島のパーティー
酒井小言
第1話
一
客船の後部に僕は座っていた。甲板にはエンジンルームに続く階段があり、その段に腰かけて、隠れるように座っていた。けたたましいエンジン音を聞きながら、船体に引かれる途切れることのない二本の波と、スクリューが巻き上げる水しぶきと、群がる海鳥を眺めていた。
岸を出発した時はまだましだった。テレビでしか見たことのない、コーヒー牛乳色の河を船は進み、岸に放置された廃船の上を歩く男の子と犬を見て、見知らぬ土地へ向かう冒険心を騒がせていた。僕は勇敢な“のび太”だった。昔に観た『ドラえもん』の映画(名前は忘れたが)に出ていた犬は、二本足で歩き、言葉を話し、剣を振る。僕はその映画の一場面にいるかのようで、溢れだすように生い茂った密林の中を進む、“ドラえもん”達を思い浮かべた。
だが、僕の隣に“ドラえもん”はいなかった。河岸に着くまでのバスの移動の間、僕を一晩中苦しめたあいつだ。あいつが再び襲ってきても、僕を助けるすべを持った人は誰もいなかった。そもそも、人に助けてもらえるわけがない。助けてくれるのは人じゃなくて、物、便器という名の懐(ふところ)の深い物だ。
河岸にある小屋のわきで三回下痢便(げりべん)を出して、腹の調子は落ち着いたと喜んでいた。ところが、河から海に出て、太陽に照らされた海水が青味がかかった頃、僕の開放的な心は一瞬で海の底に沈めらてしまった。何度も味わった腹痛が込み上げてきた。僕は急いで甲板から船内に入り、人で埋めつくされた空間を無理やりに押し通って、どうにかトイレへたどり着いた。人が多すぎた! 小学生の時の、あの、朝の朝礼のように時間は感じられ、僕は眼を大きく見開いたまま、とにかく便通に耐えた。
大事にはいたらず、ようやく僕に順番がまわってきた。狭く臭いトイレでほっと一息ついた。このままトイレを占領しよう。いつ腹痛が襲ってくるかわからない、この空間から出てしまえば、「また襲ってくるかもしれない」と疑念にかられてしまう。
だが、そうもいかなかった。なにしろ人が多かった。それにトイレはこの客船に一つしかなかった。なら、今のうちに出せるだけ出してしまおうと考えた。下腹部に力を入れて気張るが、腹筋に力を入れているだけで、手ごたえを、いや、腹ごたえを感じなかった。それでも力を入れ続けると、ドンドン、と扉を叩かれた。
「ああ、タイムリミットがきてしまった!」と観念して僕はトイレを出た。
腹痛のせいか、バスの中であまり寝てないせいか、それとも疑念のせいか、いや、それらが重なりあったのだろう、僕はひどく気分が悪くなってしまった。新鮮だった海の景色にはすっかり慣れてしまい、晴れた青空も、心地よい陽射しも、爽(さわ)やかな海風も、僕に好ましい影響を与えなかった。外国人から話しかけられないように居場所に気をつけて、少しでも腹に刺激を与えないように、自分の意識を逸(そ)らせることだけを考えた。そして、はやく“島”に着くように願っていた。
僕は“島”に向かう理由はあったが、前々から行きたいと思っていたわけではない。別に“島”じゃなくて“山”でもよかった。たまたま“島”であって、あるいは“川”でもよかったのだろう。というのは、船に乗る前日の朝に“島”の存在を知ったからだ。それに、僕は一週間前に“島”のあるこの国へやって来た。初めての海外旅行だ。
数年前、電車で十五分の距離にある大学がやけに遠く感じてしまい、本格的にのめりこんでいた大麻を吸っては、学校に行かないで、漫画喫茶に入り浸(びた)っていた時期があった。寒さが深まってきたある日、仲の良い友人が一冊の本を貸してくれて、それがきっかけで海外旅行を意識するようになった。海外を放浪した男の随筆であるその本には、たった一人で世界各国をまわり、さまざまなドラッグを試して、気楽な生活を送っている男が書かれていた。
ちょうどその頃、いかに大麻を安く手に入れるかを追及していた僕は、バイトの先輩から、ハウスダストの充満する部屋を借りていた。部屋の片隅に置かれた、黄土色のロックウールからは、弱々しいかいわれ大根が生えていて、僕は、眼をしきりにこすり、鼻をすすって、本に描かれている世界に胸をときめかせながら、密かに世話をしていた。
僕は大麻を吸いに海外に来た。タバコは吸わないくせに、四六時中タンをからませ、眼を赤く、まぶたを腫れぼったくさせるためにやって来た。ステンレスの耳かきで肺の内側を削れば、真摯(しんし)な眼差(まなざ)しの陸上青年の黒眼ほど、汚れの塊(かたまり)がとれるくらいにだ。伸びきった鼻毛に黒い粘着物がこびりつき、鼻水をすすれば思わず頭がくらつくか、粘膜に炎症を起こして、腐敗した水道管のように、サビまじりの血を流すくらいにだ。
ところが、僕は首都に着いたその日から、まる二日は身動きがとれなかった。初めての海外を甘くみていた。肌の色が違う、言葉が通じない、臭い、それらのことが、なんとか辿(たど)り着いた宿の、半径五十メートルより先には出させなかった。
けれど、同じ宿にいた若い男の日本人と知り合ってから、その二日間が嘘のように街に溶けこんだ。各国から訪れる旅行者と、現地の人間が入り混じる湿気った街が、耳をつんざくクラクションの不協和音を鳴らす頃、僕は街の細胞の一員として、どことなく動きまわった。
そのまま数日が過ぎて、宿の一階にあるプラスチックのテーブルに群がる、日本人旅行者達の一員になりはじめていた。
そして、毎日顔を合わせていた日本人数人を、見かけなかった朝だった。最初に知り合った長髪の若い男に、彼らがこの街を離れたことを知らされた。僕は気分が落ち着かなくなってしまった。そんな僕を察してか、長髪の男は“島”の体験談を聞かせてくれた。僕は教えてもらったツアー会社へ足早(あしばや)に歩き、価格を気にせず、その日に出発できるチケットを手に入れた。
僕は息を弾(はず)ませて宿へ戻り、散らかっていた荷物を逃げるかのようにまとめた。夕方、僕は一人“島”へ向かった。
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