嵐天の後差す陽

 塀二がまだ自分の宿命を受け入れる前のこと。父が伏す死の床にすがり「死なないで」と懇願すると、父は息子に「無理だ」と言い放った。

 泣きじゃくる息子から悲しみの思念が溢れるのを感じながら、父は優しく微笑んだ。

「あとのことはお前に任せる。全てお前が決めるんだ。いいか、蔵守りは単なる荷物番じゃない。蔵にある呪具を使えば世界を壊すことだってできる。けど父さんは、お前が運命にいじけるんじゃなく、守りたいものを見つけて、それを守る為に生きてくれたらと願うよ」

 それから六年。塀二はおそらくその時彼の父が望んだように生きている。



 呪具、妖精の井戸。危険度〝損級〟。石組みの輪を地面に軽く差しておけば中から小人が現れて、残された思念を基に手を加え未完成の工作や破損された建築物を完全な状態にする。作業中に居合わせると小人に殺されてしまう為、目撃者が出ないよう周りを見張りつつ自身も小人を目視しないように気を付けなければならない。手間も危険も大きい厄介な道具だが、今夜はある程度の被害を予想していたので予め用意してあった。

 作業完了を待つ間ノーニャにもう一度作ってもらったカマクラの中で、塀二はうたた寝から目覚めた。昔のことを夢に思い出していたような気がする。

「うげ、やべえ!」

 自分が眠っていたということを自覚して青ざめる。もし通行人が来ていたら、もしなんらかの事情で小人がカマクラの前を横切っていたら、既に殺されていたかもしれない。

 塀二は恐る恐るカマクラから顔を出し学校を見た。割れた窓ガラスは残らず復元されているようだ。校庭も平坦になり傾いた体育館も直っている。

 近づいてみると妖精の井戸の周りには内向きの足跡が幾つも残されていた。仕事を済ませて帰ったらしい。辺りに目撃者の死体は見当たらない。

「ああ、よかった。夜更けで助かったな」

 時刻はとっくに日付を越している。被害の程度を考えれば早く済んだほうだろう。何にしても自力では復旧不可能なのでどれだけかかろうと待つ他なかったわけだが。

 現場での仕事が済んだので身を震わせながら早足で家に戻る。表の門を開けてまずは玄関よりも先に蔵へ向かった。ペストの封印がまだだ。

 鍵を外し、疲労困憊の体では余計に重く感じる扉を開く。流れ出る香の匂いはこんな状態では余計に辛い。

「やあみんな。今日は新しい家族を紹介するよ」

 冗談を言いながら暗闇を歩きながらどの場所に保管すべきか考える。少し悩んだ末、呪具よりも妖魔が多く並ぶ辺りにした。

「いつかはお前と人間が共存できる世の中になるかもしれない。そんな時代が来るまで悪いがここで待っていてくれ。ひどいことしたから俺を恨むのはしょうがねえけど、恨みは俺の代までにしといてくれよ。末代までなんて言ったって室倉を呪ったりはできないんだからさ。ここの連中とも仲良くしてくれ」

 封印されたばかりでは元気も出ないらしく瑠璃と貸したペストの思念は弱い。まるで死にかけているかのようだが、かすかに届く思念は見事な減らず口だった。

「それだけ言えりゃ上等だ。さすが病魔の頂点だな」

 笑って言い、蔵を出てしっかりと封じる。

 連戦、それも妖部と依霊を相手にして生き延び、誰も死なせなかった。

(見てるか父さん。俺、うまくできてるよ)

 室倉の知覚にも霊魂らしきものは引っかからない。おそらく初めから存在しないのだろう。思想思考は生きている者だけの特権だ。それでも塀二は夜空を見上げ、そこにいるように思って胸の中で父に語りかけた。

(ちゃんと室倉をやる。でも父さんとは違う風に生きるから)

 ひたすら息を潜めるように暮らし、静かに息絶えた父とは別の生きかた。号泣されるほどはなく、がっかりされる程度に惜しまれる。それが塀二の望む生涯だ。その為に他人と関わることを決めた。


 玄関へ回って戸を開けると、目の前にノーニャが立っていた。近かったので驚いて思わず飛び退く。思念で感知できたはずだが、使命を自覚する以前から過ごしているこの成果ではつい油断してしまう癖が塀二にはあった。

