第27話

   二十七


 僕は幸福の絶頂だった。見えている景色はかすんでいたが、そんなのはまるで気にならなかった。


 ブースの近くに着いて、飛び跳ねて踊り始めた。ブースの目の前に比べると踊っている人間は控(ひか)えめだったが、それでもじゅうぶんに狂っていた。僕は踊りながら移動して、少しずつブースの前へ近づいた。


 ところが、さっきよりも音が体に入ってこない。リズムについていこうとしたが、ところどころ体は音に遅れた。がんばっても、音は体の中心に届くことはなく、薄っぺらになってしまった。


 一瞬、なにか得たいの知れないものが体を走り、頭の中が切り変わった気がした。ふいに、僕は踊るのを止(や)めた。自分の置かれている立場の重大なことに気がついてしまい、その場に立ちすくんでしまった。僕は踊ることに集中できず、頭の中で考え事をしてしまった。


 視界はぼやけていて、聴こえる音は変だ。僕はふと、とばしすぎてしまったのではないかと考え、目の前を冷静に見てしまった。視界はまわっている。恐怖が全身を覆(おお)いかぶさり、僕はびっくりした。「まだフルムーンパーティーの序盤だ。こんな状態で朝までもつのか?」と考えた。


 答えるまでもなかった。僕はそのことに気がつき、顔の神経をむき出しにひきつらせて、おろおろした。もう手遅れだった。世界は一変した。さっきまではあれほど楽しかった世界は、恐怖であふれている。踊っている人の顔を見るのが怖くなり、聴こえる音が頭をかき乱して、どこだか変な世界につれていかれる気がした。僕はその場から逃げるように歩き出した。居ても立ってもいられなかった。


 楽しいことを浮かべても、なにも浮かばない。引力に引きずられて気持ちは沈み、考えたくもない想念がつぎつぎと浮かんでくる。動悸(どうき)がひどくて、心臓発作で死ぬのではないかと恐れた。僕は水を飲めば気分がよくなると思い、セブンイレブンへ向かった。


 ビーチのいたるところに飾られている蛍光色が、僕をやたらに刺激する。それこそが本当の姿であろう浮かびあがる装飾が、神経に痛いまでにとびこんでくる。装飾をできるだけ見ないように、下を向いて歩いた。音が遠くなるにつれて、耳鳴りはひどくなり、自分の深刻な状態をさらに気づかせた。視界はゆっくりと回転し、ゆらゆら揺れている。眼は見えていたが、見えていないようだった。


 なんとかセブンイレブンにたどり着き、店の中へ入った。蛍光灯がぼんやりとして、さっき来たときとまるで違う。水のありかは覚えていたので、なんとか記憶をたどって冷蔵庫にたどりつき、ペットボトルの水を取った。


 レジの前へ行くと、さきほどと同じ若い男がいた。僕は男のを顔を見ないようにした。「この男はさっきも買いにきたじゃないか」と気づかれるのがイヤだった。気づかれてしまえば、さっきは快活に話しかけたので、こんども快活に話さなきゃいけない。そんなことを考え、僕は顔を下げて、きょろきょろして黙っていた。あまりにもセブンイレブンが静かで、時が止まっているのではないかと思った。時間が経(た)つのが恐ろしくゆっくりだった。男が怖くてしかたなかった。


 男に金を渡し、水を受け取るさいに顔をちらっと見ると、男は苦笑いをしている。僕も醜く笑い、コンビニを出た。男の笑顔が痛かった。


 僕は罪悪感を感じつつも、水を手に入れたことにほっとした。暗い小道に腰をつけて、店のシャッターによりかかり、ガシャンという音を鳴らした。自分に言い聞かせて水のキャップを開けて、急いで口にちかづけた。水は流れ、冷たかったが、表面的な感じがした。それは水だったが、水に感じなかった。喉元を通ったが、水という存在がからっぽで、僕には水の記憶を感じることができなかった。ただの液体でしかなかった。


 水を飲んでもなにもならない。僕は道に寝転がり、遠近感のある蛍光灯が幽玄(ゆうげん)と光る、灰色のシャッターがならぶ小道をながめた。じっとしていられず、ムカデのように手足をしきりに動かしては、何度も体の向きを変えた。


