化けの皮ゆらゆら

「おーい、開けてくれ。鍵失くしちまってよ」

 声を聞き、框は素早く腰を上げると玄関へ移動した。

 管理呪具台帳を眺めるのも疲れて今年は編み物に挑戦しようかとぼんやり考えていたところだった。

 春が来る前に習得するのは難しそうなので日の目を見るのは次の冬になる。あと何度、一緒に冬を迎えられるのかと不安に陥り心を痛めていた。

「珍しいね、あんたが物失くすなんてサ」

「うっせ、いいから開けてくれよ寒いんだから」

 そんな時に声が聞こえたのでわけもなく気持ちが明るくなった。予想より早い帰宅だ。

 三和土たたきへ降りて戸の鍵を外す。セーターの採寸だけでもしておこう。そんな暢気なことを考えながら。

「こんな時間に帰るのも珍しい。誰も捕まらなかったとか?」

「ああ……それはね――」

 戸が開いた時、闇渡だけが唯一居間の点葉羽が震える音を聞き、それ・・がなんであるかを見抜いた。しかしそこでいかなる警告ができたとして、逃げ出すにはあまりに危機が近過ぎた。

 薄く開いた戸に長く尖った爪がかかる。

「お前を食べる為だよ」

 野蛮な夜が始まった。



 どこからか悲鳴が聞こえたように感じて、塀二は周囲を見回した。

 辺りで揉めごとが起きているような様子はない。こういう時には結界も不便だ。些細な瘴気もたちどころに分解してしまうせいでどこで悪いことが起きているかを発見しづらくなっている。

 だが今のこの町で何かあったとしてもそれは警察や消防の仕事だ。超常の出る幕はない。

 そう思って、塀二が緊張を抜くとマーガレットに肩を掴まれた。血相が変わっている。

「ミロード! すぐにお戻り下さい。異変が起きています」

「はあ、異変ってなんだよ」

「説明してる時間はありません。すぐに移動を開始します。〝清鼠すみねずみ〟!」

 マーガレットが指笛を吹くと目の前に真っ白の鼠が現れた。人目のつく場所で使い魔を出したことを叱るよりも、それも已むを得ない事態だと伝わって危機感を喚起される。

「さあ、早くお乗りください」

 鼠の丸い背に跨り塀二に手を貸すマーガレットの姿はピエロの扮装ではなくなっていた。どうやら形態を変化させ外見を変えていたようだが、今はそれだけで済んではいない。TV画面にノイズが走るように姿が揺らいでいる。浄気が弱まる夜だというのに力を使ったせいだ。

「無茶するな! バラバラになっちまうぞ!」

「今はそれが必要な時!」

 塀二を引き上げるが早いか鼠を走らせる。マーガレットの様子は鬼気迫っていて普通ではない。

「一体何があったってんだ?」

「私は結界と直結しているわけではありませんが、接しているのでわかることもあります。何者かが結界を飛び越えました。外側から室倉家まで一跳びに、侵入しています」

「町と家の二重結界をか? んな馬鹿な」

「招き入れてしまったのでしょう。賊は結界の扱いに長けた、知恵ある者と思われます」

 家には框がいる。ノーニャもだ。ノーニャは結界を作るうえで八体の従僕を失い弱体化していて、框は闇渡を身に降ろして戦うことそれ自体が危機だ。

 完全に油断していた。

 ショックで、塀二の頭の中が真っ白になる。バランスが崩れ振り落とされかかった体を支えに手を回してくれたマーガレットの腕にすがり付くことで我に返る。

(落ち着け、俺は室倉だ。冷静に対応しろ。落ち着け、俺は――)

