枠なき心

「また知らない女が湧いて出た。なにがどうなってんのサ!」

 炬燵の天板を叩き、火を噴きそうな勢いで框が吠える。まるで浮気男を咎めるかのような物言いに抗議したい気持ちは自然と萎んで塀二は肩を縮めた。

 框の横ではノーニャそっくりの少女が無言でニコニコ笑っている。本物のノーニャは塀二と框が出かけた時と変わらずTVの前でアザラシのように横たわっている。自分のドッペルゲンガーがいる異常事態でも身じろぎ一つしない。

 塀二は炬燵布団を膝に被せて体育座りをし、消沈していた。

(見抜いてナンボの室倉なのに……もう全然わかんねえ)

 ノーニャの使い魔で結界を張ってこれから何もかもうまくいくと思い込んでいた。その油断がこんな事態を引き寄せたのかもしれない。そんな風に自己嫌悪に陥ってしまう。

「しゃっきりしろっての!」

 框に叩かれた背中が伸び、我に返った。浸っている場合ではない。

「そうだった。しゃっきりするぜ。だって無駄な時間過ごしてらんないもんな」

 天板の端を掴んで身を乗り出し、正面の偽ノーニャを見据える。

 呪いや術式はない。具現化し質量を手に入れるまでに単純に凝縮された意思エネルギー、その点では害思徒と同じだ。だが決定的な違いがある。

「お前、浄気だな」

 確認に、偽ノーニャは頷いた。ボディランゲージで意思の疎通ができているが一言も口を利かない。それも塀二の推測の根拠となっている。

 害思徒と同じく浄気もある程度密度を増せば実体を持ち具現化を始める。だがしかし浄気は瘴気と違い滞留しにくい性質があり、歴史的にも自律意思を持つまでに至った例は少ない。だからこそ依霊よりも妖魔の数が多いわけだが、ここにいる彼女はコミニケーションが図れる分並の害思徒よりもずっと高位の存在として確立するところまで来ている。他人の姿を真似ていることといい、まだ揺らぎやすい成長段階なのだろう。瘴気の影響を受けていないことを考えるとよほど特殊な環境で――。

 よほど特殊な環境。

 と、思案を途中で止め、導き出された結論に塀二は苦い顔をした。

「うわ、なんだ俺のせいか」

 結界で意図的に周囲一帯の瘴気を操作した。今や町内は瘴気の空白地帯であり、自然そこは浄気のみの偏った聖域となる。あとはそこに暮らす人間の精神さえ健全であれば浄気が吹き溜まって、必要な条件が成立する。これが塀二がやったことの結果だ。

「なに? 一体どういうこと。こいつ何者なの。ノーニャの双子? 生霊?」

 塀二が自分に責任があることを認めたことで框の視線が余計に厳しくなっている。

「えーと、こいつは――」

「マーガレット」

 塀二の説明を遮って、ノーニャが炬燵の一角に加わった。さすが妖部。いくらか傷みから回復したようだが、まだ顔面は蒼白だ。

「この子はマーガレット」

 元気になったのは結構だが、何を言わんとしているのかがわからない。続きを促す。

「妹が欲しくって、昔空想して遊んだもんデス」

「あ、わかる。あたしもやったやった。で、本当はどういうことなの?」

 一応は取り合いつつも、框はまるでノーニャの話を重視していない様子だ。珍しく進行に役立っている。

「こいつは――わあ!」

 いつの間に正面から移動していた偽ノーニャに抱きつかれ、狼狽した塀二は声を裏返らせた。

 どういうわけか、発見時からこういう行動が見られる。これで四度目だった。結界の施術士として一種の刷り込みが起きているとしても、過剰な愛情を持っている。

「はい、ストップ!」

 接触しかかった唇を框が掌で阻止し、そのまま顔を掴んで畳へ押し倒すようにして突き放す。塀二は倍の速度で畳に叩きつけられた。

「ブー、うちの妹になにするデスか」

「身内意識があるならこの痴女に貞節ってものを教えてやんな!」

「貴方には良い薬の気がするデス」

「ああん? どういうことソレ」

 ふたりが揉めている間に塀二はそろそろと炬燵から離れ偽ノーニャと距離を取った。偽ノーニャは逆に飛びつくべく身構え、一触即発の様相を成す。

「ああもう、やめてください。なんなんだこいつ」

「それを説明しろっての」

「わかってるって。あー……こいつは害思徒と同列で正反対の存在、言わば逆位の害思徒だ。人工依霊と呼んでもいい。俺がノーニャの瘴気を使って張った結界の副産物だな」

 本来なら依霊が一日のうちに誕生するはずもないが、その辺りもノーニャが背負っていた瘴気が関係しているのかもしれない。必要な熟成期間はそちらが済ませている。

「どうしてノーニャと同じ見かけなのかはわからん。結界はノーニャの一部を使って作ったから、その内側で型をくり貫いたみたいになったのかもしれない。我ながらスゲー乱暴な推論だけどな」