「これはやばい! まじでやばい!」と独り言をつぶやいている。僕はそんなことは言いたくなかったが、自動的に言葉を出していた。


 寝転がるとさらに景色はまわり、もう、なにがなんだかわからない。眼をつぶると恐ろしいほどの浮遊感を感じ、眼を開けて、意識を保つことに注意を払った。


 僕は頭がおかしくなったのだと思った。もう二度と、あの、正常な自分の意識に戻ることはなく、このままの状態で一生を遂(と)げるのだと思った。僕はそう考えると身の毛のよだつ恐怖を感じて、遠い、あつしの部屋を思い出した。自分の軽率な姿を懐かしい記憶のように思い出して、激しい後悔に絶望を覚えて、親に大変申しわけなくて泣き出しそうだった。しかし、泣くことはできず、顔を醜くゆがめるだけだった。


 時間が経過すれば元に戻ると信じこもうとしたが、状況は変わらず、さらにひどくなっていった。横になっていることが僕にできる最善の行動だったが、それがなんの救いにもならない。救いを見出せるものがなかった。


 僕は独り言を言いながら立ちあがり、ビーチへ行こうとした。ビーチへ行けば、なにかが変わるかもしれないと思った。


 しかし、ビーチに近づくと、知り合いに会うんじゃないかと怖くなり、道を引き返した。セブンイレブンに近づいて、この先に進んでもどうにもならないと気がつき、体の向きを変えた。


 再びビーチへ近づくと、知り合いにこの異常な姿を見せるわけにはいかないと思い、道を引き返した。そして、セブンイレブンに近づくと道を引き返した。それを再三くりかえした。


 ようやく、別の考えが浮かび、吉井さんの部屋へ行くことに決まった。狂った自分の姿は見せたくなかったが、すでに限界をこえていたので、素直に知り合いに助けを求めることにした。


 知っているはずの道がまるで知らない道に見えた。吉井さんの部屋の場所は覚えていたが、記憶に届かなかった。いや、記憶に届いたかもしれないが、体に伝わらなかった。自分が自分でない存在に感じた。背後から自分の体をながめているようで、まるっきり別人のようだった。


 道を何度も往復したが、ようやく見たことのある吉井さんの宿へ着いた。レストランのわきを進むと、中庭は滅入(めい)りそうなほど暗い。暗闇が自分を圧迫しているようで怖かったが、なんとか吉井さんの部屋の前へ歩いた。真っ暗で知り合いは誰一人いなかった。僕は泣きそうになってしまった。


 すると、近くから男の声がした。僕はびっくりして硬直した。再び声がして、そちらに顔を向けると、白人らしき男性が二三人テーブルを囲んでいる。男の声は僕に向けているようだった。僕はなにを言っているかわからず、どうしていいかわからず、言葉にならない声を出してその場を逃げた。


 僕はもう、どうすることもできなかった。ビーチへ踊りに戻ることは到底無理だ。フルムーンパーティーが目的でこの“島”へ来たので、なんとしても楽しみたかった。だが、もはや限界を超えている。パーティーの途中で部屋へ戻ったら負け犬同然に考えていたので、それだけはなんとしても避けたかった。しかし、僕は宿へ向かって歩き始めた。


 ふらふらとセブンイレブンの前を横切ると、だれかが僕に声をかけた。振り返ると、見知らぬ日本人女性だ。


「あなた日本人?」女性が言った。僕は声が出ず、うなずいた。


「そうなの、なにしているの? 一人?」女性は言った。


「あっ」僕はなんとか声を出した。わけがわからなかった。


「もしよかったら、わたし達と飲まない? いまね、ビーチで飲んでいて、とても楽しいわよ。他に日本人の子もいるし、ねえ?」女性は隣に立っていたあさ黒い男に顔を向けた。


「そうだよ、楽しいよ、君も来ないかい?」


 背の高い男は言った。僕は男の顔を見てぞっとした。トカゲと蛇を合わせたような爬虫類に見えた。


「この人はね、日本人とのハーフなのよ」女性は言った。


「せっかくだから一緒に飲まない? 今は買いだしにきてるところなんだ、ほら、お酒を買って飲もうじゃないか」


 僕はわけがわからず、言われるがままにうなずき、一緒にセブンイレブンに入った。男が気持ち悪くて、こんな生物と一緒にいる女性がわからなかった。


 二人は冷蔵庫に近づき酒を選んでいた。僕はうつろな眼をして、なにを見るわけでもなく店内をうろついていた。男の店員の存在はすでに忘れていた。僕は酒を飲むという言葉の意味を考えて、冷静に今の自分ではムリだと結論を出した。二人が冷房庫を向いている隙(すき)にそっと店の外へ出て、ふらふらと歩き出した。

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