり前のように飯を作ってんのかな」

 手の甲で暖簾のれんを避け台所へ踏み入ると、エプロンを留めた背中が振り返り一つに編んだ長い髪が揺れた。

「おはよう。いいじゃない、待ってる間暇だっただけなんだから」

 少女は採光用の窓が拾う朝日を背負い、不機嫌を半眼に込めた厳しい目つきで塀二を睨む。

 彼女の名は鴨居框かもいかまち。この近所に住む塀二の同級生だ。

「そもそもいつもどうやって入ってんだ? 守ってナンボの室倉に侵入するなんて只事じゃないぞ。……まさか勝手に合鍵なんて作ってるんじゃないだろな」

「そんな気持ちの悪いことしない。もうご飯の用意できてるから、そっち座ってて」

 塀二は今日もまた呆れながら居間に戻り炬燵こたつへ足を入れる。中で足が触れた物を視認もせず、差し入れた手で靴下を見つけると足先を通した。框が用意しておいてくれた着替えだ。赤外線で熱いくらいに温められている。

「お待ちどうさま」

 すぐに天板へ並べられた料理は白米味噌汁の他ベーコンエッグやサラダと理想的に一式揃っている。

「あのなあ、俺がどれだけ寝坊してお前を待たせたってんだよ。いつもと時間変わらないだろ」

 塀二は盆を持って台所へ引き上げていく框に問いかけるも、相手は意に介さない。

「うるさい。いいから食べなって」

『ククク……ここまで尽くしておいて、何をぬかすか』

 反論を返したのは塀二ではなく框の足元、框の影だった。室内で反射する朝日に消されかかり薄まった影が、脈打つように定まることなく輪郭を歪めている。

 意見そのものは塀二の代弁に近いが、その異様な影それ自体が平時に反論させなかった事情にあたる。


 框はその身の内に魔性を飼っている。六年前室倉家で起きた事故のせいだ。

 当時彼女の周りでは、ある古臭い屋敷にオバケが住んでいるという噂が流行った。

 建て変えと再開発で現代的な住宅が続く周囲にあって、室倉家は庭どころか蔵付きの平屋と非常に珍しく、近所の子供たちにとって関心の対象だった。住人に近所付き合いはなく大人に聞いても詳しいことはわからないので子供たちの間で話題に上る時は当然のように「お化け屋敷」という扱いになる。

 普段何かと偉そうにしているガキ大将がその噂に尻込みするのを見て、「ならば自分が」と意気込んだ框は白昼堂々塀をよじ登って室倉家へと忍び込んだ。

 その時敷地内にある蔵の中では塀二の父が呪具に封印を施している最中で、庭へ足を踏み入れた框に驚き、集中を切らした。

 呪具に閉じ込められていた化け物がその隙をつき封印を破った。そして化け物は長い休眠の間に失った力を補う為、框を狙った。塀二の父は一瞬のうちに選ぶことのできる中で最善の手段として、框を依代とすることで再び化け物を封じることに成功した。

 以来、框の影には化け物が棲み憑いている。

『飽きもせず毎日毎日、我が主と来たらほんに健気で――』

「むつき、うるさい」

 框が強く踏みつけると影は動きを止め、底意地の悪そうな声で笑ったあとは大人しくなった。

 化け物は封印によって力と共に名前を失っている。真の力を取り戻すには自らの名を思い出さなければならないが、その名は記憶も記録もできないよう特殊なまじないがかけられていて、依代である框以外には誰もわからない。今呼んだ〝むつき〟というのも略称であって正式な名前ではなく、次の瞬間には化け物自身も聞いていた塀二も框がなんと呼んだかは忘れてしまう。

 管理する上での呼称としては何代も前の室倉家当主が〝闇渡あんと〟と記録した。

「暴れんなよ、ホコリが立つだろが。あ、それからな」

 塀二は框に言っておかなければならないことを思い出し、一度手に取った汁物の椀を置いた。ところが、用事を口に出す前に凄まじい剣幕で睨まれ舌を引っ込めてしまう。瘴気の塊を背負い込んでいるだけに框には常人を超えた凄みがあった。