 話を聞きクッキー作りを思い浮かべた框は慌てて首を振り頭の中から空想を追い払った。この怪奇現象が大量生産され明日には増えているという不安がちらついた。

「まだ生まれたてで自我も弱い。まともにコミニケーションできるようになるにはしばらくかかるだろ。その時詳しくわかるかもしれない」

「害思徒ってあの黒いヤツだっけ」

「マーガレットは黒くないデス」

 框に炬燵へ押し込められ一先ず大人しく座っている偽ノーニャに視線が集まった。

 見比べると完全にノーニャと瓜二つだ。どちらにも刺青は見当たらない。ノーニャのほうは目立たない程度に縮小していて、偽のほうはそもそも術をかけられていないので当前だ。

「瘴気じゃないんだから、黒に染まるわけがない。黒いから瘴気って決まるもんでもないしな。こいつは害思徒と全然違う。だから逆位なんだよ。それにしても、こんなに純粋な浄気の塊を見るのは初めてだ。……綺麗なもんだな」

 塀二がうっとりと眺めていると偽ノーニャは頬に手を当て身をよじった。照れているらしい。

「可愛い妹ができて狂喜の極みデス」

 現実をハッピーなアクシデントと受け止めたらしく、ナルシストは機嫌よく笑った。框だけが瘴気にまみれている。恐い。

「それでこの子、どうすんのサ」

「どうするって言われても……」

 八点の塚による結界は町中の瘴気を吸収して龍脈へ流す。瘴気と同じく人の精神から発生し、そのシステムにあぶれた浄気が偽ノーニャを生み出している。今ここで封じたとしてもまた新たにマーガレットが現れるだけだろう。

「この子本当に危なくないんでしょうね」

 浄気は人間の前向きな意思エネルギーであり、その中には怒りなど一部の欲望も含まれる為完全に無害とは言えない。善意が巡り巡って他人を傷つけることなど現実にも珍しくない話だ。

「オフコース! マーガレットは良い子デス!」

 大きな声を出したノーニャに、塀二は同調して頷いた。

 見ていてわかるように自我はまだ弱く幼い。これほど無垢ではまだ正義も悪もないだろう。害を及ぼすほど自発的な思想があるかどうかも疑わしい。

「大丈夫だ。子供みたいなもんだからな」

 塀二は当然のことととして信じる。人間の善意から生まれ、あれだけの瘴気にも押しつぶされなかったノーニャを基とするこの依霊もどきが邪悪であるはずがない。

 楽天的な結論を聞いて框はため息をついた。

「わかった。それじゃあ今日からご飯は四人分ってわけね」

 ようやく嵐は静まってくれたようだ。塀二はほっとして、台所へと立った背中に呼びかける。

「こいつ物は食わないぞ。依霊っつうか、闇渡みたいなもんって言ったほうがわかりやすいか」

 框は半身で振り返りいかめしい顔をして、露骨に肩をすくめて見せて台所へ向き直る。言いたいことはわかる。また厄介ごとを抱えてしまった。

 しかし塀二は満足していた。荒波を乗り越える度、手の届くものと見えるものが増えている。次は何かと思えば、期待は膨らんだ。


 浄気の扱いに関しては室倉に残る文献にも記録は少なく、塀二も目にした憶えがない。マーガレットについて困るのは自律思考を持っていることだ。いかに現在清浄であろうとなんらかの理由で瘴気の影響を受けないとも限らず、特に町にある八つの封穴には近づけないように注意しなければならない。

 聞こえる全てを一時雑音にして無視し、塀二は蔵の中心で胡坐をかいて思案に暮れる。

「お前たちに転機が来た。自分の立場というものを改めて考えてくれ」

 結界を張った効果か、浄気の塊が近くをうろちょろしているせいか、それとも封印妖魔を避けてきちんと安置した光烏のプレッシャーに屈しているのか、蔵は普段よりは静かだ。静かに、ざわめいている。