「おかえりなしまし」

 ノーニャは昂って落ち着かない様子だ。思念を読むまでもない。

 散々動き回って緩んでいた包帯はきちんと締め直されている。これが要らなくなるようにしてやると、約束していた。

「何もこんな所で待たなくてもいいだろ、寒いのに。中に入らなかった?」

「ノー、悪魔憑きの娘にお風呂いただいたデス」

 室倉ほどではなくとも多少瘴気を感じ取ることができる妖部なら呪具封じの蔵がある室倉家を見つけることは難しくない。なので学校の修繕を始める前に鍵を渡し先に行かせていたのだが、結局ここまで框が同行したようだ。

「なんだあいつ、もしかしてまだ残ってるんじゃないだろうな。家にも帰らずに」

 ペストの呪いはなくなったとはいえまだ弱っているのだから安静にしておいたほうがいい。まだいるようなら送っていきたいが、親に見つかったらと思うと気鬱だ。かといって泊めてしまうのもそれはそれで障りがどうか。

「私お風呂にいる時に帰る言ってたデス」

「そうか、帰ったか。まあそりゃそうだよな」

 流石のお節介も限界だったか。ほっとしていいものか迷いながら靴を脱いだ。

「悪いけど、お前のことは明日にしてくれ。今日はもう疲れた」

 約束は味方に付けたい一心で出まかせを言ったわけではない。きちんと塀二なりの算段があっての発言だった。とは言え今の塀二には計画を実行するだけの余力がない。

「オウケイ、楽しみデス!」

 一大決心をするかのような深刻さで神妙にノーニャが頷く。

 彼女にしてみれば人生を変える問題なのだからそれも当然だろう。翌日に遅らせてしまい心苦しいという思いはあっても、不満足な状態で爆弾処理を仕損じるわけにはいかない。

「そっちに俺の部屋があるから、ベッドを使ってくれ。トイレはこっちな。じゃあおやすみ」

 有無を言わさぬ調子で言いながら、居間の炬燵へ身を滑り込ませる。とにかくもう一秒でも早く休みたかった。

 その意を汲んだらしいノーニャも無理に遠慮はせず、挨拶だけを返して塀二の部屋へ移った。

 塀二はすぐに瞼を閉じ眠りへと急ぐ。

(ひどい一日だった……。でも乗り越えた)

 冷えるので足でコードをたぐり炬燵のスイッチを入れた。框がこの場にいれば行儀が悪いと叱られるだろうと夢想しながら。

 框は今頃どうしているだろう。寝ているに決まっている。今夜は負担をかけてしまった。巻き込まないどころか助けられてしまっては、今後これまでと同じようには注意しくくなる。それとも自分から「もうあんなのは嫌だ」と切り出されるかもしれない。元々拒絶していたのだから、引き留める立場にはない。闇渡の封印に関わること以外では関われなさそうだ。

 それが正解のはずが、気分は落ち込んだ。

 一方良いニュースもある。ノーニャが保有する莫大な瘴気をうまく使えば限定的な平和を実現することも不可能ではないからだ。明日以降今夜のようなことはもう起こらない。

 框にはせめて最初で最後の協力として今夜のことを感謝したい。感謝。改めて考えると何をすればいいかわからなかった。

 関わるな、という態度を崩すわけにはいかなかったので強引に押しかけて家事をやってくれていることについて感謝を表したことはない。まずはそれからだろうか。

(プレゼントかな、やっぱり)

 今日も十字架のペンダントを身に付けていたことなど框は割とシンプルなようでいて洒落た恰好を好む。瘴気を払いに出かけるだけならジャージ等動きやすい服装が向いているに決まっているのに、それでも余所行きの服を着てくるので塀二も気付いてはいた。

 服、又はアクセサリ。猫美なら良いアドバイスをくれるかもしれない。そう言えば猫美の具合はよくなっているだろうか。

 そうして他のことへ思考が移行しかけた頃、塀二の意識は閉じた。



 ふと目が覚めた。まだ部屋は暗く、朝は遠い。体はまだまだ休息を欲しがっていて自分が寝入っていたことに気付くのも時間がかかった。ぼんやりしながら炬燵の赤外線で部分的に熱を持ったジーンズから逃げようともがく。