「ちょっと何勝手に食べようとしてんのサ」

「なんだよ、お前が作ったんだろ……勝手に」

「食べる前に言うことがあるでしょうが。『いただきます』は?」

 自らの影に魔性の化け物を宿していながら食卓でのマナーを問う框に呆れ、塀二は頭痛めいた痛みに顔をしかめながら掌を合わせた。

「いただきます」

「はい、召し上がれ」

 緑茶を並々と注いだ湯飲みを差し出し、框は塀二の向かいに座った。彼女の前にもまた塀二と同様の朝食が並んでいる。

「当たり前のように自分も食べやがって」

「だってあたしが作ったんですけど」

 また睨まれ塀二は押し黙る。框も手を合わせると、食卓の雰囲気は少しだけ和らいだ。自然に会話も生まれる。

「昨日はあれからどこ行ってたの? どうせ夜更かししてたんでしょ」

「ケンたちとカラオケ。帰ってからはリョウスケに借りたDVD観てた」

「やっぱり。やたら急いで帰るから変だと思った」

「約束してたんだよ。いいだろ別に」

「文句なんか言ってない。遊びたいのはわかるけど、ちょっとは家にいなさいよ。留守にしてばっかりいないでサ」

 結局文句を言われていることには沈黙して、反論は胸の内でもかき消す。

 室倉家の役割は迂闊うかつに扱うのはもちろん放置しておくのも危険な呪具や化け物の封印を管理することにある。だが単なる荷物番には留まっていない。

 化け物は封印された状態であっても発する波動の影響によって近隣に悪感情の意思エネルギー――瘴気を集め邪なものを生み出してしまう。そうなるとそれを退治する必要が出てくるが、室倉家の親機関である地球守りにはその為に割く人員が不足している。そのせいでいつからか室倉家自身が呪具の一部を持ち出して対処にするようになっていた。塀二も代々の室倉にならい瘴気が活性化する夜毎に出かけては治安に努めている。

 そのうえで問題なのは事情を知らない一般人からすれば子供が夜遊びしているようにしか見えないことだ。

「大体あたしら中学生なんだからサ、夜に出歩いて補導されたりしたら……どうする気?」

 家族のない塀二には身元引受人となってもらう当てが無い。後見人として公文書に登録されている地球守りにはそんなことを期待するだけ無駄だ。実際の活動がどうであろうと、彼らは室倉を荷物番以上には見做していない。

 気を遣われるのがわずらわしく、塀二は自分のことを言われているとは聞こえなかった風に話を逸らすことにした。

「内申点が心配なら尚更付き合わなくていいぞ。大体、俺だけで足りてんだ」

 塀二が頼んだことは一度もないが、框は夜間の瘴気払いに毎度付き合っている。しかし今の言葉通り昨晩も框の出番はなく、そもそも空振りに終わることさえ多い。

「あんただけに町の平和を任せておくわけにはいかないからサ」

「だから足りてるって言ってんだろ。乱れてねえよ、平和。それよりお前、もしかして昨日の夜〝影卸かげおろし〟してないだろうな」

 框は失われた名を呼ぶことで闇渡の力を引き出し超常の力を奮うことができる。だがそれは框自身の肉体が化け物に侵食されることに他ならず、かけられた封印が解け野放しになってしまう可能性も捨て切れない危険な行為だ。

「してない。あんたが使うなって言ったんでしょ」

 半眼で抗議され、塀二は框に自覚が足りないように思えてため息をついた。「一体いつ言うことを聞いてくれることがあったんだ」という疑問は口に出したところで意味はなさそうだ。