「これからは迷いなく室倉に従え。来たる時にはな」

 ここまでくればどんな妖魔も塀二を術士として認めざるを得ない。

 いつになく手応えを感じた塀二が蔵を出ると、縁側で框が洗濯物を干していた。

「ちょっとこれ、普通に干して大丈夫なんでしょうね」

 マーガレットの白いゴスロリ服を広げ怪訝な顔をしている。

「形態として安定してるからな。日光でどうにかなったりしないだろ。破れたりしてもマーガレットが無事なら自然に元に戻る。服っていうより体の一部だ。汚れもしないから洗う必要もないと思うんだが」

「ずっと同じ服着られてたらこっちが落ち着かないっての」

「落ち着かない服なのは間違いないな」

 笑って言いながら、途中で気がつく。

「もしかしてあいつを風呂入れたのか」

「ノーニャがね、そういうのしたかったんだってサ。姉妹で洗いっこ。……ねえ、あの子たちもここに住まわせる気なんでしょ?」

 框が既に理解していることに苦笑し、塀二は傍らに座って庭を眺めた。雑草だらけの賑やかな庭は草の上に雪を残し、融けた雫を夕暮れの日差しにほんのりきらめかせている。

「そう言ったら怒るか?」

 少なくとも結界の運用に問題がないかどうかを見極める迄はノーニャに滞在してもらわなければ困る。最悪、結界を解いて瘴気をノーニャに戻すこともあるかもしれない。

 マーガレットに関しては放逐するわけにもいかないので今後の取り扱いが悩みどころだ。塀二もまだ決めかねている。

「変なもの集めて取っとくのがあんたの仕事なんでしょ。だったら何も言うことはないっての。マーガレットは間違いなく変なんだから。居候がふたりに増えたからって家事の手間は変わらないしサ」

 正規の住人のつもりでいるのか、自分のことは居候の勘定に入ってないらしい。

「お前は帰らないのか?」

「あの二人はよくて、あたしだけ駄目なんて言ったらぶっ飛ばすかんね」

 ノーニャやマーガレットと框では事情が違い過ぎる。それを説明したところで納得しないとわかっているから言葉を迷い、頭をかく。

「俺、お前のお父さんに憎まれるなあ」

 異性と同じ屋根の下に暮らすとなるとこれから様々不都合も出ることは予想できるので、間に框が立ってくれたならスムーズに行くこともあるだろうと塀二も框を当てにしてはいる。

「そうね、呪われるかもね」

「それなら室倉には効かないんだけどな」

 軽く笑うと、目の前に包みが差し出された。プレゼントらしい包装紙だが、そういった物を渡される理由が思い浮かばない塀二は面食らった。

「あんた、あたしの欲しい物とか何したら喜ぶかわかんないとか言ってたでしょ。薄っぺらい人づきあいしかしてないからそういうことになんのよ。だからこれは見本。これを踏まえて、あたしがして欲しいこと考えな」

 框は空になった洗濯籠を抱えて足早に去っていく。

 残された塀二がプレゼント包みを開けると中には小ぶりな手鏡が入っていた。自分の呆けた顔が映っているのを見て、首を捻る。どう考えても男向けのプレゼントではない。見本と言っていたが、何かの暗喩なのだろうか。

 塀二は自分の顔を眺めながら悩み、たっぷり眠ったおかげか少し薄くなった気のする目の下の隈を撫でた。


 息を吐きながら受話器を置く。不安視していたよりもきちんと話せた。応接室で見た壷をもう一度話題に出し、家業で骨董を扱っていると微妙に嘘をついたことが幸を奏し、本題を外れた会話が多少弾みもした。

「で、どうだったのサ。……怒ってた?」

 台所から顔を出した框が心配そうな顔で尋ねる。好き好んで父親を怒らせたくない気持ちがあることを知って塀二はむしろほっとする。

「大丈夫だったよ。かろうじてだけどな」

 框の家に電話をかけ、改めて框父と話した。何もかもを許してもらえるはずもないが、とりあえずしばらく泊まらせることを承諾してもらえた。

「海外で暮らしてる遠縁の女が遊びに来ているから、その世話をする為にもいてくれたら助かるってお願いしてみた」

「それは聞こえてたっての。それでどうなったか聞いてんの」

 協力を頼んだノーニャを電話口に出すと、框の父親は標準的日本人の正常な反応として外国人相手にすっかりうろたえた。要求が通った一番の要因はそれかもしれない。

「そういうことならいいってよ」

 いいはずがない。帰すべきだということはわかってはいる。しかし父親に何を言われても堪えないであろう框が、父親と同じ台詞を自分が吐けば荒れることは想像がついて、塀二はどうしてもできなかった。

 あとは、傍にいようとしてくれることが嬉しい。間違いとわかってもどうしても捨てきれず執着してしまう。

 ともかく鴨居家で顔を合わせた時よりも関係は良好になった。それを喜ぶことにして、今後も一つ一つ問題に取り組んでいく他ない。

「・結界とノーニャ、様子見!

