まんじりと床に臥す
眠りから覚め瞼を開くと目の前にノーニャの顔があった。鼻先が触れる大接近に仰天したが、少しでも動くと唇が触れそうな距離だったので身を捻って逃げることもできない。
「ふおーっ! あめおー!」
動けば触れそうで唇を固めて絶叫すると、特に感情の色が無い顔が離れていく。
ここは塀二の自室で、ベッドの上。縁に腰掛けているノーニャの他には誰もいない。時計は十二時を指していて窓の外は明るかった。決着してからまた随分眠りこけていたようだ。
ノーニャが離れ領空の自由は取り戻したものの、全身隅々を占拠する激痛で体を起こすことさえできない。
痛みは激闘を思い出させる。そしてその結果失われたものも。
「なあ、マーガレットのことだけどな……」
言葉を遮るようにノーニャは首を振る。寂しげな笑顔を彼女が納得しているという風に受け取っていいのかどうか、思念を読める塀二には答えがわかっていたが、何も言う気にはなれなかった。どう言葉を尽くしたところで埋められない穴もある。
「あの子は頑張ったから、いいんデス」
町に浄気が生まれる限り、マーガレットと同じようにまた〝誰か〟が生まれることはあるだろう。しかしそれはもう別の存在だ。同じ容姿を持ち、同じ思念を吸収して人格を備えたとしても実質はまったく異なる。
「次に生まれてくる時もあの子はまた良い子デス。だからうんと可愛がってあげてほしいと思うデス」
表情に決意を見た。その時、その場に自分はいないということを語っている。
「そっか。やっぱり帰るか……って、俺が引き止めてたんだったな」
「イエス。もう一度宿命に向き合ってみようかと。誠に勝手ながら、近日中にこちらをオサラバさせていただくデス」
「何か困ったことがあったらいつでも連絡をくれ。できる限りのサポートはする。使えそうな呪具があれば――いや、余計なお世話だな。お前も妖部なら戦う力は充分持ってる」
「オフコース」
知り合ってたかだか数日で、浅いとも言い切れない妙な縁が生まれている。改めて真面目な話をするのが妙に照れくさい。
「ところで、鴨居は?」
特別心配はなくとも顔を見て無事を確かめなくては落ち着かない気がした。
「QQ用品が無くなったので買いに出かけて行きました」
なにしろ塀二は体のあちこちをぐるぐる巻きにされている。特に左腕は酷い。常備している分だけで間に合わせようと言うのが無茶だろう。
框が留守ならば、今のうちに確認しておかなければならないことがある。
「なあさっき、なんで顔近づけてやがったんだ? 吸ったのか。まさか俺から吸ったのか」
意識ははっきりしている。ノーニャに対して思うところもない。吸血鬼に精気を吸われたら短時間恋に落ちてしまうはずなのでこれだけでも普通なら未遂と判断できる。しかし室倉には術や呪いが効かない特性があるので、もしかするとそれらを無効化してしまったのかもしれなかった。塀二の知る限り室倉が吸血鬼に吸われた前例は無い。
吸血鬼の特性はおいておくとしても、唇が触れ合うことさえなかったと明言してもらわなければ安心できない。
ところが、ノーニャは悪戯っぽくにやりと笑った。
「がっちりデス。やったりました。吸いまくりのくりっデス」
意図がわからず、塀二は困惑する。
「いやだってお前なあ――」
追求しようとした塀二の髪を撫で、ノーニャが笑みの種類を変えた。年上らしい包容力と気品に満ちた母性の温もりを感じる。それは貪欲な吸血鬼とも無分別な色情狂とも違うものだ。
「私は吸血鬼。アナタに噛み付きました。アナタは長命長寿の仲間入りをしたのデス」
ノーニャの一族にそんな特性は無い。それがわかっているから、塀二はノーニャが何を考えているのかさっぱりわからず益々戸惑った。
「アナタにはこれから長い長い時間ができたんデス。さあ、何かしたいことはありますか?」
しばらくきょとんとして、それからぽかん。散々呆けたのち、塀二は肩を震わせて笑い出した。痛い。