「お前は瘴気を纏っているようなもんだから、万一何か呼び込んだ時に備えて色々教えといたのが……失敗だったかな」

「嫌な言い方しないでよ。あたしこれでも結構気に入ってんだからサ」

「影に化け物飼っといてか? 馬鹿言うな」

 悪態をつきながら塀二が空にした茶碗を取り、炊飯器から白米をよそって元に戻す。ごく当たり前のような慣れた動作だ。

 框は室倉家に初めて忍び込んだ時からずっと、この家の生活に根を広げ続けている。そうして今では朝食の風景に到った。

「あたしは瘴気を纏ってて夜は瘴気が活発になるって言うなら、そんな時間にほっとかないでほしいんだけど。一番安全なこの家でじっとしとくからあんたも一緒にいて……ゆっくり休んでてよ」

 框は室倉家の宿命に巻き込まれた被害者という立場にいる。しかしそのことで恨み言や責めるようなを言ったことは一度もなく、何か要求するとしてもそれは塀二を気遣ってのことばかりだった。

(コイツまだ、自分のせいで俺の父さんが死んだって思ってるんだろうな……。そんな必要全然ないのに)

 思い出したくもない出来事のはずが、框が事件以来ほぼ毎日室倉家に出入りするなった理由は罪悪感以外に考えられない。その献身が塀二にはプレッシャーだった。

「よし、じゃあ安全の為にお前を蔵に入れよう」

「他の方法にして」

 バツが悪くなった塀二はフザけた冗談を言った自分にも腹を立て、大急ぎで朝食を平らげると腰を上げた。

「こら、ちゃんと噛んで食べなきゃ。体に悪いんだからね」

 慌てた様子で注意され塀二は膨らんだ口をモゴモゴさせながら壁の時計を指す。それを見て、框は苦しげに顔を伏せた。

「そっか、時間か。……お皿はそのままでいいよ」

「いや置いとけば帰ってから自分でやるって」

 口の中の物を飲み下すと一言残し、塀二は足早に部屋をあとにする。

 登校を焦る時間には早いが、先に済まさなければならない用事がある。室倉家本来の業務だ。

「うおっ、さっむ! 季節ばっかりはなんともしようがないな……」

 廊下から縁側のガラス戸を開くと一層冷たい外気が吹き込んで体が震え上がった。空を見ると雲は重い色を見せ今にも雪を降り出させようかと脅迫していた。

 踏み石の上に野ざらしのサンダルを履き小走りに庭の蔵へと急ぐ。


 よくある白塗りの蔵は雨風の汚れが歴史を感じさせた。採光の小窓一つ無いので瓦葺かわらぶきでなければ蔵なのかどうかさえ判別できそうにない。

 古く重い鍵を外し石造りの扉を開くと、流れ出てきた香の匂いを感じ取って塀二は顔をしかめる。

 一度振り返り大きく息を吸い込んでから決意の顔つきになった。そして素早く扉の隙間へ体を滑り込ませ、すぐに内側から入口を閉じる。

 明り採りの窓すら無い蔵の中はしかし真の闇には落ちず、中心にぽつんと赤い点が浮かんでいた。肺を焼くような不快感を伴なう臭いの源、呪い鎮めの香の火が香炉の中で燻っている。

 室倉家の人間は代々この火を守ってきた。蔵に安置された数多の封印をこの香によって永きに渡り安定させる為だが、これこそが室倉一族短命の理由とされている。呪いを封じる呪いは生命をも蝕み、寿命を削る。その効果は蔵内部にカビはおろか表にも雑草すら近付かせないほどだ。

