第28話

   二十八


 何度も通り、慣れはじめた道だったので、迷うことはなかった。だが、道の雰囲気はまるで違い、初めて通るかのようで、なかなか進んだ気がしなかった。人通りは少なく、ビーチの喧騒(けんそう)が嘘のようだ。


 宿へ着くと、自分の泊まっている部屋だとわかっていたが、初めて見るような印象を受けた。ドアを開けようとすると南京錠がかかっていて、一瞬わけがわからなかった。僕は思い出して鍵を取り出したが、視界がぼやけていたので鍵穴に鍵が入らない。おもわずだれかに「鍵を開けて!」とお願いしそうになり、顔をしかめてかんしゃくをおこしそうになった。もちろん助けてくれるような人間はいない。あと一歩でおちつける場所だというのに、入れないことがつらかった。


 どうにか鍵を開けて、部屋のスイッチにしぜんと手をかけて灯りをつけた。そこは知っていたが、見知らぬ部屋だった。僕はベッドに倒れた。いぜんとして独り言は止まることがなく、手足は不快感をまぎらわせるようにたえず動いていた。


 なにか忘れていたことを思い出したかのように、突発的に部屋のドアを開けて外に出ては、すぐにベッドに倒れこむことを繰り返した。たまに英語を話す男の声が外から聞こえて、自分の部屋に来るのではないかと恐れ、部屋の電気を消して息を潜(ひそ)ませたりもした。部屋に来ても状態は変わらなかった。


 そばにあった茶色のカバーの本は波うち、部屋のうす汚れた壁は模様が浮かび、扇風機の影は呼吸をしているように膨(ふく)らんでは萎(しぼ)んでいる。眼に見えるものはすべてざわつき、大きさがはっきりとわからず、形をとらえることができない。僕は今まで幻覚という言葉を聞いたことはあったが、その意味をはじめて知った。自分の意識を制御できないくせに、どこかに客観的な視点が残り、僕はあたりまえのように見える幻覚を見て笑ってしまった。僕は自分がおかしくなったのだと、あらためて気がついた。苦しかったが部屋が僕をおちつかせて、今の状態を楽しむ気にさせた。


 はっと気がつくように冷静になることがあり、そのたびに腕時計を見た。時間の感覚はおかしく、すぐに三十分は経過した。眠っていないのに、夢を見てるようでもあり、深い考えごとをしているようでもあったが、手足はむずむずと動いていた。この調子ならいずれ元に戻るだろうと考え、時間の流れに感謝した。


 しだいに意識がはっきりするようになってきた。おちつきをとり戻して、頭で考えることができた。まるで自分自身の存在が体に戻ってきたようだった。僕は復活してきたことを全身で喜び、腹をかかえて大笑いをあげた。すこし前までの地獄の時間をふりかえり、生きて戻れたことをうれしく思い、自分自身の生命力に自信をもった。


 僕は近くにあったカルロス・カスタネダの『時の輪』を手に取り、ページを開いた。難しくて理解できなかった本の内容が、おもしろいほど理解できる。本に書かれている文字が変わったわけじゃないのに、これほど理解できたのがおかしかった。僕は本を読み続けた。生きて存在できる喜びが全身にあふれていた。


 はっと気がつき、腕時計を見ると、すでに時計の針は五時をさしていた。いつの間にこんな時間になったのだと不思議に思ったが、すぐにビーチでおこなわれているフルムーンパーティーのことを考えた。体はすっかり元に戻り、頭はさえ、眼は驚くほど力強く視界をとらえて、踊りだしたい気分だ。部屋のドアを開けると空はうっすらと明るくなり始めている。僕はビーチへ駆(か)けだした。


 賑やかだった通りは空き瓶(びん)や空き缶、バケツが散乱している。ビーチから流れてくる大勢の人々の流れに逆らい、素早い動きで避けた。欧米人の二人の男が上空を見上げ、「フルムーン」とささやいたのを聞き、僕は空を見た。神秘的な紫がかった空は、丸い月が圧倒的な存在感で輝いている。僕はどんな世界でも驚かずに受け入れられた。摩訶不思議な偶然の切れ端(はし)を、僕は目(ま)の当たりにした。僕はビーチへ急いだ。


 ビーチはまだ音が流れていて、人々はだいぶ減っていたが、踊ることはできた。僕はエピックトランスの流れるブースの前へ、体を揺らしながら走った。暗闇と同化して広がっていた海は色を取り戻し、赤い太陽が昇っていた。狂気が蔓延(まんえん)していたビーチはじょじょに日常のすがたを取り戻していて、疲れた穏やかさが人々を蝕(むしば)んでいた。散歩する人がいれば、一人で砂のうえに座り海を眺めている者、からみあうように抱きあう男女が寝転がっていれば、体中を砂まみれにして、顔面を砂に埋(うず)めたまま倒れている者もいた。


 僕は激しく踊っている人間がいるブースの前に近づいた。海に近いところで、レモンさんとあつし、しんご君が踊っているのを見つけた。僕は走って彼らに近寄った。あつしは僕の存在に気がつくと、疲れがたまった白い顔に笑顔を浮かべ近づいてきた。僕はあつしと笑いながら抱き合った。


「ゆうじ君が戻ってきた! どこにいたんだい? ずいぶん探して心配したよ」


 あつしは笑いながら話した。僕は、あつしがこんな笑い方をできるのだと初めて知った。


「いやいや、部屋でくたばっていたよ」僕は大声で笑いながら言った。


「ゆうじ君、心配したわよ!」レモンさんはそう言って近づいてきた。


「もう、レモンさんの言うとおりでしたよ」僕は笑って抱き合った。


「ゆうじ君、“きのこ”やばいっすね」しんご君は意味深な笑いを浮かべて言う。


「しんご君もくらった? あれって“きのこ”なの? もう生きて戻って来れないかと思ったよ」僕は笑いがとまらなかった。


「ぼくもやばかったですよ」しんご君ははにかんだ。


「これで全員戻ってきた。さっきまでトマト君も行方不明だったんだ」あつしが言った。


「えっ? トマト君も?」僕はびっくりした。


「そうだよ、ずっと見あたらなくてさ、今はあそこで踊っているよ」


 あつしは視線をそらした。離れたところで、トマト君が元気なさそうに体を動かしていた。


「そうなんだ、じゃあ、“きのこ”にやられたんだね」僕はトマト君に親近感がわいた。


「そうだよ、しんご君はビーチにいたけど、“きのこ”を食べた残りの二人がいないんだからね」あつしは笑いながら言う。


「しんご君、よくビーチにいられたね」僕はしんご君に静かに言った。


「死にそうでしたよ。けど、踊ってなんとか気を保ちました」しんご君は笑いながら言った。


「タフだね、すごいよ」僕はしんご君に感心した。


「でも、本当によかったわ」レモンさんはしみじみと言った。


「あれ? チャッキーさんは?」僕は思い出したように言った。


「チャッキーはだいぶ前に宿へもどったわよ」レモンさんは言った。


「そうですか、残念ですね」


「よし、ゆうじ君も戻ってきたことだし、最後まで踊りつづけようか」あつしが言った。


「もちろん!」僕は大声をあげて言った。

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