・マーガレット、様子見!

・鴨居の両親、今度茶菓子持ってもっかい会いに行く、いずれ!

 ……そんなとこか?」

「それじゃ今すぐ取り組むことないじゃないのサ。……あたしも同じだけど」

 ちらりと台所を振り返る動作を見て、塀二は不審に思った。框が廊下へ顔を出しているにも関わらず、食材を刻む音が途絶えない。

 台所を覗くと夕食を作っているのはマーガレットだった。框が持ち込んだエプロンを身に着け、忙しく立ち回っている。

「あの子、なんかもの凄い手馴れてるんだけど、なんで?」

「ああ、あいつは意思エネルギーだからな。まだ定着してないから、そこらにある思念を自分のものにするんだ。あいつにはお前がここで普段やっていることが全部わかるんだよ。思念は家中にこびりついてるからな」

「へえ、それであたしが作ろうと思ってた献立作ってるんだ」

 となると、框が好きで家のことをやっているというのは事実らしい。浄気で結集しているマーガレットは前向きで明るい思念にのみ干渉できる。物好きなものだと、塀二は改めて呆れた。

「お前の思念を取り込んでトレースしてるわけだから、まずいものが出てくることはないな」

「……別にいいんだけどサ。なんかやること取られちゃって、居場所ない感じ」

「勝手に指定席作っといて何ぬかしてやがる」

 二人で見ているのをマーガレットに気付かれた。顔を輝かせ飛び跳ねるようにして近付いてきて、そのまま塀二に抱きつく。

「こ、これは何をトレースしているのやら。町内に愛が溢れているってことか?」

「……顔、弛んでるよ」

 こうして塀二のみに過剰なスキンシップを計る問題に目を瞑れば、マーガレットはよく働いた。夕食の支度、お茶と茶菓子の用意。完全に框の仕事を奪い自由にした。

 常日頃体を動かし続けていた框のことなのでじっとしているのは性に合わない貧乏性を発揮するかと思いきや、意外にも塀二の向かいで炬燵に落ち着いて読書に勤しんでいる。しかし塀二にはその手にあるものが気にかかった。

「……ちょっと待て。なんでそんなもん読んでんだ」

 框が眺めているのは呪具管理台帳だった。蔵に保管している呪具や過去に取り扱った呪具に関する記録がまとめられている帳簿の一つで、残りの数冊も脇に積み上げてある。

「んー……だってあんた、たまにその辺にほったらかしにしてることあるでしょ。うっかり触っておかしなことになっても困るし」

「失礼な。ほったらかすのは〝平級〟だけだからどうにもならねえよ。ってこりゃ室倉の台詞じゃないな。悪かったよ」

「あんた余裕無さ過ぎなのよ。これからはゆっくりできるんなら、もういいけどサ」

 夜の見回りが必要なくなったことを言っているのだろう。それならそれで塀二は学校の誰かと遊ぶつもりでいるので、ゆっくりする気は毛頭ない。が、学校閉鎖の当日ではさすがにそういうわけにもいかず、仕方なく結界に関するレポート作りに手を付けているところだった。

「シャッチョサン、ちょっと寄ってらっしゃいデス」

 声を掛けられ目をやると、廊下でノーニャが小さく手招きをしていた。もう歩く分には支障はなさそうだ。なにやら内緒話らしい。

 誘いに乗って廊下に出ると、気配が付いてきたような気がして振り返る。誰もいない。しかし框が聞き耳を立てているような気がする。姿勢は変わらないのでこれといって動作を見てわかるわけではないが。