 そこまでして呪具を保管しておかなければならない理由が現代にはあった。第一には離反した地球守りがそれにあたる。

 蔵の中へ一歩踏み入る。常人であれば一呼吸で意識を失うこの蔵の中を自由に動くだけならば他の妖部でも可能だ。室倉家が呪具の管理を任されている理由は別にある。

 物や土地にかけられたまじないや込められた思念を、眼で見るように耳で聞くように知覚することができる。それが唯一室倉家が持つ能力で、もちろん塀二にも備わっている。

 香の火だけの暗がりを塀二は慣れた様子で進み香炉の前に膝をついた。蓋を外し山盛りの粉末の上で火種を確認する。

 一層強く香る臭いに思わず咳き込みそうになったが、それで火が消えては台無しだ。肺を叩いて堪える。まだしばらく足す必要はなさそうだ。

 安心すると塀二は手元に引き寄せていた木箱を元に戻してその場に胡坐あぐらをかいた。

 それを待っていたかのようにそこかしこから声が聞こえ、闇の中様々な魑魅魍魎が浮かび始める。様々な形で封印された化け物たちだ。

「おう、待たせたな」

 魑魅魍魎は塀二の周りで押し合いながら強烈な意思の波動を放つ。

『ここから出せ、封印を解け』

 歪な牙や数え切れない爪で塀二を貫き殺そうかという殺気で迫る。

 塀二は一喝した。

「脅しは無為と知れ。実体無ければ何するものか」

 血に備わる室倉一族の感覚を介して幻影が見えているだけで、有形にも無形にも実在しないので攻撃される恐れはない。それを知っても尚恐ろしい光景にまったく怯まずにいた。

 塀二は封印を守る当代の術士として彼らに毅然とした態度を見せなければならない。抵抗しても無駄だと思い知らさなければ封印は破られないまでも波動を発し続け、付近に吹き溜まる瘴気を糧に邪まなもの――害思徒ガイストが生まれてしまう。

 害思徒は封印された化け物たちが蔵を破壊する為に作り出す手駒だ。とは言っても従順に振舞うほどの知能はなく単なる暴徒と化すばかりなので余計に放っておくことはできない。

 毎晩害思徒退治に出向かなくてはならない現状はそれだけ塀二が封印された化け物連中に侮られている証と言えた。

 しかしながら完全に塀二の未熟が原因というわけでもない。何しろ封印は六年前彼の父の代で一度破られ、あとに続こうとする期待は高まったままだ。その時に自由を許したのはたった一匹でほんの短い時間にしろ、その幸運な一匹は今も框の影の中にいて蔵を抜け出すことには成功している。

 そうした事情で塀二は彼らに威厳を示さなくてはならなかった。

「尋ねたいことがある。答える気のある者はあるか」

 尚も出せ出せと騒ぎ立てる声は無視して、塀二は闇に向かって呼びかける。

 脅しをかけてくるような連中は比較的小物で、大物こそじっと息を潜めている。そういう連中の知識は侮れない。中にはもう何百年も封じられたままでいる例もあり、面白がって助言めいた真似をする化け物もいる。あまりに永い時間の中で凶暴性を失ったのか、元々そういう性格なのか、それは塀二にもわからない。

「〝点葉羽てんようう〟の様子がおかしい。誰か、わからないか」

『如何様におかしい』

 いくつもの雑音に混じった返答を聞き逃さず、塀二は声のした方へ体を向ける。塀二が手に取ったことのない物も多くどの封印が返事の主かまではわからない。

 点葉羽というのは瘴気を探ることができる羽根型の道具で、ある程度濃い瘴気の気配を捕まえると逃れるように動いて持ち主に化け物の接近を報せる。言わば害思徒探知機だ。反応に気付きやすくする工夫として鈴に結びつけてある。

 昨晩はそれがうまく機能しなかった。微動を繰り返すばかりで、小型とはいえ害思徒の接近を見逃した。こうした場合にどうすべきか、塀二は父親から聞かされておらず室倉家に残された文献にも見つからなかった。

 視覚が役に立たない夜を本領とする瘴気を相手にする以上、その接近を探れないとなれば致命的だ。

 妖部、特に室倉一族は瘴気を直感的に察知することができる。ただしその精度は専門の道具に比べるとやはり鋭さで劣る。昨晩は動物の反応も見ながら対応した。今後も点葉羽を頼らず同じ方法を続けていくこともできなくはないが、偶然に頼るのは避けたい。

