グッズ守り出納帳

福本丸太

プロローグ

 脇腹が痛むからというのは泣き言で、そんなことを理由に立ち止まるのは甘えに過ぎない。無理を続ければまずいことになるかもしれない。そんなことは、あとから考えた醜い言い訳だ。

 彼はそう考えた。考えて、自分を追い詰めた。他人よりも短い一生を爪先立ちで生きる為に。



(……いるな)

 小さく頷いて少年は周囲への警戒を更に強める。

 ここ街の中心地から離れた住宅地に大きな明かりはなく、酒屋やクリーニング店などの小商店も夜十時を回ってはどれもが閉店している。夜空は厚い雲で覆われ路面を照らすものは電柱に取り付く古ぼけた蛍光灯と、家々の窓から漏れる生活光だけだ。

 だが仮にどれだけ明々と人工の光が灯っていたとして、今が闇の支配する時間であることに変わりは無い。

 少年は首元から入り込もうとする冷たい風にジャケットの襟を立て、凍てつく寒さに目を細めて通りの先を見つめる。他は厚手に着込んでいるにも関わらず右手に手袋は無く、かじかむ指は太い毛筆を掴んでいた。

 強く握っては緩め、寒さに痺れた触覚で筆の存在を確かめると同時に指が凍らないよう努めている。

(……近づいている)

 どこかの家の庭先で犬が吠えるのを遠くに聞き、少年は不吉な気配を感じ取った。それも急速に大きくなりつつある。

 少年は視線を落とし、足元のバッグから突き出た竿の先にある風鈴――に吊るされた一枚羽根を見やった。掌を隠すほど大振りなその羽根は淡い照明を七色に反射してゆらめきながら、吹き荒ぶ寒風に流されることなく下へ垂れ細かな振動を続けている。

「もうそこまで来てるだろうが。ったく、仕事しろよな」

 毒づくと、また別の犬が吠えた。今度は前置きの低い唸り声が聞こえるほど近い。

 やや遅れて羽根が大きく動き、鈴を鳴らした。非難に反抗したかのようなタイミングに少年は苦笑しながら身構える。右手を柔らかく伸ばして通りの向こう、薄く続く暗闇へと筆先を向ける。

 すると外灯が隅に押しやるぼんやりした暗がりから闇色の何かが飛び出した。見たまま影だ。路面に落ちる影と同じ濃さのぼやけた立体が動き、進路に立つ少年めがけて突進していく。

 いざ接近すればさっきまで威勢よく吠えていた犬たちはすっかり怖気づいたようだった。すぐさまそこを離れようと紐を引き、もがくなり小屋へ逃げ込むなりめいめい避難を始める。

 明らかに自分に害を為さんとする意思を前にした少年は臆することなく右手を振り上げた。すると筆先が輝き、残像を生み出し光の帯を空中に描き出す。

「実体も朧なら一枚で充分」

 光の帯が象ったは〝困〟の一文字。空中を直進して影を迎え撃つ。

 激突の瞬間火花が飛び散り、影は渦を巻き地面の中へ吸い込まれるように収縮して消え失せた。あとには何も残っていない。影も、光る文字も。

 少年はその様子を見届けると次いで風鈴の羽根が微動を止めているのを確認して全身の力を抜いた。それはこの一帯から瘴気による害悪が失せたことを示していて、つまりは少年が自らの役割を果たしたことを報せていた。


 かつて地球には意思があった。遥か昔マグマのスープの中に原始の生命体が誕生してから、自我と呼ぶには値しない生命の微かな意思が気の遠くなる時間を積み重ね、結果的に彼女に心を与えるに至った。人間が六十兆の細胞の上に人格を持つように、地球は生命心理の進化の過程に心を手に入れた。

 止まらない生命の進化に伴ない、いつしか彼女には彼女を信奉する同種の仲間ができた。後に呼ばれる〝地球守り〟の原点がこれに当たる。しかし生命の進化が行き詰まりを見せ、地球を巡る生命の意思が純粋さを失い邪に穢れるとそれを根幹とする彼女たちはその影響を受けることになった。

 やがて地球意思は沈黙し、指導者を失った地球守りは二つに分かれた。これまで同様不干渉を続け地球上に生きる命の動向を見守ろうとする軍勢と、生態系を一度破壊し一種の一人勝ちとなっている現状を崩そうとする軍勢だ。二つの勢力は互いを離反者と蔑み敵対を始めた。

 一方で、地球を席巻する一種――人類を守る側に立った地球守りに協力する人間たちがいた。正確には人間ではなく、人間の能力を超えた力を持つ、妖部あやしべと呼ばれる者たちだ。

 室倉塀二はその内のひとりとして産まれた。地球守りによって収集された様々な道具を保存・管理することを任された、呪われた一族の末裔として。

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