 心の中で呪文のように繰り返し不安を消していく。真っ白を余白と置き換えれば、そこへかかる問題を放り込んでいくだけだ。

「マーガレット、ここで下ろしてくれ」

「ですが急がねば」

「途中で落ちて怪我でもしたらことだって言ってんだ」

 マーガレットは消耗していて姿が消えかかっている。鼠も同様だ。いつ消えてアスファルトに叩き付けられるかわからない。

 スピードが緩むと完全に止まるのも待たず、塀二は鼠から飛び降り全速力で駆け出した。半身振り返りへたり込むマーガレットに向かって叫ぶ。

「できるなら地球守りに連絡を取ってくれ! 封印塚の瘴気が邪魔で、普通の依霊は入れない。滝美祢に伝えるよう言え! もしかしたら来てくれるかもしれない!」

 進路に向き直ると息はすぐに切れた。さして長くはない距離がもどかしい。

 妖魔や瘴気を帯びた依霊がいるのなら結界の作用を受け上空に雲のように濃く渦巻く瘴気が見えるはずだ。それが見当たらない。何か予想を超えた事態が起きている。


 家の門に着き、そこからは慎重に歩を進めながら警戒する。

 見える範囲にこれといった異常はない。既に終わったような破壊痕もない。マーガレットの気のせいだったのだろうか。

 呼びかけるか迷いながら玄関の前に立つと摺りガラスに人影が浮かんだ。すぐに戸が開き、不安げな顔が覗く。

「……おかえり」

 それを見て、塀二はゆっくりと息を吐き出した。

「ああ、よかった……」

 想定していた最悪の事態が霧散する。しかし緩んではいられない。多くの準備を確実に済ませなければ。

「変なのが来て、逃げたノーニャを追いかけてって……怖かった」

 臆病な感情によって見慣れた顔が見ない風に変わっていった。涙まで滲んでいる。

「とりあえずそこから出て来い」

 塀二はさっと背を向け、数歩前へ出るとまた振り返って妙禁毛を構えた。

「演出過剰なんだよボケナス」

 あとをついて来ていた、框の姿をした偽者が驚いて足を止める。あと数歩で後ろから襲われていたことだろう。

「え、なんのこと……?」

「ノーニャが追われて『怖かった』だぁ? アイツがそんなこと言うか」

 とぼける偽者に塀二は舌を打ち、妙禁毛を振るって四方へ〝因〟の字を放った。瘴気を吸引する四つの竜巻が現れ、常ならざるものに風を起こす。

「自分のことより先に他人の心配するのがあいつなんだよ」

 戸惑う框の姿が水面の幻のように揺れ始めた。化けの皮がゆらゆらと。

「ちょっとやめて、なにしてんの」

「これか。これはね――」

 室倉の目に誤魔化しは通じない。

 塀二には真実が見えていた。目の前にある姿の偽りの先、たばかろうとする悪党の正体までが。

「お前を封じる為だよ、ケダモノ」

 風に煽られて小細工が剥がれ落ち、本当の姿が露になる。

 長い鼻と鋭い牙の狼男。全身を毛に覆われた人型だが、人類ではありえない巨躯をしている。子供の体格の塀二が見上げれば空を覆わんばかりに大きい。

『ふふっ、強がらないで早くお逃げ。ほおら、狼が来たよ』

 飢餓と憔悴の化身、狼。国内では馴染みが薄いが、西洋の童話では高い登場率を誇る悪役だ。脅威の象徴として扱われる分相応の思念を集めていることになり、それだけ依霊として高い実力を持つことを示す。

 元から危うい存在で、地球守り内で離反が本格化するより先の早い時代に瘴気に堕ちた敵方の依霊だ。依霊屈指の戦闘力だけでなく、結界を通り抜ける特性も持っている。現に瘴気を分解する結界の中にあっても影響を受けている様子がない。

『やあ、弱ったな。僕は騙し討ちが好みなのに。やったことはあるかな? 裏切られたっていう表情がとてもいいんだ。心が折れる様を見るのはこみ上げるものがあるよ。そうだ、仕方がないから弄って殺して穴埋めするとしよう。ああ、君には気の毒なことになる。でも君が悪いんだよ。それくらいは、わかるよね』