 もしこれが解決されないとなれば残る希望は闇渡、ということになる。瘴気を基にし瘴気が好物でもある闇渡ならば害思徒の気配を隙無く察知できる。

 しかしその方法は魔性を宿しているとはいえ一応は一般人の框を自分の都合で巻き込むことになる。今でも勝手について来てはいるが、そんな身勝手は選べない。それに点葉羽も室倉家の管理呪具である以上、その性能を保つ責任がある。だからこそ塀二はこうして蔵の中で化け物たちに助言を求めた。

 本来なら彼らを呪具として管理し、使う役目を負った室倉家の人間が彼らに助けを請うなどあってはならないことだ。しかし事故で父を失い予定よりも早く代を継ぐことになった塀二には経験と知識が不足している。それを自覚する彼はそのことを隠すつもりもなかった。遥か永い時間を生きた化け物相手ではいくら虚勢を張ったところで必ず見透かされる。

 塀二は昨晩の様子をすっかり化け物たちに語って聞かせた。

 化け物同士の無意味な罵り合いを聞き流しながら、少ししてから再び聞こえた応答は実に落ち着いた声をしていた。

『あやしきに目を凝らせ、幼き蔵守りよ』

 曖昧な返事ではあったが、あまり弱味を見せているわけにもいかない塀二は黙って頷く。原因が点葉羽そのものでないのなら心当たりはあった。


 室倉家に伝わる管理呪具台帳はそれぞれの呪具を危険度によって格付けしている。何をしたところで被害は発生しない〝平級〟。心身に一時的な支障を来たす〝病級〟。肉体の一部又は生命を失う〝損級〟。周囲に甚大な破壊を引き起こす〝災級〟。使い方を誤れば、或いは誤らなくとも区分された通りの被害が出る。

 点葉羽は危険度最低ランクの〝平級〟だ。その程度の道具を使いこなせないようでは蔵守りとしての務めを果たせない。

 塀二は平手を合わせてぱんと軽快な音を鳴らし、途端に明るい表情を作った。

「よし、どうだお前たち。不平不満があるなら聞こう」

 封印された呪具を管理することは何も外面のみに限られない。呪具の状態を整えるなら、封じられた化け物の心を穏やかに保つこともまた室倉の役目だ。平たく言えば「化け物と親睦を深めること」と言ってしまっても大きな違いは無い。

 塀二が代を引き継いだばかりの頃は『出せ』の一辺倒だった声が、今では様々に聞こえるようになってきた。やれ「湿気が酷い」「こんな奴の隣は嫌だ」と喚き出す。それらは全て塀二が主人として認められ始めている証と言えた。

 この調子で信頼と尊敬、あるいは畏怖を獲得し、封印を破るのではなく術士の監督の下使役されるほうが現実的と考えを改めさせる。それができて初めて蔵守りとして一人前で、塀二にとって当面の目標になっている。

 こうして暗い蔵の中で一人、身動きのできない化け物たちと語らいながら呪いに命を蝕まれる。与えられた役割を果たすことに塀二は懸命だった。


「おーい、いつまでやってんのサ。遅刻するよ?」

 入口を叩く音を背に聞いて、塀二は全身の毛を逆立てて飛び上がった。

「馬鹿! 近寄るな!」

 ポケットから取り出した筆を握り、それまでとは打って変わって警戒心を前面に押し出した余裕の無い表情で暗闇を睨み回す。そこかしこで封印から抜け出す機会を窺う緊迫した気配がする。

(俺が目の前にいるのに、蔵に近寄られただけでこれかよ!)

 塀二は自らの体たらくを恥じながら、後ずさって入口に背中をつけた。

「鴨居! 家に戻れ!」

「だっていつもより長いから、あんたが倒れてんじゃないかって――」

「いいから戻れ!」

 蔵の周りに敷かれた玉砂利を鳴らす歩調からして渋々と、そして進むほどにむしろ大きくなっていく音で次第に怒りを蓄積していっているのがわかる。が、今は気にしていられない。

