第五章 解き放たれし黒の門

第18話 解き放たれし黒の門①

 ――今この時、柄森雪姫はかつてない危機に遭遇していた。

 PGC神奈川支部に招待された冬馬は、その後、担任のエリソンへ早退報告をし、二ヶ月間の休学手続きを済ませてから、重悟達と共にリムジンで移動することになった。

 冬馬を心配した雪姫は、無理を言ってリムジンに同乗させてもらったのである。

 生まれて初めてリムジンに乗り、そわそわする冬馬を窘めながら、車内で過ごすこと三十分。リムジンはようやくPGC神奈川支部に到着した。


 そして案内されたのは支部長室。そこまではいい。何一つ問題はなかった。

 問題はその後。支部長室で出迎えてくれた人物であって――。


「あ、あの、クロさん、お久しぶり、です」


「えっと、いや、俺の名前は、クロさんじゃないんだけど……」


 という彼らの会話も耳に届かず、雪姫は眼前で微笑んでいる少女を見つめていた。


(な、何なの、この子は……)


 まるで天使か、妖精か――。

 そんな言葉がよく似合う、恐ろしいほど美しく可憐な少女。

 このPGC神奈川支部の支部長室で、出迎えてくれた少女である。


(こ、この子が、フィオナ=メルザリオ……)


 戦慄さえ覚え、雪姫はフィオナを凝視していた。


「クロさん、本当に《黒庫》へ入ってくれるの、ですか」


「うん、俺もチャレンジしてみるよ。えっと……フィオナちゃん」


「あ、フィオでいい、です」


 ……何故か「です」だけが途切れる不思議な口調。


(もしかして日本語が苦手なのかな? あ、いやっ、そんなことより!)


 何より問題なのは、この銀髪の少女の全身から溢れ出るオーラである。


(こ、これは、大人しい系の女の子が放つオーラ……。しかも、この格はッ!?)


 フィオナの圧倒的な「守って下さいオーラ」に、雪姫はごくりと喉を鳴らした。

 ――何というオーラ量なのか! これは、かの三巨頭をも凌ぐのでは!?

 雪姫の頬から冷たい汗が、ぽたりと落ちる。


(ま、まずい。この子、ふゆ君のもろ好みだ……)


 しかも、


「今日はあの時の服じゃないのか?」


「あれは戦闘用の巫女服、です」


「巫女服!? あれが!?」


 などと楽しげに冬馬と談笑している姿を見る限り、


(すでにふゆ君になついている!? なんで!? まだ会うの二回目なのに!?)


 その上、冬馬の方もまんざらでもないという笑みを浮かべているではないか!


(ど、どうしよう、どうしよう……なんかヤバい気がする……)


 そんな言い表しようのない不安に、雪姫が内心涙目になっていたら、




「あ、あの、初めまして。フィオナ=メルザリオ、です」




 いつの間にか、フィオナ当人が目の前にいて深々と頭を下げていた。


「え? あ、ど、どうも初めまして。柄森雪姫です」


 反射的に雪姫も頭を下げ挨拶を返す。そして、顔を上げてみると……。

 にこっと笑う天使がいた。


(う、うわあ、この子、無茶苦茶可愛い!)


 その笑顔に、危機感も密かに抱いていた敵意も一瞬で吹き飛んでしまう。


(うふふ。うふふ……)