 戯言に塀二は構わない。

「この家にいた二人はどうした」

『一人は食べたよ。頭からぺろりだ。生意気な女だった。もう一人はまだこれからさ。その前に君を食べるよ』

「……わかった。てめえにはもうなんにもやらせない」

『ふふ、でも君の結界は効かないんだ。悪いね』

 相手は海外童話を代表する大悪党。紛れもなく最強の一角に数えられる依霊を相手に、塀二は怖気ずに筆先で空を撫でた。

「じゃあもっと試してみようぜ……四面二線一結! 〝おけかいえかたむなおらし〟」

 結界で区切った内側を波動の衝撃を満たし、瘴気を分散させる四字。大型害思徒でも一瞬でかき消される破壊力の中、狼は姿を乱すことなく笑っていた。

『いいよ、その調子で頑張るんだ。どうせ届かない。無駄に決まっている。でも無謀な敵討ちに挑んでくれたと、死んだお友達は喜ぶかもしれないから。心を尽くして頑張るべきだ。もう君はそれくらいしかできないからね』

「心乱して有利に運ぼうって魂胆なら、それこそ無駄だぞ」

 正体を看破した時点で塀二はある程度状況を掴んでいた。

 狼は相手を丸呑みにして瘴気を吸収する。傷をつけずにおいしくいただくのが美学だと聞いている。結界でほとんどの瘴気を失ったノーニャと闇渡を抱えている框。どちらに食指が動くかは考えるまでもない。それに框の姿に化けていたことから言っても框が無事でいるはずはなかった。横から同じ姿で現れられては台無しになるのだから、框は今狼の腹の中にいる。

 偽装をひと目見てそうとわかったからこそ、塀二は「よかった」と安堵した。

「……挑発しなくても、俺はもう充分カッカきてるよ」

 闇渡にかけられた封印が内と外を明確に区分することで結界の役目も果たし、狼の腹の中にあっても早々吸収されることはない。捕食によって瘴気を溜め込む狼自身が一つの結界でもある為結界破りの影響を受ける心配もない。童話にあるように、狼をどうにかしたあとで腹を開けば済む話だ。

「けどそれは俺の本意じゃない。なんで俺が、あいつを喰われて『よかった』なんて思わねえといけねえんだ! 俺はあいつが――」

 塀二の怒声をかき消して狼が吠えた。遠吠えは大気を砕く振動を伴ない、四字の結界が消えた。たった一声で破壊された。

『不服を強いられるのは君が弱者だからさ。違うかい? 弱いから蹂躙される。んん? 道を開けて頭を垂れ、許しを請うしか生き延びる道を持たない。そうだね?』

「御託は蔵の中でたっぷり聞いてやる。〝まく〟!」

 地面から伸びた鎖は爪の一振りであっさりと粉々に砕け消滅する。

『遠くにまで聞こえたの蔵守りが、やっぱりこの程度か。実を言うと室倉とは大昔にも一度戦っているんだよ。いや、あれは戦いとは呼べないかな? 少しずつ尻の肉を削いでやったら泣きべそで命乞いをしていたよ。つまらなくてトドメは刺さなかったがね。これだけ時間が過ぎれば少しは進歩しているかと思ったのに、残念だ。君から残りの肉を頂いて埋め合わせにしよう』

 立て続けに〝口〟の字を結んで間に障壁を張ったが、それも一息で吹き消される。冗談のような力の差に加え、結界破りの力を持った狼は封じの室倉にとって相性のよくない相手だった。

「かつてと同じかどうか、時代の重みをその身で味わえ!」

 だが苦手な相手だからこそ、敷地内にまで踏み込まれた窮地だからこそ、この時の為の備えがある。室倉の歴史において危機はこれが初めてではない。

 塀二は追い回されながら狼を庭の中央に誘導すると、身を屈め抜き身の短刀を投げつけた。狼に向かって、庭の四隅に据え付けられた古ぼけた四つの鏡が向かい合う交差点目掛けて。