 あなどられた。呪具に封じられた化け物共に、この術士ならば出し抜けると思わせてしまった。失態だ。

 塀二は自分を包む闇に混じる害意を感じ取り唾を飲んだ。喉元へ牙があてがわれているかのような切迫した危機感に心臓が暴れる。

 ゆっくりと呼吸を繰り返して落ち着かせ、四度目で筆を持ち上げて宙に構えた。

 特定の字を書くことで様々な術を扱うことができる筆、妙禁毛みょごんげ。点葉羽と同じく最も安全な〝平級〟で、塀二が普段から持ち歩くほど愛用している呪具だ。

「静まれ。荒れあらば下す」

 格上の相手であろうと既に封じているからには生殺与奪の権は塀二にある。今はその優位性を誇示することでしか従えられない。

 威圧感が失せ化け物たちが大人しくなったことに安堵して、塀二は筆をしまいながら静かに鼻から息を吹いた。未だスムーズにはいかなくとも術士としての腕は上がっている。そう考えていいのだろう。以前はこれでもうまくいかなかった。

「今日はしまいだ。また明日来る」

 言い置いて蔵を出ると入念な手つきで錠を確認する。

 その様子を縁側から框が見ていた。仏頂面で膝に肘をつき掌に顎を乗せ、体は塀二を向いていても眼はよそを見ていて、話しかけようという雰囲気は感じられない。あからさまにふてくされている。

 気がついた塀二は忌々しげに唸ってから框の前まで歩いて行った。

「蔵に近づくなって、何遍も言ってんだろ。このタコスケ」

 影に化け物を宿している框が周りをちょろちょろすれば蔵の中が乱れかねない。が、塀二が怒っている理由は他にあった。

 蔵の中は呪的には別として、空間的には完全に密閉されているわけではない。何しろ元は人が造った建物なので隙間はある。つまりわずかではあるが香の煙は漏れ出ている。命を縮める煙がだ。風に紛れれば問題はなくとも間近で嗅げばとても安全とは言えなかった。

 框の視線が正面へ戻り、塀二を睨んだ。

「今日はいつもより長いから、あんたが中で倒れてんじゃないかって思った。だってあの蔵、健康に悪いんでしょ?」

 自分の立場を理解させる為に框には地球守りや室倉について説明してある。しかしこうして余計な気を遣われて危険を増やされるくらいなら、いっそ話さなければよかったと塀二は後悔した。

「あのなあ、お前もうホントにここに来るのやめろ。危ないんだから」

 塀二が強く言うと、框は手を伸ばして塀二の頬を思い切りつねった。「ぎゃっ」と悲鳴をあげても指の力を緩めない。

「危ないから心配したって、言ってんのに……!」

「オーケーオーケー! 届いてる。お前の優しい気持ちは俺に届いてる! 俺は見抜いてナンボの室倉だからな!」

 塀二は痛みに耐え降伏の姿勢を取った。框が涙目になっているのを見れば強引に振り払うのはためらわれたからだ。

「万事において準備が大事の室倉は心配かけるようなムチャはしないんだよ。大体お前を残して死ねるわけないだろ?」

 塀二は框以上に6年前の事件について強く責任を感じている。

 当時まだ幼く宿命の重さよりも蔵を恐れた塀二は父から言いつけられていた見張りを怠け、自分の部屋で暢気に遊んでいた。事故はその間に起こった。

 あの時きちんと自分の仕事をまっとうしていれば框は化け物に憑かれることなく、父もまだ生きていた。塀二が室倉家の役目に打ち込む根の部分にはそうした後悔の念がある。室倉家の人間として立派に責務を果たし、その過程で框の影から化け物を取り去る。それが償い以前の当然として掲げている目標だ。