 たまたま目が覚めた。それだけのことだったとしても、塀二の場合それで済ますわけにはいかない。眠りの最中に何者かの気配を感じ取ったせいかもしれないからだ。

 炬燵の真上、蛍光灯のスイッチにぶら下げた点葉羽を見る。動きはない。近くに瘴気の気配が無いということだが、原因は封印したといってもここ数日様子がおかしかったこともある。(術士は常に、用心を手放してはいけない……)

 教えを思い出しながら目を瞑り、耳を澄ますようにして室倉の知覚を冴え渡らせた。

 すぐそこにわずかな気配。これはノーニャのものだろう。あとは蔵が騒がしい。ペストの歓迎会でもやっているのだろうか。

(……何もいないか)

 どうやら気にし過ぎだったようだ。

 塀二はあくびを一つ、もう一つ。再び眠りに落ちようとしたが、下腹部に無視できない欲求を感じて忌々しげに唸りながら炬燵から体を引き抜いた。トイレだ。

 寝起きの三半規管に騙されふらふらと廊下を進む。廊下突き当りのトイレは明かりが点いたままになっていた。かと思うと中から框が出てくる。

「あ、電気そのままでいいぞ」

 喉が粘ついて声はハッキリとしなかったものの意図は伝わったようで、框は同じく寝ぼけ眼で頷くとすれ違っていった。

 入れ替わりにトイレに入るとベルトを外し、着替えすらしていなかったことに思い当たる。どうでもいいことだ。

 脱力。体の熱が外へ排出されることで身震いを起こした際、少し脳が覚めた。なんであいつここにいるんだろう。

「……鴨居! てめえ!」

 雫を切るのももどかしくトイレを飛び出す。框は逃げるようにして廊下の角を曲がったところだった。その先で床板を鳴らして逃げていく。

「いつからだ! お前いつからここに住んでやがる!」

 どうやら自覚していた寝ぼけていたらしかった。ノーニャの気配は直視しない限り発見できないほど穏やかなものだ。室倉の知覚で感じ取れたのが框だからこそ、框の瘴気を記録している点葉羽が反応しなかった。

(用心どころか家の中に入り込まれてんじゃねえか! ご先祖様に笑われる!)

 普段家にいる間は点葉羽に頼り切りで、他に誰かがいることを考えもしなかった。だからわからなかった。使命を理解するまで過ごしたこの生家ではついつい油断してしまう癖が塀二にはあった。

 追いかけて廊下を曲がると框の姿は消えている。しかし隠れる場所は限られる。居間、脱衣所、手当たり次第に戸を開いた。

 突き当たりの納戸を開くと、床に見慣れない布団が敷かれているのを発見した。可愛い花柄に包まれて框が寝ている。わざとらしいまでに行儀のいい寝相だ。

「ふざけんな起きろ、何か言うことがあるだろが」

「疲れてるの。話なら明日にして」

 言いながら向こう側へ寝返りを打つ。

「何言ってんだ。俺だって昼も夜も――いや倦怠期の嫁みたいな返事やめろ!」

 納戸は箪笥が並ぶだけの、主に衣類を保管している部屋だ。着替えの用意や衣替えに至るまで框が勝手にやっていたのでこうして足を踏み入れたのはいつ振りのことか記憶にない。思えば家の中にそうした場所がいくつもある。身を潜めるのは容易だったろう。

 毎朝起きると居間にいたのは合鍵を作って入り込んでいたからではなく、前日に帰るフリをして止まり続けていたからだったらしい。

「倦怠期じゃない。あんたが夫ならちゃんとした返事するっての」

「余所の家に定住しといて偉そうにするな!」

 力尽くで布団を引っぺがすと、抵抗した框の体がぐるんと反転して塀二を向いた。框の顔の前には屈んだ塀二の腰がある。

「ば――しまえ! 変態!」

 下腹部へと拳を突き出され、塀二は苦悶の悲鳴を長く伸ばしてばったりと倒れた。大急ぎでトイレを飛び出してきたので、飛び出したままでいるのを忘れていた。

「ぐお……おい、待てって」

 逃げる框を取り逃がし、前傾の内股小股であとを追う。ところが居間に着くと框は仁王立ちで塀二を待ち受けていた。

「そう……それじゃあ、話し合いといきましょうか?」

 殺気立つ半眼の向こうにノーニャがいる。騒ぎで起きたらしくぼやっとした寝ぼけ顔で、体に巻きつけた毛布の下はどうやら全裸だ。襖が二枚、廊下を挟んで開いているので塀二の自室から出てきたと一目でわかる。