 踊り子が目にも留まらぬ速さで鏡の一つから飛び出した。宙を舞う短刀を掴んで狼の胴を切りつけると、短刀を放り投げそのまま対面の鏡へ飛び込んで消える。かと思うとまた別の鏡から現れて同じように狼を襲った。狼は獣の面に驚きを滲ませ、繰り返される多角的な攻撃とスピードに反応できていない。

「安心しろ、腹に石詰めて溺れさせるような残酷なことはしねえよ。封じるだけだ。ただし食ったものは返してもらう」

 カムカキタナバーラは塀二にとって奥の手だった。いかにして被害の出ない状況で発動させるかが問題で、それさえうまくいけば決着する。これまでそれが当たり前の常套手段だった。これまでは。

『懸命で、純粋』

 狼は踊り子の一撃を上腕で受け止めた。長い毛が刃を滑らせている。ただの一撃も通じていなかった。

『はっきりと、憐れだ』

 踊り子は地面に叩き伏せられ四面の鏡は礫によって砕かれた。踊り子は消え、呪われた剣はただの剣に成り下がる。

 決め手を打ち砕かれた塀二は一瞬呆然としてしまい、狼の接近を許した。だが抵抗したとして、呪具は効かず運動能力では太刀打ちできない。とっさに何かをしていたところで結果は違わなかっただろう。

 脇腹を爪で切り裂かれ、塀二は地面に倒れ伏した。

『君は食えたものじゃないから、予告通り楽しませてもらうよ』

「てめぇ……!」

 勝ち誇った声を聞きながら血で滑る雑草の中から短刀を見つけ柄を握る。力を込めると悲鳴を飲んで食いしばる歯の間から声が漏れた。傷口は焼けるように熱く、今も爪が刺さっているかのようだ。

『これが術士の中でも最高峰と謳われる室倉? 数多の道具を操り奇跡を常とすると言われる術士の一族? これじゃあ魔法どころか、手品にも及びがつかない。無駄に永らえたところでしようがないかな。これ以上は君にとって無意味だろう』

「うるせえ、俺は全力で生きるって決めてんだ。まだ生きてる。だったら全力なんだよ」

 勿体つけた動作で近づいてきた狼に今度は腹部を刺され、高々と突き上げられた。自らの体重が負荷となって傷を深いものにしていく。開いた口からは悲鳴でなく血が飛んだ。

『けれどその苦しみは無益じゃあないよ。光栄に思っていい。なぶられるだけの価値は残っているからね。君はまだまだ楽しませてくれる。だからひたむきに抵抗してくれ。死ぬことこそ生きる者の運命、自業自得と思わないかい。君は生きてる。だから死ね』