「もう一声」

 促され廊下を奥へと進む。框のいる居間から離れようとしているのはわかった。

念を入れトイレの前まで来て充分すぎる距離が開く。ここまですればいくら聞き耳を立てていても無理だ。

「お耳に入れて起きたいことがあるデス。ミスター天狗がですね、ミス悪魔憑きにアドバイスしてたデス」

 天狗とは行護のことだ。別れ際、玄関で框と話していたやり取りを思い出した。框を喜ばせるという荒業をどうやって成し遂げたかは塀二も気になっていた。

「ミスター天狗は貴方が自由になる方法を教えたデス。グッズが要らなくなればグッズ守りの宿命は終わるって。敵が全部消えてしまうばいいって」

 呪具がなければ蔵は必要ない。戦う相手が永劫いなければ呪具を保管する意味はない。戦う相手は妖魔や依霊、場合によっては妖部もだ。行護はそういう短絡思考を植えつけたらしい。框を――闇渡を戦力として数える為に。

 呪具管理台帳を読んでいるところから考えて框が行護の話を鵜呑みにしたことは明らかだ。框なりに強くなろうと考えた結論がそれなのだろう。

「あのう……お気を確かに」

 目の前にいるノーニャが青い顔で震えているのを見て、塀二は表情に出して怒っていたことに気がついた。怒っている。余計な知恵を吹き込んだ行護と、安易な発想をした框に対して。

(鴨居……そりゃ室倉に対する侮辱だぜ)

 室倉家が呪具を保管しているのは超常の敵に備える為だ。現存する敵を全て始末できたとしても将来的には何があるかわからない。この世の全ての生き物が例外なく一瞬たりとも幸福から外れることのない生涯を送る、そういう世界にならない限り瘴気は存在し続ける。ならば害思徒や妖魔が生まれる心配は尽きない。

(俺が辞めたら、代々早死にしてきた先祖の遺志はどうなるんだよ)

 今すぐ居間へ引き返し思い切り頬を引っ叩いてやりたい衝動が湧きもしたが、実行するまでには至らずに留まった。

「ミス悪魔憑きも、貴方のことを思ってのことデス」

「……そうだな」

 呪具の危険性はともかく、ノーニャや行護、ペストを目にしたのだからそれらと戦うことの意味は身を持って体験している。死ぬかもしれないとわかっているはずだ。

 それでもその中へ飛び込もうとする理由が自分にあることが申し訳ないほどにあり難かった。そう思う自分を知ることで塀二を余計惨めにする。

「なあ、俺はどうしたらいいんだ」

 塀二はとうとう、堪えきれずに弱音を零した。体の震えは自分への嫌悪のせいにして、涙は何かの偶然のせいにしてしまいたかった。

「俺は一族永年の役目もきっちり果たして、その上で自分の人生を精一杯楽しもうと思って生きてきた。でも俺が頑張ってやってるそういうことは、頑張ってやることなんかじゃないんだって思うようになってきた」

 時間を埋める目的のみに突き動かされ、その為に〝友達〟と呼んでいる一般人たちを利用しては人生を楽しんでいると思い込む。

 塀二の周りにいる人間たちは、少なくとも塀二の目には必死に生きているようには映らない。塀二にとって無限とも思える時間を漫然と過ごしている。どれだけ押し潰そうと意識したところで悔しさ、妬ましさが消せない。

「時々父さんのほうが正しかったんじゃないかと思うことがある。偽物しか作れないなら要らなかったんじゃないかって。蔵守りとしての責任があるから線引きしなきゃなんなくて、誰もこっち側には連れ込めない」

 そうした心のズレがあるからには摩擦が生まれないはずもなかった。端からすれば友達が多いようでも、次々と楽しみを求める塀二を、「ウザい」と揶揄する声があることを塀二は知っている。

 どの道決まったゴールがあるのならば、せめてそこまでを全力で駆け抜ける。自分が手にできる幸せはそこにしかないと信じてはいてもやはり傷ついた。

「でもあいつは平気で踏み越えてくる。俺の為に戦うつもりでいるみたいだ。お前には無茶だってわかるだろ? だったら俺はやっぱりあいつを突き放さなくちゃいけないのか」

 絞った掠れ声でまくし立てて、塀二は濡れた顔を拭った。たかだか数ミリリットルで枯れた涙が熱くした、眼と頬が燃えるようにひり付く。

「アナタは守ってばっかりだから、辛いと思うデス」

 ノーニャはぶら下がるようにして手をかけた塀二の首をぐっと引き寄せ腕の中に抱いた。塀二は床に膝をつき、されるがままのていになる。

「私たち似た者同士デス。私も自分の居場所がわからないデス」

 妖部同士であればそもそも線引きは必要ない。框とは違いノーニャは生来拭い捨てようのない常識外だ。

「私なら、アナタのそばにいられるデス」

 塀二はすがりつく形で小さな体を頼りながら、ほんの少しだけその可能性について考えた。

 だが感じる体温の主が別の人物であったならと空想するばかりで、まるで実感はついてこない。わかるのはその希望が叶ってはいけないという理性、或いは怖れ、それだけかもしれない。、


