ブラックガンズ・ミソロジー

雨宮ソウスケ

プロローグ

第1話 プロローグ

 警告音アラームが鳴り響く廊下を、胸に分厚い黒い本を抱きしめた女性が走っていた。

 年の頃は二十五、六歳。アイスブルーの瞳に、肩まであるウェーブのかかった銀の髪。身長は百七十センチほどで、抜群のスタイルを持つ北欧系の女性だ。

 街を歩けば、誰もが振り向きそうな白衣の美女。

 そんな彼女が、今は息も絶え絶えに愚痴を零していた。


「はぁ、はぁ……、やっぱ籠りきりじゃダメね。こんなにすぐ息が切れるなんて」


 そして疲労の限界がきたのか、壁に寄りかかり、


「も、もうダメ……。す、少し休まないと体力が……」


 そのまま呼吸を整え始める。

 しかし、運動不足のためか、鼓動が一向に落ちつかない。


(ううぅ……、体がだるいよぉ。けど、ここまで来たら実験区までもう少しだし、何とか辿り着くことさえ出来れば後は――)


 と、前向きに考えた矢先のことだった。

 突如、前方の壁が、ガラガラと崩れ落ちたのは。

 濛々と立ちこもる砂煙。咄嗟に逃げることも出来ず、彼女は咳込んでしまった。


「ゴ、ゴホゴホッ、な、なに? なんでいきなり爆発が――」


 そこで彼女は硬直してしまう。

 大穴の空いた壁から、最も遇いたくない存在が出てきたのだ。


「そ、そんな………、C級のワーウルフ……。幻想種がもうこんな所まで……」


 唇からこぼれ落ちる呟き。すると、その声に反応しては振り向いた。

 二メートルほどの体躯に、異様に長い両腕。全身を覆う黒い体毛と、裂けた口元から覗く紅い舌。人の身体に狼の頭を持つあり得ない生物。

 神話、伝説、民話などに伝わる怪物の一つ――ワーウルフ。

 血走った赤い瞳を輝かせ、怪物は女性に近付いてくる。


(――ひっ、い、いや……)


 怪物の放つおぞましい気配に、思わず悲鳴を上げそうになったその時、


「――アイリーンッ! どこにいる! アイリィーンッ!」


 一人の男が、彼女の元へと駆けつける。

 頬まで覆う熊のような髭と、筋骨隆々の体躯を持つ、恐らく年齢は三十代半ば。身長が百九十センチにも届く大男だ。着込んでいる服こそ黒いスーツだったが、太い槍を携えているため、まるで戦国時代から出て来たような雰囲気の男だった。

 その男の姿を見た途端、彼女――アイリーンの顔に、歓喜の笑みが浮かび上がる。


「重悟ッ! 重悟なの!? 私はここよ!」


 少女のようにはしゃぐアイリーン。すると、重悟と呼ばれた男が振り向き、


「おおッ、アイリーン! 良かった、無事だったか――」


 が、そこで彼の顔が強張る。

 アイリーンのすぐ横に狼頭の怪物の姿を見つけたからだ。

 重悟の顔がみるみる赤くなり、鬼の形相へと変貌する。


「き、貴っ様あァ! このワン公が! 俺のアイリーンに何をする気だッ!」


 そう叫ぶと同時に、重悟は、問答無用で槍を投げつけた!

 撃ち出された槍はワーウルフの胸板を容易く貫いた。――が、その後も槍の勢いは全く衰えず、ズドンッと穂先が鉄の壁に深く突き刺さる事でようやく動きを止めた。


『ウオオオオ――……』


 心臓を射抜かれたワーウルフは断末魔を上げて、すぐに力尽きて倒れた。

 すると、その死体は突然白く染まり、全身にピキピキッとひびを入れ、瞬く間に灰の塊となって崩れていった……。

 その様子を興味深く観察しながら、アイリーンは呟く。


「……死んだら本当に灰になるのね。実物で見たのは初めて――きゃッ!」


 不意に途切れる言葉。気付けば、彼女は顔を覆うように抱きしめられていた。


「アイリーン……。ああ、アイリーン。無事なんだな……」


 壁に突き刺さった槍を放置したまま、重悟は彼女を強く抱きしめる。

 アイリーンは、大きな体のくせに、どこか小心な婚約者の背を撫でながら、


「――大丈夫よ。私は大丈夫。だから、もう心配しないで重悟」


 まるで子供をなだめるように語りかける。が、重悟は中々離してくれない。

 そのことに、アイリーンが苦笑していると、


 ヴィ――ッ、ヴィ――ッ、ヴィ――ッ!!