「お前のことは絶対に俺が責任持つからな」

 覚悟を込めて重ねて言うと、動揺していた框は顔を真っ赤にしてつねっていた頬を離した。

「んなっ、急に急いでそんなこと?」

「もちろん簡単なことじゃないからすぐにとはいかない。でも、信じて待っててくれ」

「そういうことはその時に言ってくれたらいいから! あたし信じて待てるから!」

 框は慌てて腰を上げ傍らの籠を持ち上げた。籠には濡れた洗濯物が詰め込まれている。

「オイ待て、お前何勝手に洗濯機使ってんだ」

「えっ……? いいじゃない、使わせなさいよ。ここの洗濯機良いやつなんだからサ。あたしが選んだんだし」

 顔の温度を戻した框が不平を言う。

 室倉家の生活資金は地球守りから、中学生がひとりで暮らすには過剰と言っていいほどの額が支払われている。電化製品を次々新しいものに取り替えても使い切れないほどだ。

「百歩譲って使うのは別にいい。それより、それ俺のも入ってるだろ」

 同級生に自分のパンツを干してもらうのは思春期男子としては耐えがたい。

「ついでだから。あたしの分は昨日の夜の汚れ物だから使わせないなんて言わせないかんね」

「昨日は汚れるほど――」

「あーもうゴチャゴチャうるさい!」

 一喝と共に塀二の頬が伸びる。

「痛い! お前そうやってすぐ手を出すのやめろって!」

 瘴気の塊を背負い込んでいるせいか框には暴力的な面がある。それがつねる程度で済んでいるのは可愛いものなのか、いっそ元々の性格のようにさえ塀二には思えた。

「更に百歩譲ってやるから俺のパンツは俺に干させてくれ」

「将来的にあたしがやるんだからもういいじゃん!」

「将来ってなんだ? 自分の洗い物くらい自分でやるわい!」

「家事をやってくれるのはありがたいけど!」

 釣られてヒートアップした塀二は含み笑いを聞き冷静になった。笑い声は框の影の中からだ。

 蔵から脱しているとはいえ、本来呪具として封印されているべきであるからには情けないところは見せられない。両頬を引っ張られた状態では既に手遅れだとしても。

『おんしも妖部なら、たかだか小娘にそう手こずってどうする』

「余計な口を挿むな。室倉は通常の妖部のような戦士とは違う」

 現存する他の妖部の家系だったなら、或いは闇渡を始めとした化け物たちとも互角に振舞えるだろうが、生憎室倉にはまじないと意思を見通す力しかない。体育の成績も中の下くらいだ。仮に殴り合いをしたなら框にも負ける。

「室倉は知恵と道具が武器の術士だ。生身で張り合うつもりはない」

「そんなこと言ったって力が必要な時だってあるってもんでしょ。その為にあたしが手伝ってやってんだからサ」

 誇らしげに胸を張る框を冷ややかな目で見つめて、塀二は長い長い息を吐いた。

「それはお前の力じゃないよ。室倉には呪具さえあれば――わかったわかった! 頼りにしてる!」

 再び指を突き付けて来た框に怖気づいて塀二は頬を庇いながら後退あとずさりした。

「わかればよろしい」

 満足そうなほほ笑みを見て、こんな時にしか笑顔が出ないことを心から残念に思った。

「じゃあもう制服に着替えといで。今日午後から雪って予報で言ってたしちゃんとあったかくしときなよ。手袋新しくしといたからサ、また右手の方だけどっかにやらないようによね」

 まるで母親のようなセリフ、と思うには塀二は体験が足りない。

 塀二は自分の母親を知らない。早死にの宿命を避け室倉の家には直系の男子しか住まず、塀二の母親がこの家で暮らしたことはない。また他所で顔を合わせたこともなかった。超常を常とする為一般の家庭とは様々な点で異なる。

 室倉家の当主は年頃になると地球守りによって〝嫁候補〟が選出され、半ば強制的に跡継ぎを作らされる。女子が産まれた場合そのまま地球守りによって育てられ、男子の場合は産まれて一年もしないうちに室倉家当主の下で蔵守りとしての英才教育を施される。特殊な血統が絶えることのないよう管理する目的の他、数を増やし妖部が強力な派閥として成長することを防ぐ為でもある。塀二もまたその伝統に則って育てられた。

