第26話

   二十六


 耳で聴いているのか、それとも体で聴いているのかわからない。おそらく、鼓膜(こまく)がやぶれてしまい、音がいっさい聴こえない体であったとしても、音は聴こえてしまうのではないかと思った。昨日と三日前に見た夜のビーチも騒がしかったが、まだ正常な空気が残っていた。だが、この日のビーチは隠していた本性をあらわしたかのように、あきらかに狂気をむき出しにしていた。力を制御する機能は奪われ、ただ、快楽の渦(うず)が吹き荒れていた。


 人々は互いに体をぶつけあい、スピーカーから流れる音の奴隷と化している。このビーチにいる二足歩行の動物は、昔人間だった存在が理性の網をやぶってしまい、その裂け目からあふれだす欲望の虜(とりこ)になった成れの果てのように思えた。動物の一人がその場で倒れたとしても、動物はそれを眺めるだけで、それを笑って喜ぶのではないかとも思われた。


 動物達は全身からべたつく汗を流し、笑顔を浮かべている者や、眼をつぶっている者、遠い一点を見つめている者、互いに顔を合わせている者、一人として同じ者はいなかった。


 動物達は、どれだけ暴れることができるかを競争して、どれだけ早く息絶(いきた)えられるかを競っているようだ。どれだけ、自身が持っているエネルギーを浪費できるかが、その場での唯一の価値基準だった。普段は規則正しく、正常にその役目をこなしている地球の細胞が、見えない大きな力によって暴走をはじめたかのようだ。上空から見たとしたら、このビーチはウイルスの群(む)れが盛(さか)んに活動し、その最盛期を迎えている映像が映るのではないかと思った。


 ビーチは狂っている。人々は狂っている。一人一人が狂い、ビーチの狂乱を形成していた。


 僕もその一人であることを喜び、糞尿(ふんにょう)を垂れ流していることを快感とするように、その糞のような欲望をまき散らしていた。ビートに合わせ、頭がもげるように、それを望むかのように首を振り、裸足(はだし)で地面を蹴って、自分の存在を誇張(こちょう)するかのように体を揺らしていた。顔にはだらしのない笑顔を浮かべ、上下する景色と音に集中して、ビール瓶(びん)を何度も上に突き出した。体中がたぎるように熱く、なにも考えていなかった。意識はもうろうとして、いかに気持ちよく踊るかだけに集中していた。個人を超越した、得たいのしれない安堵(あんど)感に包まれていて、まさに天国そのものだった。


 目の前のブースの上では、レモンさんが赤い姿で汚(きたな)らしく踊っている。オレンジ色の照明が赤い浴衣(ゆかた)をぼやけさせて、まるで場違いな盆踊りを見ているかのように思えた。レモンさんは満面の笑みを浮かべて、淫乱な女を想像させた。だが、性欲をそそるような刺激はもたず、幼年の少女に興奮を覚える、少数派の男性を対象としているようだ。僕はレモンさんの姿がおかしく、とても素敵に見えた。


 離れたところでは、黒いタオルを頭に巻きつけ、青のTシャツに青紫の麻のズボンをはいた三日月顔の男が、とがったあごを凶暴にしゃくりあげ、その鎌(かま)で人を突き刺す勢いで踊っている。あつしの顔には笑顔がなく、真剣そのもので、修行に来ている坊さんに見えた。レイブパーティーの求道者であるあつしの姿はおかしく、とてもかわいらしく見えた。


 その近くには、ドレッド頭の、汚れた白いTシャツを着て、ベージュの短パンをはいた男がいる。裸足のトマト君は、川原で見かけるようなおっさんが、かんしゃくをおこしているように見えた。ワンカップの安い日本酒で酔っ払い、しらみの巣くう太い髪がかゆくてかゆくて、頭を振っているように見えた。そのくせ、それを恥じるように下を向いて踊りつづけている。僕はトマト君の姿が悲惨で、おもわず笑ってしまった。