「そりゃあたしがいると困るだろうねえ、余所の女連れ込んでるんじゃサ」

「お前何か勘違いしてないか? こいつには明日用があるんだ。その間外にほっぽり出しとくわけにもいかないだろ」

「ああん? 明日か、明日何するっての。今だってパンツ下ろしてたくせに。こんな小さい子相手にサ!」

「だから勘違いだつってんだよ。それにこいつはガキに見えるけど実際俺たちより年上だ。ゆっくり長生きする家系なんだよ」

「へー、じゃあ年上がいいんだ!」

 すっかり逆上して話が通じる状態には見えない。完全に性欲の使徒にされている。

「あー……ていうかなんだお前元気だな。よかった安心した」

 説得はもう諦めた塀二が素直な感想を口にすると、不思議と框の勢いが衰えた。刺々しい空気が和らぐ。

「あんたは随分顔色悪いじゃない」

「知ってるか。あんまり寝てないんだよ。今夜ももうちょっと寝れそうにない」

「……ごめん」

 きっかけを把握できないものの框の怒りは静まった。怒りっぽいが、あとを引かないのが良いところ。塀二はそんな風に安穏と考えている。

「イクスキューズミー……」

 原因が自分にあることを感じ取っていたノーニャは今なら火に油とならないと察して横からおずおずと声をかけた。

「なんだ吸血鬼」

「そのQ血鬼って言うのやめるデス。私〝鬼〟じゃないデス」

「まあ、字ではそう書くけどサ」

「鬼ならアナタを鬼と呼ぶデス。ミス・アマノジャキ」

 外国人ならではのきっぱりとした自己主張として、びしっと框を指差す。天邪鬼あまのじゃくと言いたいらしい。

 一瞬怒りかけた框だったが、どうにかこらえて感情を押し留めた。知り合ってほんの少ししか経たない相手に根性を指摘された屈辱を、黙って受け入れることで反抗を示したいのだろう。それこそ曲がっているような気がする。

「ええと、あんたの名前なんだっけ」

「どうぞノーニャと呼んでくだしーましー」

 ノーニャは恭しく頭を下げ、拍子に肩から滑り落ちかけた毛布を框が掴んで抑えた。

「それで、一体これからどうしようっての? まさかノーニャは泊めといてあたしには帰れってんなら、承知しないかんね」

 虚仮脅しでない思念が瞳に燃えている。塀二はため息をついて壁時計を振り仰いだ。

「追い返せるような時間でもないだろ」

 深夜三時。送っていけばそれでいいという時間ですらない。他家を訪ねるには非常識な時刻だ。なにより塀二の体力が底近く、会話していても気を抜けば意識が霞むほど危うい。

 泊めるしかない。実際口に出すのを躊躇っていると、その非常識な時間に呼び鈴のブザーが鳴り響いた。来客だ。

「ったく、取り込んでるってのに――」

「待て、出るな」

 いつもの調子で自分が動こうとした框を塀二が手で制する。繰り返し鳴るブザー音に不吉なものを感じていた。

 室倉家の敷地内には魔除け人除けの術式が施してある。室倉家当主が歓迎しない魔性を遠ざける効力を持っている。ただしそれも内側にある思念が外側にいる何かを迎え入れる意思を示してしまえば効力を弱める。

 その危険がある為塀二は今框を出迎えに行かせなかった。もし邪悪な来客だった場合、迂闊に返事をしてしまえば付け入られる。

 表に瘴気の気配はない。しかしつい先程框を見過ごした例があるので注意を強め、玄関に回った塀二は慎重に戸へ顔を近づけた。そこまで行けば表の思念も感じ取れる。

(こいつは――)