「……その通りだ」

 肯定しながら、塀二は手の中の柄を握り込んだ。

「そして生きようとすることこそ生きる者の責任。特に俺はたくさんの不幸を作った。だから簡単には死ねない。俺はもっと俺の業を全うする」

 呪われた短刀を直接的なやり方で活用した。愉悦の響きが漏れる口目掛けて突き下ろす。が、が、それも牙に阻まれる。刃を捕らえ閉じた口があざ笑うかのように歪んでいる。

 が、それは塀二にとって想像通りの出来事だった。硬い手応えに耐えられず握りから離れた血まみれの指はすぐに次の策を掴む。

「心残りもあるからな!」

 バッグから取り出したのは丸い手鏡。框に返そうとしたものの頑なに拒絶されもてあましていた品だ。正面に構え至近距離の狼の顔を、口に挟まった短刀を映し出す。

 拳二つほどの小人、その程度の小ささで踊り子が鏡面から這い出てきた。狼の口から突き出た柄に飛びついて抱きかかえ、体を軸に腰を回して全身で振り抜く。

 初めて、狼の喉から怒りの音が迸った。

『人が狼に牙を剥くのか!』

 狂ったように吠える。一矢報いたが、獣はむしろ手負いが本領。

 振り払われ地面を転がった塀二は蹴り飛ばされ、ゴムマリのように庭を跳ねて壁にぶつかった。

「……絶対離れないって、言ったくせに」

 鉄くさい唾と一緒に吐き捨てる。地面に手をつき体を起こそうともがく塀二が見たのは突撃してくる狼の火のような怒り。裂けた顎を避け身を翻す力は出せそうにない。

 肩口に牙が食い込み、背中が家に衝突する。塀二は顔をしかめながらも、食いつかれた左腕が嫌な音を立てるのをどこか遠い町のニュースのような気持ちで聞いた。

 研ぎ澄ませた意識は狼の口の中、狙われるまでもなく尖った牙と強靭な顎の向こうへねじ込んだ指の先へ集中する。

「今度は俺から頼む。俺の傍にいてくれ、戻って来い!」

 手中に掴んだ感触を出し得る限りの力で握り返した。途端、腕を肩から引きちぎろうと頭を振っていた狼の顎が開く。

「……よう、おかえり」

 後退して距離を取った狼に取り残される形で口から落下した框を体で受け止め、一緒くたに崩れ落ちながら塀二はにんまりと笑った。見返す瞳の確かさを見つけると体の痛みはどこかへ吹き飛んだ。

 框が戻って来た。

 結界破りはまず境界を踏み越える意思。そして迎える側の合意。内と外、狼を結界に見立て、二人のそれが狼の飢餓を上回った。

「ただいま」

 框もつられて笑おうとしたが、塀二の有様に気がついて痛ましげに顔を歪めた。框を抱きかかえるのは片腕のみで、もう片方ははだらりと垂れ下がり血に染まっている。

「ごめん。あたし家守らなきゃいけなかったのに」

「気にすんな。最終的に残ってりゃいいんだ」

「……そうだね。残さなきゃね」

 框は立ち上がって狼を振り返る。あまりに自然な動きで迷いがなく、塀二は止める間を見過ごした。

「あたしはあいつを許せない。手伝う? むつき」

『やらいでか。姑息な痴れ者に身の程を教えてくれようぞ』

「やめ――」

 瘴気に汚染されていく背中に向かって声を張り上げても説得は利かない。思念を読めば怒りに我を忘れているわけではないとわかる。状況を見て冷静に、「自分が戦うしかない」と判断している。そしてそれは、見る者が室倉でなくとも正しかった。

『我が名は〝むつきゆすらかばえれえれもくれん〟! 貴様を屠り、気慰めしにしてくれるわ! 先刻の恥辱、落ちた首で詫びたとて許しはせぬぞ!』

 名を明かすことで闇渡に体を明け渡し、闇の怪人と化した框から瘴気が立ち上る。溢れるほど漲っているというわけでなく、町の結界に力が奪われている証だ。結界に耐性を持つ狼とは違う。

『ふふ、飼い殺しの羊が獣に敵うはずがない。そうだね? 君は人の手にいいように扱われ毛を刈り取られるのを黙って待っているだけの存在なのさ』

 常に弱り続ける不利を無視できるほど狼は甘い相手ではない。そう危惧した塀二の目の前で、予想だにしないことが起こった。

『ならば羊の技を見るがいい!』

『これは……? 面白いことをするね』

 爪に襲われた瞬間、闇の怪人は霧のように姿を消して別の所に現れた。狼は面食らって翻弄されている。何度も繰り返し、闇の衣をたなびかせ闇夜を点々と飛びながら、合間に触手を伸ばし撫でるように狼を斬りつけている。舞いのような優雅さだった。