 さらに響き渡る警告音。そこでようやく重悟はアイリーンを解放した。


「……この本部も、もう長くは持たんな。アイリーン。今すぐ脱出するぞ」


 そして彼女の手を取る。しかし、アイリーンは何故か動こうとしない。

 重悟が眉をひそめると、彼女は哀しげな顔で微笑んだ。


「……ダメ。ダメなの、重悟。私はこれから実験区に行かないといけないの……」


「実験区……だと。馬鹿な! 今からそんな所に行っては脱出できなくなるぞ!」


 アイリーンは真剣な面持ちで頷く。


「うん。覚悟の上よ。私はこれから実験区で――《フェイズⅠ》を決行するつもりなの」


「なッ!」


 その言葉に、重悟は思わず息を呑んだ。

 ――《フェイズⅠ》。それは稀代の天才科学者アイリーン=メルザリオが主体となり、四年の歳月をかけて研究・準備をしてきた極秘プロジェクトだ。

 重悟自身も深く関わってきたプロジェクト。

 その重要性はよく理解しているが……。


「何故だ! 何故いま行う必要がある!? 今の状況が分かっているのか! この東京本部は――いや、東京はもうお終いなんだぞ! 今は逃げる事だけを考え――」


「ダメなのよ! 今じゃなきゃ! あの装置はほとんど偶然で出来たような物なのよ! 同じ物は二度と作れない! ここが陥落される以上――今しかチャンスはないの!」


 血を吐くようなアイリーンの絶叫に、重悟は言葉を失った。

 アイリーンは、さらに言葉を続ける。


「手持ちの資料がこの一冊だけだとしても、何もしないよりはマシだもの……」


 それに、と笑みを浮かべ、


「大丈夫よ! こんなこともあろうかと、私の《PKTポケット》にはサバイバルキットとかも入ってるし! 向こうに行っても何とかなるわ!」


 カラ元気と分かる彼女の陽気な笑顔に、重悟の胸は強く打たれた。

 アイリーンの言っていることは正しい。

 ここでの選択が、恐らく人類の未来を決めると言っても過言ではないだろう。

 今、この場で彼女を止めれば、人類は滅んでしまうかもしれない。


 しかし、たとえそうだとしても――。


(……行かせてなるものか。アイリーン、俺はお前を……)


 重悟は、再びアイリーンを抱きしめる。


「……ダメだ。行かせられない」


「重悟! お願い! 分かって――」


「お前を一人で行かせてなるものか。俺も一緒に行くぞ」


 重悟が何を言ったのかが分からず、キョトンとするアイリーン。

 ――が、徐々にその意味を理解していくと、


「な、何を言ってるのよ! 意味が分かっているの!? 私と一緒に行くってことは、事実上、死ぬのと同じことなのよ!」


 声を荒らげて怒鳴りつける。しかし、そんな彼女の怒りを重悟は鼻で笑った。


「ふん。それこそ覚悟の上だ。それにお前さっき何と言った? サバイバルキットがあるから大丈夫? 笑わせるなよ、基本引きこもりのお前にそんなものが扱えるかよ」


 重悟の指摘に、アイリーンは思わず赤面する。

 だが、ここで諦める訳にはいかない。

 彼を自分の道連れにしていいはずがない。


「ダメよ! あなたには責任も立場もあるじゃな―――ムグッ!」


 しかし、アイリーンの説得は、そこで断ち切られてしまった。

 彼女の口が、重悟の唇で無理やりに塞がれたのだ。

 一瞬、呆然とするアイリーンだったが、そのまま流れに身をまかせる。

 しばし訪れる沈黙。そして、重悟は彼女の耳元に囁いた。


「もう何も言うなよ……。俺も覚悟を決めたんだ。俺はずっとお前の傍にいる」


 言葉通りの、覚悟を宿した重い声。

 その愛の言葉に、アイリーンは思わず歓喜の笑みを浮かべそうになるが、


(ダメ、やっぱりダメ。重悟はこれから絶対必要になる人だもの。それに――)


 思い浮かぶのは大切な少女の顔。アイリーンは哀しげに目を伏せた。

 と、その時、再び爆発音が廊下に響き渡る。


「むッ! 新手か!」


 一気に重悟の顔に険しさが増した。

 彼は壁の槍を引き抜き、新たに現れた二体のワーウルフに注意を向ける。

 その様子を見ながら、アイリーンは考えた。


(ワーウルフが二体……。重悟なら楽勝の相手。けど、時間稼ぎぐらいなら――)