「家に帰れ」

 単刀直入に告げる。迷いは無い。

「お前には迷惑をかけて済まないと思ってる。感謝もしてる。けどどう考えてもお前がここにいるのは間違いだ。だから、出て行け」

 間は置かず、反論を許さない。

「もう夜が来ても瘴気が活発化することはない。だから安心して家で過ごして、闇渡のことを解決できる時が来るのを待ってくれ」

 居間に戻ってきた塀二が炬燵にも入らず自分のすぐ横に正座したことで、特別に重要な用件だということは推測できていたのだろう。框は動じなかった。呪具管理台帳を開いたまま些細な動きで塀二を横目に見る。

「あんたこの家のこと何も知らないくせに、これからどうするつもりなのサ。何をどこにしまってあるか、そんなことも知らないくせに」

「マーガレットがいる。お前がやっていたことは全部あいつが代行できる」

 当のマーガレットは完成した料理を運んでいるところだった。ポテトサラダに筍と豚肉を甘辛く煮たもの。普段框が作る料理となんら変わりはない。

「代わりが見つかったからあたしはもう要らないってわけだ。ひどい男」

 框は妖魔の依代となっただけの一般人だ。憑き物が落ちたあとで普通の生活に戻れないようでは意味がない。その為にも薄らいだ線引きをもう一度はっきりさせなければ。

「そういうことだ。お前はもう要らない」

 塀二が強く頷くのを見て框は管理台帳に目を戻した。目を逸らした、と言ったほうが正しいかもしれない。

「あたしが勝手にやってるだけって何遍言えばわかんのサ。だからあんたがどう受け取ろうが関係ないっての。料理とか洗濯とか掃除とか、勉強にもなるし好きでやってんの。あんたが要るとか要らないとか、そんなの知らないっての」

 淡々と呟く中に思念が滲み始めるのを感じて塀二は目を閉じた。感覚まで失くすことはできず、染み込んでくる。

「あたしが勝手にやってるだけ……でも、『要らない』なんて言わないで」

 覚悟は決めておいたつもりでも、徹する為には深呼吸を二度繰り返した。

「お前は要らない」

「――ああそう!」

 突き飛ばされた塀二が畳に後頭部をぶつけて目を回している間に框はいなくなっていた。柱の陰に隠れたノーニャが痛ましそうな顔をしている。

「恐れながら、追いかけるシーンだと思うデス」

「……なんでだよ。追い駆けて、どうしろってんだ」

 町が結界によって守られる以上、もう一緒にいる必要性はない。最後に見た框の顔がどんな風であろうが関係はない。

「それより飯だ飯。食おうぜ」

「アナタは他人の心に鈍いだけじゃないみたいデス」

「知ったようなこと言うんじゃねえよ!」

 食卓についての作り笑いはすぐに消え去った。

「だったらあいつに言えってのか。お前には何の得もないけど俺について来いってよ。 俺たちが欲しくて欲しくてたまらない普通の人生ってやつが、あいつにはあるんだよ。俺のワガママでそれを、人生ドブに捨てろって言えってのか?」

 ショックを受けた顔で後ずさるノーニャに向かって、留めるべき言葉が止まらない。

「あいつはお人好しだから、俺がそうして欲しいって泣いて喚けば言うこと聞いてくれるかもしれねえよ。けどそれはやっちゃいけないってことくらい、考えなくてもわかるんだ」

 叶わない願いに手を伸ばすことで大切なものを見過ごさせるくらいなら、その手を叩き落としてやる。閉じた瞼をこじ開け、外れかかった針路を蹴り戻してでも正しい道を歩ませる。

 世界平和の責任を負うような生き方に引きずり込むことはできない。戦いに身を投じ命まで投げ出す覚悟でいるのなら尚更に。

 蔵守りもせめて短命が宿命でなかったなら、せめて人並みの時間を生きられるのであれば違ったかもしれない。特殊な家業はむしろドラマチックな障害と捉えて理解を求め、一緒に苦労を重ねていく、そんなこともできたのかもしれない。