 塀二はそれが何かを掴み、反射的に振り向いて居間にいる二人に向かって大きく腕を振り横へ切った。

「隠れろ。いや、逃げろ。庭に出て蔵の方角へ逃げたら瘴気に紛れて誤魔化せるかもしれないから――」

 小声で聞こえないよう気を配っていたつもりではあったが、ガタガタと音を立て戸は力尽くで枠から取り外された。表の冷たい空気が遠慮なしに吹き込んでくる。

「いよう室倉。待たせすぎだと思うんだが、どうよ」

 現れたのは天井に届きそうなほどの偉丈夫だった。擦れて傷んだ服を破らんばかりに筋肉が押し広げている。髪も髭も無秩序に伸び、精悍と呼ぶにはいささか爽やかさに欠けて粗野ですらある。依霊とはまた違う威圧感に塀二の腰が引けた。

 男は構わず話しかける。

「どうした。驚いてるな。サンタクロースから連絡はなかったか?」

「嵐が来る、とだけ」

「嵐か! 随分な例えだな」

 家中の空気を震わせる豪快な笑い声を聞き、塀二は引きつった笑顔で返す。

 例えでも冗談でもない。地球守りには戦闘の救援要請をした。それに応えるのならこれ以上の打ってつけはないだろう。しかしそれは遅く、いかにもマズいタイミングだった。

「戦いがあると聞いてきたんだが、落ち着いてるな」

「そ、それはもう片付きました」

「お前ひとりで? なんだ、実はたいした相手じゃなかったのか」

「……敵は病魔ペストでした」

 塀二は後ずさりながら居間まで戻る。目の端に探すと二人の姿は消えている。気配を察している余裕は無いのでどの程度事態の深刻さが伝わったかはわからないが、ともかく逃げてくれたようだ。

「ペストをひとりで? ……まあお前も腐っても妖部か」

 男は嘲るように笑い、塀二は俯いた。

 滝箕祢たきみね行護あんご。塀二と同じく妖怪を祖に持つ家系の当代で、室倉より格上にあたる国内最強の妖部だ。ノーニャの〝吸血鬼〟と同じように何かに例えて呼ぶなら〝天狗〟ということになる。単独で依霊を滅殺可能な唯一の切り札として、地球守りでは乱射される最終兵器ノーレストアサルトと呼ばれ重宝されている。まだ成人して数年しか経っていないものの、既に十年以上のキャリアを誇るベテランでもあった。

「お足元の悪い中、わざわざのお運びお疲れ様でございます」

 塀二は畳に膝をついて頭を下げた。両手は曲げた膝の上に開いて上を向ける。手の内に何も仕込んでいない、敵対する意思がないことを示した室倉家の服従の姿勢だ。

 行護は塀二の態度を認めると頷いて、ブーツを脱ぎ上がりこんだ。のしのし大股で歩きながら無遠慮に辺りを眺め回す。

「ここはいつも妙な空気だが、今日は一段とおかしいな」

 言いながら手にしていた長物の布を解くと刀の柄が露になる。それを一目見て、塀二は血相を変えて後ろへ飛びのく。

「お前は初めて見るはずだが、何かわかるか。流石だな」

「そりゃウチは……室倉ですから」

 黒刃の刀剣、〝光烏ひかりがらす〟。危険度〝災級〟の呪具で、尚且つ封印妖魔でもあるという変り種だ。

 その昔国を滅ぼしかけた妖魔をさる高僧が二振りの刀に分け封じたという伝説の片割れにあたる。有形無形を問わず、意思エネルギーや術までも引き裂く無敵の刃は依霊などの思念体に対して最も強力な有効策と言える。封印妖魔なので自律思考を持ち、主人と認めない使い手には牙を剥くことで意思表示をする。封印を破ろうと常に隙を狙う反攻的な呪具だ。

 かつては室倉家の管理下にあったこともあり、帳面の〝災級〟区分の頭に記録されていて塀二も知識だけは持っていた。

「持ち歩いてると職務質問が面倒でな、今日はこいつを預けに来たんだが――な!」

 行護が唐突に抜刀すると黒い刃の見事な切れ味は居間の襖を両断した。その向こうにいたノーニャが震え上がる。逃げていなかった。塀二は密かに舌を打つ。

 ノーニャは逃亡兵だ。そして行護は同じ戦場にいた最高の兵士。

 見つかった以上もう逃げられない。ノーニャが抱える使い魔たちは光烏の前でまったくの無力だ。勝てる目が無い。

「お前を狩るのは室倉を助けたあとの予定だったんだが、思わぬ拾い物だ。どうした腰抜け、何か言ってみろ」

「わた、私は普通に生きたいデス」

 ノーニャは恐怖に震えながら答える。行護は鼻で笑った。

「俗世にオレたちが生きる場所なんてあるものかよ。お前、自爆を命じられてたんだってな。そのせいであっちの地球守りはしばらくお前は死んだとばっかり思ってたそうだが、もう足がついてるぞ。戦地に戻ることも無く生き永らえて、これからどうするつもりだ吸血鬼!」