 気付いた時には、雪姫はフィオナの頭を撫でていた。

 どうやら頭を撫でられるのに慣れているのか、少女は嫌な顔一つしない。

 まるで子猫見たい、とフィオナの髪を撫で続ける雪姫。と、そこへ、


「ふふ、どうやら、自己紹介は済んだようだね」


 重悟がにこやかに声をかけてきた。続けて彼は冬馬の方を見やり、


「ふむ。では、そろそろ《黒庫》に向かおうか、冬馬君」


 と、ここに来た目的を告げる。冬馬は神妙な顔で頷いた。

 そこで雪姫は自分の目的を思い出し、慌てて彼らを引き止める。


「あ、あの高崎支部長。少しだけ待って頂けますか」


「? 別に少しぐらいなら構わないが」


「ありがとうございます。……冬馬。ちょっといい?」


 言って、雪姫は冬馬の手を掴むと、部屋の端に連れていく。


「何だよ、一体どうしたんだ? 雪姫」


 怪訝そうに眉を寄せる冬馬。すると、雪姫は視線を落とし、


「ねえ、冬馬。どうして冬馬は――そこまでして力を求めるの?」


 囁くようにそう尋ねてきた。 


「え、いや、そ、それは……」


 つい口ごもってしまう。彼は今まで自分の目的を雪姫に語ったことはない。

 気恥ずかしいのもあるが、何よりあの男の事を話して不安にさせたくないのだ。


(あの男との決着は、人知れず俺だけでつける……)


 冬馬は、そう心に決めていた。だからこそ、


「ははっ、わざわざ言うほどの大した理由じゃねえよ」


 と、作り笑いを浮かべて曖昧に答えた――のだが、


「誰かと――何かと、戦うの?」


 いきなり真実を指摘され、心臓を鷲掴みにされた気分になった。


「な、何言ってんだよ、雪姫。まあ、そりゃあ幻想種とは戦うけどさ」


「……そうじゃないわ。多分、冬馬はもっと恐ろしいものを見据えている」


 雪姫は冬馬の瞳を見つめて問う。


「《首都血戦》の日。あなたは一体何を見たの? それが刀を捨てた理由なの?」


 冬馬は本気で絶句した。

 この少女は、一体どこまで自分の心情を見抜いているのだろうか。


(……どうする……。いっそ、もう中途半端に隠さず教えた方が……)


 と、冬馬が密かに悩んでいた時、


「……ごめん、冬馬。今のは忘れて。いつかは教えて欲しいと思ってるけど、今はこんなことを言いにきたんじゃないの」


 不意に、雪姫が話題を変えてきた。


「……そうなのか? じゃあ、何を……?」


 困惑しながら問うと、雪姫は頬を赤く染めて、「あ、あのね、冬馬……」と、もじもじと指を動かしていたが、不意に声を張り上げ、


「その、ふ、ふゆ君!」


「お、おう!」


 いきなり昔の愛称で呼ばれ、反射的に返事をする冬馬。

 それに対し、雪姫は少し上ずった声で「あ、あのね」と続け、


「お願い――頑張って。負けないで。ふゆ君のカッコいいところを私に見せて!」


 と、上目遣いで言う。それから、自分の台詞に気恥ずかしさを感じたのか、雪姫は自分のスカートの前で両手を握りしめると、顔を赤くして俯いてしまった。

 そんな少女の仕種に、冬馬の鼓動は自然と高鳴ってくる。


(うわあ……、やっぱ雪姫は可愛いなぁ)


 少女の愛らしさの前に、思わずギュッと抱きしめたくなる衝動にかられるが、どうにか堪える。そんなことをしてしまってはセクハラだ。

 と、冬馬が内心で葛藤していた時、何故か、雪姫が不満げに少し頬を膨らませた。


(ん? 雪姫?)


 訝しげに冬馬が眉根を寄せると、彼女はとても小さな――それこそ、冬馬の常人離れした聴力でなければ聞き取れないほどのか細い声で呟くのだった。




「……あの時みたいに、ギュッとしてくれないの?」




 完全に冬馬は硬直した。


(――な? なな!? ななななななッ!?)


 そして、激しくパニックを起こす少年。――い、今のはどういう意味なんだ!? ゴ、GOサインなのか!? もしかして今、ギュッとを許可されたのか!? 