『クク、浅知恵も長年付き合えば色々と発見もあるものだ』

 何が起きているかを見抜き、その恐ろしい試みに塀二は身震いを起こした。

「よせ! なに考えてやがる!」

 分解しようとする結界の干渉と、拘束する術。そのふたつを利用し消散と結合を繰り返す。瞬間移動の秘密はそれだ。かろうじて再構成されてはいるが、いつ支障を起こすかわからない。

「そんなことしたら、混ざっちまうだろうが!」

 塀二は叫び、〝口〟の字を切って障壁を張り狼を保護した。

 激突した闇渡が跳ね返って塀二のすぐ横に着地する。人が肩で息をするように、闇の衣は薄まり透けて見えるほどになっていた。闇渡は弱っている。

『たわけ、敵と味方の区別も覚束おぼつかぬか。一隅いちぐうの好機に付け入るが室倉であろうに』

 闇は一際大きく揺らいで靄となり、框の足元へ流れていった。自分の型を壊すほどの技の負担は相当なものだったようだ。消し飛ぶ危険性は框だけではなく、闇渡にもかかっていた。

「折角、うまくいってたってのに」

 疲労は框が引き継いで荒く息をする。意識が残っているだけでも奇跡だ。

「あのな、室倉は守らなくちゃいけないんだよ。お前も闇渡もだ。どっちかなんてねえよ」

『ふふ、小癪! 小癪! いいね、羊も爪を研ぐとは知らなかった』

 狼は闇渡の攻撃でダメージを受け膝をついていた。かといって致命傷に到っているような印象はない。続けていればいくらかは追い詰めることもできたろうが、闇渡が根を上げるほうが早いのは間違いない。

「あたしはあんたのお父さんに助けてもらったんだから、あたしの命はあんたの為に使ったっていいの」

「父さんは助けたんじゃない生かしたんだ。だからそのまま生きろよ。犠牲にする方法を選べるかってんだ」

「それじゃどうする気? あたしたち二人でどうやって、あんなのに勝つっての」

「今考えてる。俺ひとりで勝つ方法をな」

「またそんなこと言って! あたしも――」

「助太刀致すデス」

 声を聞き、塀二の思考が一瞬止まった。

 狼を正面に警戒したまま数歩下がり眼の動きで横を見るとノーニャがいる。肩を押さえてはいるが深い外傷はないらしい。騙し討ちの準備をする為に狼は派手な攻撃を控えたのだろう。マーガレットが急いでくれたことが幸を奏した。

「そういやお前がいたっけな。忘れてた」

「命ガラガラながら」

「あんた、あの変な生き物であいつなんとかしなさいよ」

「喜んで、と言いたいデス……〝禍蛇まがへび〟!」

 框の要求に応え動いたノーニャだったが、左腕から放たれたのは大蛇ではなく小さな十センチほどの子蛇だった。封印を作る為にエネルギー源である瘴気を失っているので以前と同じレベルで発現するわけがない。

「そんな……」

「いいから、お前らはすっこんでろ。ここは俺がやる」

 塀二はヨロヨロとした頼りない足取りで進み出る。半死の挑戦者を見て狼は大げさに肩をすくめて見せた。

『呪具も術も効かない。君の絶望する顔を待ってるのに、随分頑張るね』

「俺が使うのは呪具だけじゃねえよ。千変万化、状況に応じて手を変え品を変えるのが室倉だ。気長に味わい尽くしていけ」

 取り出した携帯電話を操作し、保存中の未送信メールを幾つも発信する。室倉に伝わる知恵ではなく、これは塀二自身が考案した秘策だった。

「いくらお前に結界が通じなくても、この町が浄気に満ちれば弱体化は防ぎようがない。これはな、まだテストもやってない俺の取って置きだ」

 狼は虚無感や破壊衝動で構成されている依霊で、瘴気に堕ちるべくして堕ちたと言っても過言ではないほど性質が妖魔に近い。

 瘴気を基礎とする思念体と戦うなら声援が聞こえるだけでも加勢になるが、塀二はメールで応援を求めたわけではなかった。そもそも電気通信と思念は相性が悪く、返信のメールがどういった意味を含んでいようとこの場の助けとしては伝わらない。