 ペストが追ってきたように、ノーニャが抱える瘴気は敵方の依霊にとって絶好のエネルギー源だ。それをみすみす奪われるわけにはいかない。地球守りは容赦なく彼女を討伐対象と見なすだろう。戦力が減った、では済まされない。

「お前は爆弾だ。そんな奴がヒトの間に入って暮らせるわけがない。違うか」

 ノーニャは涙を流しながら黙ってしまった。

「ねえ、ちょっとあんた」

 なんと、横から現れた框がノーニャを押しのけて前に立った。

「刀振り回しておっきな声出して、女の子泣かしてんじゃないっての」

 框も逃げていなかった。そんなことはわかっている。あの框が一人で逃げるはずがない。しかしそれでも、逃げていてほしかった。框が行護の前に出るのはノーニャ以上に危険だ。

「お前……どっちだ? 人間か、こっち側か。それとも敵か」

 光烏の剣先が框の顔と足元を行ったり来たりする。

 妖魔は行護にとって排除対象に当たる。光烏を用いれば闇渡を滅することは簡単だろう。しかしそうなると術によって結び付く框も同時に命を落とす可能性がある。術と闇渡だけを滅して救うには塀二の父が施した術が深過ぎる。

「この人は悪魔憑きで――」

 危険を感じたノーニャが框を庇おうとしたが、行護の一睨みで止まった。

「答えろ女。お前はヒトか、魔か」

「そんなことより聞きたいことがあるんだけどサ。あんた地球守りなんでしょ?」

 最強の妖部に刃を向けられても框に臆した様子はない。瞳に怒りが滾っている。いつになく鋭い怒りだ。

「あんたみたいに強い奴がいるなら、こいつのことはもうほっといてよ」

 指差され塀二はうろたえる。これほどの状況にあって框に恐れがないのは、自分のことを考えていないからだった。

「ノーニャみたいに普通より寿命が長い奴だっているのに、なんだってこいつが苦しい思いしなくちゃなんないっての? 大変なことはもっと凄い奴がやってくれたらこいつは――」