 ちらり、と廊下の奥へ視線を向ける。

 五メートルほど先――。そこにあるのは、廊下の壁に設置された隔壁の起動装置。

 わずかに悩んだ後、彼女は決断した。真直ぐ基地の奥へと走り出す。


「アイリーン! 馬鹿ッ! 俺から離れるな!」


 重悟の叱責が飛ぶ。しかし、アイリーンは止まらない。

 一気に走り抜け、壁にある装置のカバーを外すと《閉》のボタンを押す。

 轟音を上げ、ゆっくりと下りてくる隔壁。その音を聞き、重悟の顔に焦りが浮かぶ。


「馬鹿ッ! 隔壁を下ろすのが早すぎるぞ! くそッ! 邪魔するな、犬どもが!」


 鋭い爪で襲い掛かってくる二体のワーウルフに、重悟は手こずっていた。

 本来ならば造作もない相手なのだが、隔壁の音が焦りを呼び、どうしても技が鈍ってしまう。中々勝機が見えず、苛立ちだけが募っていった。


(くそッ! こうなれば無理やり二体を振り払い、隔壁の向こうに行くしかない!)


 と、彼が判断したその時、


「重悟、聞いて」


 最も愛しい女性の声が、聞こえてきた。

 一瞬、振り返りたい衝動にかられたが、二体のワーウルフがそれを許してくれない。

 そんな戦況の中、彼女の言葉は続く。


「さっきの言葉、凄く嬉しかった。あなたに出会い、愛されて、私は凄く幸せ者だと思う。けど、ごめんなさい……。あなたを連れていく訳にはいかないの」


「なッ! 何故だ、アイリーン! 俺は――」


「聞いてッ! あなたはこれからの時代にこそ必要な人なの。私が作る軌跡を現実にするためにも。それに何よりも――」


 アイリーンは愛しげに微笑んだ。


「私もあなたもいなくなったら、私の大切なフィオが一人ぼっちになっちゃう……。だからお願い。あなたはここに残って、あの子を守ってあげて」


 愛する人の切なる願いに、重悟はギリと歯を軋ませた。

 今ここでフィオの名前を出すのは反則だ、と大声で叫びたくなる。

 が、その衝動を抑えつけ、重悟はどうにか説得を試みる。


「あの子を心配する気持ちは分かるが、それでも俺にとってはお前の方がより――」


「ムッ。重悟。私は家族に順位を着けるような人は嫌いよ」


 ……その台詞も反則だろう、と重悟は思った。

 結局口喧嘩では歯が立たないのか、と舌打ちする。

 そんな彼の苛立ちが分かったのだろう。アイリーンがクスクスと笑い、


「重悟は性格が真直ぐすぎるのよ。でも、そんなあなただからこそ、フィオもあんなになついたんでしょうね。……重悟、あの子と、みんなの未来をお願いね。それと最後に一言。私は、心からあなたを――」


 しかし、彼女の最後の言葉は、重悟には届かなかった。

 二人を永遠に分かつ隔壁が、完全に下りてしまったからだ。


「アイ……リーン……? ウ、ウソだろ? くそ、くそおおおおお―――ッ!」


 怒号を上げる重悟。同時に剛槍を一閃、眼前のワーウルフの喉元を切り裂いた。

 ワーウルフが喉を押さえて、ガクンと両膝をつく。


『ウオオオオオオ―――ン!』


 雄たけびを上げ、もう一体のワーウルフが突進してくる。

 重悟は憎悪を宿した瞳で一瞥した後、大きく開かれたワーウルフの口腔に、ズドンッと槍を突き立てた。断末魔さえ上げることも出来ず、怪物は灰となって崩れ落ちる。

 瞬く間に決まった勝敗。しかし、当然ながら、重悟の心はまるで晴れなかった。

 灰の塊など目もくれず隔壁へと駆け寄り、


「アイリーン! アイリーン! アイリィィィ―――ンッ!」


 最愛の女性の名を何度も叫びながら、重悟は拳を隔壁に叩きつける。

 拳から血が滲み出るが、それでもなお、壁を殴り続けた。

 だが、時すでに遅く――。


「ア、アイリーン……。うぅ、うううッ、うおおおおおおおおッ!」


 愛する人の声は、もう聞こえてこなかった。






「……愛している」


 隔壁に左手を添え、アイリーンは囁くように、そう呟いた。

 そして、しばしの間、愛しげに隔壁を撫で続けた彼女は、


「じゃあ、行くね。重悟」


 最愛の人と今生の決別をした。万感の想いを胸に、彼女は基地の最深部へ向かう。

 その美しい顔に一切の迷いはない。


「これが私の使命……。私は必ずフィオと重悟の未来を切り拓いて見せる!」


 そうして、彼女は闇の奥へと消えていった――……。

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