「見ていやがれ、俺のギャグで町が唸るぜ!」

 町中を笑いで包めば、自然強力な浄気が生まれる。緊急に大量の浄気が必要な局面に備え、保存メールとして準備してあった。塀二の知る限り数百のアドレスに向けての複数送信。

『ふむ。創意工夫、体験させて頂くとしよう』

「吠え面かきやがれ」

 悠然と構える狼に負けじと不敵に笑う塀二の背後で着信音が鳴った。框の携帯電話だ。塀二は携帯電話に登録してある全てのアドレスに送信したので当然框のものも含まれている。

 框は届いたばかりのメールを開いて読み上げた。

「えっと、

 『ねえさんいきだね』

 『あたしゃ帰りだよ』

 え……なにこれくだらない」

「ワッツミーン?」

「えっと、マイシスター、ソークール? ……いや、説明したくもない」

 送信先の全てが框と同じ感想を抱いたらしく、町のどこからも特別浄気が発生しているような様子は表れなかった。相変わらず夜に負けるばかりで、塀二は大きなショックを受け身をよじる。

「なにーっ? 室倉家に古くより伝わる鉄板洒落ガチネタのおかしみがわからんのか!」

「古過ぎるんだっての。身内の恥を晒すのはよしなよ」

「恥じゃねえよ、伝統だっつうの」

 言い合う横から、狼が急接近して爪で狙った。

『もうおしまいかな。どうだ、つつけばまだ出るんじゃないか』

「目ん玉飛び出るほどのお楽しみがあるから、体育座りで水飴舐めて待ってやがれ!」

 塀二はよろけながらかわすが、狼にその気がなかったから当たらなかったに過ぎない。明らかに遊ばれている。

『ほら、どうした? 少しずつ肉を削いでやろう。手足を引きちぎって口に詰めて、妖部がどこまで頑丈か試してやろう。そうだな、それがいい。一度やってみたいと思っていたんだ』

 皮一枚を狙って攻められ、切れた瞼から血が溢れ視界が狭くなった。動かない左腕が重く、足の感覚が薄れ立っているかどうかさえ実感が弱い。

 そんな状態でも塀二は強気に吠えた。

「やれるものならやってみやがれ! 二面重複、〝まくかたむ〟!」

 鎖による捕縛と、それを強化する一字。格下の害思徒ばかりを相手にしてきた塀二にとって実戦では初めて起用する手だ。しかし効果のほどを知るには及ばずこれも易々と引きちぎられた。試す手試す手どれもがうまくいかない。

(まいった……マジでやべえ)

 呆然と立ち尽くすわずかの間に失血と疲労で意識が飛びかかった。気を失ってその場に倒れ込むより先に、横から殴りつけられて顔が地面を擦る。痛みから身を庇う余力も無い。

「くそっ! なんだよこれ。マジで俺死んじまうのか」

 そうならないよう生きてきたつもりが、後悔ばかり思い返される。

 備えが足りなかった。経験が足りなかった。もっと違う生き方ができた。誰にでも愛想よくするのではなく、たった一人に全ての時間を捧げるそんな生き方が、本当はしたかった。したかったのに。

(まだ、死にたくない)

 それだけが心にあり、何より強い炎として塀二の体を突き動かした。地を転がり顔を土で汚し、自分を抱くように支えながら立ち上がる。

『呆れるね。不死身で不屈だと言われたら信じてしまいそうだよ』

「俺はただの、頑張り屋さんだ」

 死にたくない。死ねない。理由は明白だ。自分のことで後悔にまみれて惨めに死ぬのは構わなくとも、守れずに死ぬことだけは、室倉としても個人としても絶対に認められない。

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