「黙れ。一般人なら何も知らずに黙って生かされてろ」

 行護が低い声で唸る。これには流石の框も怯んだ。塀二が慌てて飛び出し間に入る。

「ちょっと待ってくれ、そいつは関係ないんだ。あんたの言う通り一般人だよ。それに吸血鬼には用があるから始末されちゃ困る。だから――」

「お前も黙れ。邪魔立てするなら容赦はしない」

 場を軟化するべく急き気味に話し始めた塀二だったが、それも拒否されてしまった。刃の先が三人の内次にどこへ向かうかもわからない。緊迫した殺気が迸っている。

 だが膠着はすぐに崩れた。框が崩した。

「何こいつ、話にならない! やるよむつき、力を貸して! 〝むつきゆすらかば――」

『断る』

 足元からの返事にショックを受けて、框の「信じられない」という顔で足元を見つめた。気位が高く普段あれだけ高慢な妖魔が、怯えている。

『其れとは戦いとうない。堪忍しておくれ』

 光烏の前に妖魔は霞同然だ。どれほど強力に物理的干渉力を持っていようが、強度を無視して引き裂かれ吸収されてしまう。闇渡が戦意を発揮しないのも無理はなかった。

 あてにしていた力を得られなかった框は成す術もなく行護に組み伏せられた。うつ伏せに床へ押さえつけられる。

「抵抗しなくても俺は堪忍しないけどな。野放しの妖魔は殺す。降伏しない依霊も殺す」

 間を置かず首に刃が突きつけられる。無駄のない動きはなんの躊躇いもなく続いてただろう。邪魔さえ入らなければ。

「待て!」

 声を聞いた行護が顔を向けると塀二が妙禁毛を構えていた。筆先は行護を向いていて、空いた片手は肩にかけたバッグの中に突っ込んでいる。手の内は見えない・・・・・・・・

「どういうつもりだ。ええ? 室倉。妖部なら仲間意識があるから許してもらえるなんて夢見てるんじゃないだろうな」

「そこはわかってます。でもそいつに憑いてるのは六年前までうちの蔵に封じられてた妖魔なんだ。今は蔵に無くても、うちの管理下にあることは変わらない」

 声に迷いはなく、頭は冷静に働き状況を分析している。

 正面に行護とその下に框。左奥にノーニャ。塀二を含めれば丁度行護を直角に置いた三角形の位置関係になる。

 行護はこの場で自分が最も優れた戦闘力を持っていることを自覚していて、その上油断がない。厳しい状況だ。

「呪具と封印妖魔を管理するのが室倉の役目だ。滝箕祢であろうと手出しはさせない」

「室倉の制御を離れた呪具を破壊するのも滝箕祢の役目だ。これがそうだろう。違うかよ」

「そいつはまだ室倉の術中だ。制御を離れてない」

 行護の双眸は三人の動きを細かく捉えている。この注意深さを利用しない手はない。塀二は差し入れた手でバッグをかき回した。さも何か企てていると見られるように。

「おい、さっきからなんだお前。それは謀反じゃないのか。斬り捨てるぞ」

 かかった。

 行護が框を解放し腰溜めに光烏を構えにじり寄って来るのを見て、塀二はすかさず筆を振る。

(あとで謝るから勘弁してくれよ!)

 放たれた〝口〟の一字はノーニャを直撃した。短い悲鳴を上げてたたらを踏む。ダメージを与える狙いはないのでほんの些細な力しか込めていない。

 一連の流れを目の端で追うだけで済ませていた行護の真横で、蛍光灯に吊るしてある点葉羽が震え、鈴をかき鳴らした。ノーニャが内包する瘴気を外側からの術でかき乱したせいだ。どんなに静寂な水面も石を放れば波で乱れる。

 家財道具の飾り、としか思っていなかったであろう羽が突然動き出し、気を取られた行護の注意が完全に逸れた。その機を逃さず塀二が更に動く。思い切り前へ踏み出し行護に肉薄するほど前へ。

 しかし百戦錬磨の体裁きは疲労で痺れた膝よりも速い。行護は驚きつつも素早く判断し、光烏の刃を返して切り上げにかかった。

 黙っていれば両断される軌道上に〝口〟の字を置く。黒の刃は術も破壊するが、それは塀二も承知の上。

(術を切り裂く無敵の武器と室倉の結界、どっちが勝つか勝負だ!)

 結界の上から叩くように、塀二は雄たけびを上げながら刃を素手で迎え撃った。

 左手が切り落とされたかどうかもわからないまま、胴体が無事なことだけを手応えに直進し目標に体当たりを食らわせる。

 行護は後ろへ飛び体勢を直そうとしたが、床に這いつくばっていた框に踵を掴まれ転倒した。

 畳に激突した背中を塀二が更に押し付ける。分厚い胸に跨り、短刀を喉に押し当てながら。ほんの数秒でこれ以上ないほど息を乱し目は血走っていた。

「繰り返します。呪具と封印妖魔を守るのが室倉の役目。滝箕祢であろうと手出しは許さない」

「……やるじゃないか、室倉。それでどうするつもりだ。本気で謀反か?」

「逆心はありません。手出すなって言ってるだけだ。そんくらいのことわかれよ。こいつは俺のもんだっつってんだろうが!」

 妖部として産まれたからには妖部として尽くす使命がある。父が死に、ヒトとしての暮らしに憧れは抱いても、本当には解け込めないことを悲しむことにも慣れた。

 そんな泥の心境から連れ出してくれたのが框だった。使命とヒトの喜びと、合わせたすべての日常。ふたつを区分する線上に框がいなくてはどちらも成り立たない。線のどちら側へも自由に行き来して、いつだって手を差し伸べてくれる框が塀二にとっては心の救いだった。

(ああ、やっぱり俺……)

 塀二は無意識に封じてきた自らの想いに気がつきながら、意識を失った。聞き慣れた声の、憶えにない大きな悲鳴を聞きながら。

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