「洗濯物廊下に干すけど文句ある?」

「もう好きにしてくれ」

 廊下を自分の部屋へと歩き始めた時、塀二はおかしなことに気がついて振り返った。

「鴨居、なんでお前は制服に着替えてないんだ?」

 登校時間が迫っているというのに框はまだ私服で、ぴったりしたジーンズと長袖シャツといういつも見る寒そうな恰好をしていた。もっとも、今はエプロンが足されてはいるが。

 着替えに家へ戻るつもりでいるのなら今すぐに出発しなければ始業時間に間に合わない。そうなると悠長に洗濯物を干しているような余裕は無かった。

 框は「何を言っているのか」とでも言いたげに眉を歪めた怪訝な顔で答えた。

「平気。制服ならこっちに置いてあるからサ」

 朝は塀二が目覚めると既に台所で朝食を作っていて、一緒に登下校し放課後は夕食と風呂の支度をしてから帰る。それが框の日常だ。制服はここへ置いていたほうが効率的だと考えたらしい。

「うおお、それは何にも平気じゃねえよ!」

「納戸の箪笥ちょっとだけ借りてる」

 平然と説明をする框の前で塀二は頭を抱えて唸った。

「なんて言ってやったらいいんだこれは……。あのなあ! そんなんじゃ親が心配するだろ。してないか? なんて言ってるんだ」

「パパはあんたをウチに連れて来いって言ってる。ほっといたらいいよ」

 年頃の娘が朝から晩まで男の所へ通い詰めていれば特に男親としてはそういう心配をしないではいられないであろうことは塀二にもわかった。

「あのなあ、親を不安にさせないでくれよ。……頼むから」

 懇願する口調ながらそこに譲らない意思が篭っていることと、その理由までが框に伝わる。

 親のない塀二にしてみれば今の框の態度は見過ごせるものではなかった。それがわかって框は一旦は反発しようとした勢いをみるみる萎ませ、不満を残したまま表情を沈ませる。

「だってあんたのことほっとけないしサ……」

 もごもごと呟く框を見て塀二は鼻から息を抜き、肩から力を抜いた。

 遠ざけようとするからかえって意地にさせているのかもしれない。そう思い当たった。

「えっとだな」

 気苦しげに、塀二は視線をあちこちへ漂わせながら頬をかく。

「実は今、瘴気の気配を探る呪具の調子がおかしいんだ。原因はまだわからない。だから害思徒退治をするには闇渡の――お前の助けがいる」

 闇渡は気位が高く塀二には従わないものの、真名まことなを知っているせいか框に対してなら一応は従順に振る舞う。框が頼めば協力を得られるはずだ。

「お前の両親のことは必ずちゃんとするから……悪いけどしばらく手伝ってもらえないか?」

 点葉羽が復調する迄の間、瘴気の気配を探るには闇渡を頼る他なく、框の協力があればその点で助かる。しかし塀二がそれを望んだのは、そういう理由からだけではなかった。

 ずかずかと生活に入り込んでくる無遠慮なお節介がいなくなれば、本当に独りになる。そのことが途方もなく恐ろしい。歪でももう少しの間は家庭の温かさを味わっていたい。

 自分のせいで罪の意識を植え付けただけでなく、更には自分の都合で利用しようとしている。自己嫌悪にまみれた塀二が断罪を覚悟して伏せた顔を上げると、ほぼ同時に頬をつねられた。

「あたしがあんたを助けるのに、いちいち理由を用意するなっての!」

「いやだって理由作っておかないと、『もう用事は無くなったから』ってフェードアウトできなくなるじゃないか」

「ポイ捨てするつもりか! いいからさっさと着替えておいで!」

「ああっくそっ! コエーなあ、チクショー!」

 怒鳴られてたまらず、塀二は悲鳴を上げながら廊下を自分の部屋へと小走りに駆けていく。

 その背を目で追う框の目つきは、少しだけ和らいで寂しげになった。

「もっと気軽に頼りなさいよ。……ばか」

 呟きはさして空気を揺らす力を持たず、離れていく唯一の住人には届くはずもない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る