 そんな冬馬の動揺をよそに、雪姫の方は、まさか自分の呟きが相手に聞かれたとは思っていないのだろう。ただ拗ねたような眼差しを冬馬に向けていた。


(ゆゆ、ゆ、雪姫……)


 冬馬はごくりと喉を鳴らす。

 実は正直なところ、これまで冬馬は今回のように雪姫が自分に好意を寄せているのではないかと思ったことが何度かある。もしかしたら――まあ、あくまで願望込みの推測ではあるが、今ここで抱きしめても彼女は嫌がらない……かもしれない。

 しかし、冬馬にはどうしても一歩踏み出せない理由があった。


(――ダ、ダメだッ! 思い出すんだ! あの日の――山田の悲劇を!)


 忘れられないあの日。そう……あれは1年の林間学校の日だった。

 あの日の夜、訓練の一環とはいえ、初めてのお泊まり行事でテンションが上がりまくっていた男子達は、恒例の「お前、好きな子誰よ?」で盛り上がっていた。

 そんな中、山田はポツポツと語り出したのだ。


『……俺さ、中学の時、ふとしたきっかけで幼馴染の女の子に抱きついちまって……通報されたことあるんだ』


 絶句する男子達を尻目に、山田は言葉を続ける。


『……うぅ、好きだったんだよォ……ちくしょう……ラッキースケベなんて幻想だぁ』


 さめざめと泣く山田に、その場にいた男子達は、何も言葉を掛けられなかった。

 そしてこの時、冬馬の中で「付き合ってもない女子に理由もなく抱きついた場合、問答無用で通報される」というロジックが生まれた。

 だからこそ、彼女を守れるだけの力を手に入れ、告白するその日まで、どんなに雪姫が可愛くても冬馬は衝動にまかせて抱きつく真似は絶対にしないのだ!


「あ、ああ、任せとけよ! 二ヶ月後にまた会おうぜ!」


 雪姫の呟きは聞かなかったことにして、ひたすら平静を装う冬馬。……まあ、その頬は緊張で引きつっていたが。

 その返事にとりあえず満足したのか、雪姫はうんと頷き、離れていった。

 ふううっと無駄に緊張した冬馬が一息つく。と、


「あ、あの、クロさん……」


「え? あ、フィオ。どうかした?」


 続いてフィオナが現れた。少女は魅入ってしまうほど綺麗なアイスブルーの瞳で、冬馬をじっと見つめて――。


「あ、あの頑張って、下さい。……私、ずっと待っています」


 ……どうやら、この少女も激励に来てくれたらしい。

 冬馬の口元がつい綻んでしまう。雪姫という明確な想い人がいる冬馬ではあるが、本音を言えば、この少女は彼の好みのタイプだった。

 特に、これまでの会話の中で時折見せたこの子のはにかんだ笑みは、雪姫の笑顔にも劣らない。何と言うか、無性に守りたくなってくるのだ。


(……まあ、それを差し引いたとしても本当に可愛い子だなぁ。優しい子だし、ちょっとぐらいなら頭を撫でても怒ったりしないよな?)


 ふと、そんなことを考える。

 そして何気なく、本当に何気なく少女の頭へ右手を伸ばしたら――。

 ぐわし、と横から伸びてきた手に止められてしまった。

 全く腕が動かせない。恐ろしいまでの握力だ。

 冬馬は眉根を寄せる。……はて? 何だろう、このデジャブは?

 嫌な予感を抱きながら、ギギギと横に振り向くと、


「……おい、小僧」


 不動明王のような形相の重悟がそこにいた。

 彼は穏やかには程遠い声で言う。


「その薄汚い手で、俺の可愛い義妹に何をするつもりだ……?」


 ビキビキビキッ――と、冬馬の右腕が締め付けられる。

 まるで削岩機のような力だ。

 再び冬馬は幻影を見た。今や、とても慣れ親しんだ「死神」の姿だ。

 ドクロ姿のそいつはとても優しげな声で告げる。


 ――YO、BOY。あの世で会おうZE。


 冬馬は目を見開いた。ヤバい! 「死神」の奴、もはや確信している! 