 僕はブースの目の前に移動し、腕を動かして泳ぐように踊っている上半身裸の男の顔を見た。男はこれ以上ないくらいに笑っていた。顔の筋肉が緩(ゆる)んでしまったか、理性の制御が崩壊してしまったように思えた。そのそばでは赤毛の男がわきをしめて両腕を前後させ、柔道あがりの格闘家が昔流行(はや)らせた、ハッスル、ハッスルをしていた。


 ビーチを包む音は、音色の数を減らしてエネルギーを溜めると、わずかな間をはさみ、音の爆発に合わせてそのエネルギーを開放させる。レプリカのバイクに乗って、全速力でトンネルを走り抜けて、晴れた空の下にとびだすように、潜在意識をくすぐる開放感が全身をかけぬけた。


 音が開いては、閉じる。音が閉じては、開く。それが繰り返された。そのたびに、まわりの人間と波長を合わせて激しく踊った。眼をすこし合わせるぐらいの人間がいれば、まったく合わない人間もいた。それに体はすべてを語っていた。それは幸福以外のなにものでもなかった。僕はこの時間が永遠に続けばいいと願った。


 どれくらい踊ったのだろう、ふと、動きを止めると、別次元の世界に来てしまった気がした。まわりの人間は変わらず音に合わせて踊っていて、自分一人だけがとり残されてしまった気がした。動悸(どうき)と息切れがひどいことに気がつき、全身の皮膚に汗をかいていて、背中にシャツが張りついている。頭を振りつづけていたせいなのか、頭がぼんやりとして、景色がひどくぼやけていた。僕は脱水症状で倒れてしまうのではないかと不安になり、早足でブースから離れ、セブンイレブンへ急いだ。


 小道に来ると耳がキンキンした。僕は水分を補給して、あの幸福な場所へ戻ることばかり考えていた。顔は下劣に笑い、歩きながらビーチから流れる音に体を合わせて、自分を主張していた。


 セブンイレブンに入り、水をレジに持っていった。僕はあまりにも喜ばしくて、体を動かしながら、知っている簡単な英単語を若い男の店員に話した。男は人のよさそうな苦笑いを浮かべて、腕を少し動かした。僕はこんな日に働いている男がかわいそうに思えた。


 キャップのフタをねじって取りはずし、思いっきり壁にむけて放り投げて、歩きながら水を飲んだ。水はだらしなく口からこぼれてシャツを濡らす。足は真っすぐに歩かなかったが、それが逆に気持ちよかった。


 ブースに向かって歩いていると、赤い短パンをはいた茶髪の男が眼に入った。長身の狐眼の男に近づくと、しんご君だ。しんご君はこれ以上ないぐらい顔をしわくちゃにさせて、見るからにつらそうな顔をしている。不幸を全身に背負った、救いのない雰囲気を発していた。


「しんご君! 今日は最高だね!」僕は大声を出した。気分がとてもよかった。


「やばいっすよ、まじでやっばいすよ」


 しんご君はどこに向かって話しているのかわからなかった。僕はしんご君の頭はおかしいのだと思った。


「しんご君! だいじょうぶ!」僕は大声で言った。


「やばいっすよ、頭ふらふらですよ」しんご君は体を中途半端な軟体(なんたい)動物のようにふらふらさせて、消え入りそうな声で言う。


「しんご君! バッド? 大丈夫?」僕はさらに声をあげて言った。


「やばいっすよ、やばいっすよ、でも、でも、だいじょうぶです」


「ほんとやばそうだね! この水あげるから飲みなよ」


 僕はしんご君に買ったばかりの水を渡した。


「ありがとうございます。たすかります」


 しんご君は水をこぼしながら飲んだ。僕はそれを見て気味が悪い男だと思った。


「まださきはながいからね! がんばろう!」僕は偉そうにそう言い、急いで先ほど踊っていた場所へ向かった。

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