 しかしそうではない以上分けて隔てられるべきだ。

「所詮、生きる世界が違うんだよ」

 生きる世界が違うのだから、死ぬ世界はますますかけ離れる。


 塀二は庭に出て呆然と蔵を眺めた。百年以上目的を変えず佇み続ける頼もしさを幾らか分けて貰いたい気分だった。

「父さん。俺、どうしたらいいかわかんないよ」

 亡い者に救いを求めるほど心を弱らせていることを自覚する。蔵は何も応えず、夜空の星は微笑まなかった。星は何をしたところで届かない高みにあって、正体は掴みようがないガス雲だというから救われない。僅かな希望をちらつかせて輝いて見せるだけだ。

 長く息を吐き、縁側から上がった廊下を進んで納戸の前に立った。

 ここに闇渡の気配が、框がいる。飛び出したのは居間だけで、結局はただ傷付けて、傷付いただけになってしまっている。

 だとしたらどうすればいいのか。塀二は戸惑い、弱り切っていた。

「なあ、話があるんだが」

 返事がない。ノックをしてみても同じだった。少し迷って、ゆっくり戸を滑らせる。

 框の姿は見えない。その代わり壁際に畳まれた布団が大きく盛り上がっていた。頭から被って隠れているつもりか気持ちが塞いでいるのかは敢えて追求したくない。

 塀二はその花柄に歩み寄り、強引にならないよう優しく持ち上げた。ほんの少し感じた抵抗はすぐに切れ、膝を抱えた框が現れた。乱れた髪が半身を覆っていてやや不吉な印象を受ける。

「座っていいか」

 框は無言で膝歩きをして横へずれ、塀二は空いたスペースに腰を下ろした。掛け布団を腕に抱えたまま、畳んだ敷布団をソファ代わりに並ぶ。

「お前、凄い頭になってるぞ」

 言うと、櫛を取り出して髪を撫で始めるのを見て気がついた。この部屋には鏡がない。

「ほら」

 框から貰った手鏡がポケットにしまったままにしてあった。差し出すが早いかひったくられる。手早く髪を整えると今度はつき返してきた。

「いいよ。本当はお前が使うつもりだったんだろ」

 思い返せば鴨居家に行った際に框母から包みを受け取っていたような気がする。なんにしても框が持っていたほうが有効活用できるのは考えるまでもない。

 言っても手を引くつもりはないらしいので仕方なくもう一度受け取った。いざとなれば黙って置いていけばいい。それさえ断られるかもしれないが、ここで暮らしていくつもりで必要としたものなら、この後どこで暮らすことになったとしても持っておいてほしい気がした。

「ここ、住み始めてどれくらいになるんだ」

「……一週間くらい」

 気がつかなかった自分に呆れるよりも、口を利いてくれたことに安堵する。框がこんな風にして臍を曲げるのは初めてのことで、塀二はどうしていいかわからない。

「前からほとんど一日中いたのに、なんだってまた住もうなんて思ったんだよ」

「だって、ほっといたら朝ごはんコンビニとかで済ますからサ。あんたは特に体に良い物食べないといけないのに」

 早死にの宿命は食事に気を遣った程度では防げないが、その辺りのことを理解させるのは難しいようだ。

「元々朝は通ってたろ。前の晩に作り置きしとくんじゃ駄目なのか?」

「作りたてのほうがおいしいから。あたし、ほんとは朝弱くて時間あんまり作れなくって」

「なんだそりゃ」

 なんとも平和的な理由で、塀二は笑みを押し隠せなかった。

「笑わないでよ。あたしは大真面目だっての」

 非難がましく見つめる眼が赤い。機嫌が直ったというよりは初めから怒っていないのかもしれなかった。

 ただ悲しかっただけ。誰でも拒絶されれば悲しい。ましてや散々世話を焼いてきた相手なのだから。

「俺はコンビニ弁当でも充分だと思うけどな。父さんと暮らしてた時はそんなのばっかりだったし」

 手のかかる年頃の子供を構いながら、術士としても優秀だった父。しかし何もかも万全とはいかない。事実、家のことは疎かだった。

「それでも不満はなかった。父さんが無頓着だったから影響されたのもあるかもな。美味いとかまずいとか、そんなに重要じゃなかったんだ。今もそんなには変わらない」

 ただ室倉として生きた男。塀二は父からおよそ人生の楽しみといえるようなことを教わったことがなかった。楽しんで生きているようには見えなかった。

 同じ壁を背にして隣り合い、遠い日を懐かしんで微笑む塀二の話を聞き、框は不服そうな顔をしている。

「どうせ食べるんなら美味しいほうがいいに決まってる。美味しくて、体に良くなくっちゃサ」

 塀二は頷く。

「そうだな。でもコンビニ弁当だって味はそれなりだろ? 体にいいかはともかくな。とにかく俺はそういうこと気にしてなかったんだよ。俺が初めて物食って『美味い』って思ったのは、お前がうちで飯作るようになってからなんだ」