 そんな冬馬の驚愕をよそに、重悟の独白はポツポツと続く。


「……フィオはな、アイリーンの大切な妹なんだ。アイリーンがいなくなってしまってからはずっとずっと俺が面倒を見てきた……そう、俺にとってはもう娘も同然なんだよ。それこそ目に入れても痛くないほどの可愛い娘なんだ……」


 そして重悟は、空いた右手で冬馬の喉元をガバッと掴み、


「……それを……それをよくも――ッ」


 どんどん腕に力が込もっていく。

 冬馬の顔が物理的に青ざめた。――締まる首が! もげる首が!

 必死にタップする冬馬。しかし、重悟は一切容赦せずに雄たけびを上げる!



「この猿にも劣るエロガキがッ! 今フィオに何しようとしやがった――ッ!」



 あまりの超音量に、冬馬の魂は抜けそうになった。

 と、そこで重悟はパッと手を離す。為す術なく冬馬は尻もちをついた。

 そして呆然とする冬馬に、


「今すぐ、死ね」


 重悟は問答無用で宣告する。間違いない。本気の殺意だ。

 ちなみに雪姫は呆然と突っ立ており、サチエの方は腹を抱えて大爆笑していた。

 冬馬の両目が盛大に泳ぎ出す。誰も、誰も助けてくれない。

 まさに少年の命は風前の灯だった――のだが、


「に、義兄さん! クロさんをいじめちゃダメ、です!」


(こ、この子はやっぱり天使だああああッ!)


 心の中で絶叫を上げる冬馬。


「む、いや、しかしだな、フィオ。こいつはお前を……」


「クロさんをいじめる義兄さんは嫌い、です」


「フィ、フィオ……ッ!」


 手をあたふたと動かし、少女のご機嫌をとろうとする大男。


(……これはまた、随分とシュールな絵だなぁ)


 尻もちをついたまま喉元に手を当て、冬馬はそんなことを考えていた。

 酸素不足のせいなのか、未だ頭がぼうっとする。――と、


「……冬馬君」


 気付けば、目の前に重悟が立っていた。

 青ざめた冬馬は両手両足を使い、しゃかしゃかと逃げ出そうとするが、


「すまなかったな。冬馬君。さっきまでの私はいささか興奮していたようだ」


 と、重悟が謝罪してきた。どうやら冷静さを取り戻したらしい。

 冬馬はホッと息をつき、


「い、いえ、俺もいきなり女の子の髪を触ろうなんてしたから――」


「そうか。では仲直りだな。それじゃあ早速 《黒庫》に行こうか、冬馬君」


「え? あ、はい――って、ちょ、ちょっと、なんで俺を引きずって行くんですか!」


「はっはっは、気にしないでくれ」


 と言って、重悟は冬馬の右手を掴み、少年を引きずりながら支部長室を出て行った。

 後に残されたのは女性陣のみ。

 呆然とする雪姫とフィオナ、そして大爆笑するサチエ。

 主人のいない支部長室で、赤毛の女性の笑い声が、どこまでも響いていた。



 ――バタン。

 と、支部長室のドアを閉めたところで、冬馬はぽいっと放り投げられた。

 ごろんと廊下に転がされ、冬馬は不満の声を上げる。


「な、何をするんですか! 高崎支部――」


「……おい、小僧」


 また「小僧」が来た。完全に硬直した冬馬の頭を、重悟はガシィと掴み、


「ははは、信じられるか? さっき、あのフィオが俺のことを嫌いだって言ったんだぞ。あの大人しくて優しいフィオが。……はは、一体誰のせいだろうな」


 ビキビキッ、と冬馬の頭が人体から鳴るとヤバい音を上げた。

 そして、ひたすら歯を鳴らす冬馬を、重悟はギロリと睨みつけ、


「おい。この件はいつか腹割って話すからな。いいな小僧」


 ……冬馬は、ただ頷くことしか出来なかった。

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