「イテテ……そうか、なるほどな。お前の気持ちはわかった」
ノーニャは框が『塀二に長生きして欲しい』という願うのを聞いていた。蔵の呪いじみた害が消えたことを説明するのは今更野暮だろう。
「一生懸命なのはとても素敵なことデス。でもアナタが頑張りすぎるのを見て、悲しい人がいるのも憶えておくといいと思います。アナタは生きなければいけないけれど、死ななければいいのとは違います」
自己犠牲を念頭に生きるうえでは、框の為に何かしてやることができなかった。傍にいるのが間違いだから、ここはお前の居場所じゃないと言い続けることが優しさだと自分に言い聞かせてきた。
部外者の戯言に気の迷いを起こすなら、一体何をしてやるべきなのだろう。
(楽しみだなあ……)
温かい気持ちで悩んでいると、廊下から喧しい足音が聞こえてきた。かと思うと戸を開いて框が顔を出す。
「塀二は――あ、起きてる」
「イエス、つい――むぎゅう」
薬局のビニール袋を放り捨てノーニャを突き飛ばすと枕元へ駆け寄り、塀二の顔を覗き込む。同じ激闘を経験したとはとても思えないくらい機敏な動きだ。
「どっか痛いとこない? 包帯苦しくない?」
瞳が涙で濡れるのを見ながら、こんな風に自然に他人を想って生きられたらと羨ましく思った。誰もがこうあれば、きっと世界平和はすぐだろう。
「平気だ。つーか、そっちこそなんともないのかよ」
「あたしはむつきがいるから」
「だからマズイんだって、わかんないのかなお前には」
「うっさい。ねえそれより、なんか変なお客が来てるんだけどサ」
框が言うのと同時、見知らぬ女が部屋に入って来る。
ピンと伸びた直立を包む艶やかな朱の着物は帯に金糸が踊り、穏やかで落ち着いた微笑は良家の出身を窺わせる。着物と毛先の揃ったショートカットのせいで日本人形のように見えてしまうものの、その特徴を冗談にできない程の美人だ。成人しているかしていないかくらいなので塀二からすれば大人に見えた。
「ほんに、お休みのところ突然お邪魔さして頂きます」
のんびりした訛りのある発音で断りを入れ、女は深々と頭を下げた。
「室倉塀二はんでありますやろか?」
「えっと……そうですけど」
免疫の無い上品な大人の女の仕草に戸惑い、塀二ははにかんだ笑みで答える。
女はもう一度頭を下げた。
「地球守りから派遣されて参りました。塀二はんのお相手を勤めさせて頂きます。春日居と申します」
自己紹介を聞いた塀二の顔面にぶわっと脂汗が浮いた。痛みでも熱のせいでもない。
「ええっ……? もうそんな時期でしたっけ」
「塀二はんは特別、無茶をなさるお人やから急いだほうがよろしいて地球守りに言われまして。その様子やと、なんやほんまのことやったみたいでおすなあ」
「あのー、ちょっといいですか?」
満身創痍のケガ人を見てころころ笑う見知らぬ女を、框が不審に見る。
「こいつの……『相手を勤める』ってなんのことですか?」
「塀二はんは妖部やさかいに、決まってはりますやろ。子作りですよって。いややわあ、こないなことよう言わしまへん」
「こづっ――どういうこと?」
框は顔を真っ赤にして塀二を睨み、塀二は青い顔で首を振る。代わりにノーニャが明るく、残酷に答えた。
「
「……はあ? まだ中学生なのに、早過ぎるでしょ!」
「中学生だからこそうちは――おっとっと。……中学生ならもう、ねえ? なんやったら早過ぎるか試してみますえ、お二人はすこおし出ていってくれはる?」
「ゆ、ゆるさーん!」
「オウ、レッツ出歯亀!」
手の届く喧騒をほったらかしに、塀二は枕に沈めた頭の先まで布団を被せて関わりを拒絶した。下手に触れれば火傷しそうで、ここは危機感と臆病に従っておくことにする。
寝床で怠惰にまどろむ、世に言う「二度寝」というものを一度やってみたいと思っていたことを、そう言えばと思い出しながら。
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