 忘れもしない。最初はホットケーキだった。分量を間違えてぱさぱさの生地より、かけ過ぎの蜂蜜より、当時まだ十歳にも満たない框の懸命な姿に涙が溢れ喉がつかえた。

「マーガレットの作った飯、全然美味くなかった。お前の味付けと変わらないはずなんだけどな。俺が美味いって思ってたのは、料理とかそういうことじゃなかったみたいだ」

「それ――」

「最後まで聞いてくれ!」

 遮る声が思いのほか大きく、塀二は自分で動揺した。無駄な身振りが混じる。

「すまん。でもちょっと聞いててくれ。俺今心が弱ってるんだ。だからってことにすれば罪にならないと思うわけじゃないけども、今から殺されても仕方ないくらいスゲー自分勝手なこと言うから、とりあえず聞いてくれ。な、頼むよ」

 一度詰まるともう次の言葉は出せなくなりそうで、塀二は矢継ぎ早にまくし立てた。

「今までお前のこと巻き込んで申し訳ないとずっと思ってた。闇渡のことで心配だからほっとくこともできないってのは確かにあったんだ。けど今日結界張ったろ? だからもうそんな心配することなくなって、マーガレットもいるから俺も困らないかって。ああ、俺が最低だってのはよくわかってるから今は言わないで聞いてくれ。俺知らなかったんだ。部屋は散らかっててホコリだらけでも死なないし、服はシワだらけでも死なないって思ってた。でもさっきマーガレットの飯食ってわかった。俺はお前がいなきゃ死ぬのかもしれない。飯作るのも掃除も洗濯も、お前じゃなきゃ死ぬのかもしれない。なんか、そういう呪いでもかけられちまったみたいに」

 框の家を呪われた家呼ばわりした時に叱られたことを思い出してハッとなったが、塀二が隣を見ると框はただじっと聞いていた。聞き入っていた。

「……お前は気を遣って家事は勉強になるとか言ってくれるけど、同じことは自分の家でだってできるんだ。俺と一緒にいることはお前にとって負担にしかならない。お前が同情と罪悪感でここにいてくれてるのはわかってる。けど、今の俺はそんなもんいらねえって意地張る元気がない」

『んなことしなくていい』

『あたしが勝手にやってんだから』

 もう何年も続けてきたやり取りが続くことが嬉しかった。それが永遠であることを望んでも、本来なら一瞬さえ許されない。

「俺は、お前に甘えてもいいか?」

 同情しているのだから、答えは限られるとわかった上で尋ねる卑怯な確認だ。案の定心優しい框はこくりと頷いた。

「あたしはその……好きでやってるだけだから。あんたも好きにすればいいよ」

 染まった頬を誤魔化そうと、塀二の反応を見る前に框は立ち上がった。

「さ、あの二人に布団用意しないとね! 来客用のを乾燥機にかけないと。マーガレットは普段あたしがしてることしかできないんなら、そういう突発的なことは無理でしょ。ほらね? あたしを追い出そうったって無理なんだから」

 早速納戸を出て働き始めようとした框の腕を塀二が掴む。

「待てって。これで話が終わったら今までと同じになっちまう。それじゃ気が済まない。聞け、こっからが肝心だ」

 握った手首を引きながら框の前へ回り込んだ塀二は、尚も逃げようとする肩を引き寄せ前髪が触れる距離で向き合った。緊張で框の首が縮み、指先が伸びる。

「俺はお前のお父さんに責任取るって言ったんだから、ちゃんとしたいんだ」

「責任って……あれは凄く嬉しかったけど、けどあたしら十三歳――」

「ああ、中学生じゃまだ早いな。俺だってこういうことよくわかんねえし今までのお前見てたら断られるってわかってる」

「そんな……あたしは別に」

 互いの耳に聞こえそうなほど、二人の動悸が高まっていく。

「このままじゃお前はただのボランティアだ。こういう曖昧な関係を終わらせたいって思ってるのは俺だけなんだろうけど、ちゃんとしたいから、できればOKしてほしい」

 小さく首を動かすしおらしい框の態度を見て、これならばという希望を膨らませながら、塀二は悩んだ末の結論を口に出した。

「時給千円でいいか?」

 殴られた。

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