第9話

   九


 目覚めは快調だ。酒臭さは残っていたが、けだるさはなく、不思議なくらい体は軽かった。昨日の夜の記憶はうる覚えだったが、断片的に覚えていた。腕時計を見るとまだ午前中だ。


 外に出ると鮮烈な色が眼にとびこんできた。宿の食堂と借りている部屋の間にある中庭は、柔らかな芝が地面を埋めつくし、眩(まぶ)しい陽射しを浴びて存在感をあらわしていた。背の高い椰子(やし)の木が数本そそり立ち、ハイビスカスの真っ赤(まっか)な花が眼を惹(ひ)いた。予定は何もなく、僕は幸福な気分だった。


 レストランに近づくと、働いている若い女の子と眼が合い、覚えたばかりの言葉であいさつをした。女の子は微笑(ほほえ)んであいさつを返す。ふくよかなおばさんが調理場から出てきてたので、同じようにあいさつした。おばさんは眼を開かせて、女の子と同じように微笑みながらこたえる。僕はビーチへ指(ゆぶ)さした。おばさんは小さく首をひねった。


 僕はビーチへ出た。昨日の昼間見た時よりも海面が近ずいていて、白く濁(にご)っていた。波はわずかに高くなっていたが、じゅうぶん穏(おだ)やかだ。遠くに見える島は、同じぐらいの大きさの雲に覆われ、かすんで見えた。


 パーティーのあるビーチに比べると、随分(ずいぶん)と狭いビーチを歩いた。人がぽつぽつといる。バットぐらいの長さの木の棒を拾うと、温(ぬる)く湿(しめ)っていた。僕は棒をひきずり、砂に跡をつけて歩いた。海には大きな中年の白人男性が浮いていた。波に揺られている男性が僕に気がつくと、おもむろに腕をあげた。僕は木の棒をあげた。


 僕は歩いた。海水パンツ姿の小さな男の子が、向かいからジグザグに走ってくる。僕はその男の子を見た。男の子は大きな眼で僕を見ながら、偉そうに大きな声であいさつした。僕も同じようにあいさつした。男の子は裸足(はだし)で砂をけり、僕のわきを走りすぎていく。僕は後ろを振り返らず、ひきずっていた棒を、片手で振り回しながら歩き続けた。


 僕は幸福だった。すれ違うすべての人とあいさつを交わした。それは人間としてあたりまえの行為だった。僕はその行為がうれしかった。


 一時間程して宿に戻ると、二人は起きていなかった。僕はシャワーを浴びて、そのまま洗濯をしたあと、おなかがすいていたので、チャッキーさんの部屋のドアを叩いた。


「チャッキーさん、もう昼前ですよ!」僕はドアの奥を意識して声を出すと、チャッキーさんの呻(うめ)き声がかえってきた。


 僕はレモンさんのドアの前へ移動して、一瞬とまどってからドアを叩いた。


 レストランで待っていると、細い眼をよりいっそう細くしたチャッキーさん来た。チャッキーさんは水色のTシャツを着ていて、別人のように感じられた。


「おはようございます。今日は天気が好いですよ」僕は微笑みながら言った。


「おはよう、起きるの早いね」チャッキーさんがつぶれた顔で言う。


「眠そうですね?」


「いや、まだ眼が開かなくて」チャッキーさんは目の前の席に腰をおろした。


「何か注文はしたの?」


「まだです、みんなが来てからにしようと思いまして」


「そうなの? 頼めばよかったのに、けっこう待ったでしょう?」チャッキーさんはメニューを手に取って言う。


「いえ、ぼーっと海を見ていたので、あっという間でしたよ」僕は何事もなかったように言った。


「そう、ならいいけど」チャッキーさんは顔を一瞬上げて言った。


「そういえば、チャッキーさんはあの後何をしていたんですか?」僕はふと聞いてみた。


「昨日? ああ、すぐに眠ったよ。いや、もう疲れてさ」


「たしかに、“島”に着いて動きっぱなしでしたよね、旅行に来て、あんな動いた日は初めてですよ」


「ほんとだよ」チャッキーさんは静かに言った。


「レモンさんタフですよね? あのあと、夜中まで踊っていたんですよ」


「そうなの? ほんと元気だね!」チャッキーさんは眼を大きくして言う。


「もう無理やりです。でも、楽しかったですよ、トランスがあんなにいいものだと知りませんでした、あっ、レモンさんだ」僕は淡黄色のキャミソールを着たレモンさんを見つけ、言葉を切った。


「おはよう」チャッキーさんが後ろを振り返って言った。


「おはよう」眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せたレモンさんが、しゃがれた声をよりいっそう枯(か)らし言う。


「おはようございます」僕は微笑みながら言った。


「あなた早いわね、あんなに酔っ払っていたのに」レモンさんはチャッキーさんの隣に座る。


「そうなんですよ、不思議なことに元気なんですよ」僕は言った。


「ねえ、しんご君が盗難にあったのよ、知ってる?」レモンさんは困ったようすで言った。


「えっ!」僕はありがちな声を出した。


「ほんと?」チャッキーさんも同様に声を出す。


「そうらしいのよ、昨晩さあ、しんご君がわたしの部屋に来たのよ」


「昨晩って、帰ったあとですか?」僕は聞いた。


「あのあとよ、わたしは寝ていたんだけど、ドアをノックする音と彼の声がしたのよ。すると、パスポートが入っていた財布がないって言うのよ」


「そりゃ大変だ! どうしてですか?」


「わたしも詳しくは知らないけど、どうやらバックパックに入れておいたらしく、部屋に戻ると、かけていた南京錠が壊されて、財布がなくなっていたらしいのよ」


「部屋の鍵はかけていたの?」チャッキーさんが聞く。


「かけたそうよ。でも、戻ってきた時は開いていたらしいわ」


「じゃあ、しんご君はどうしているんですか?」


「わたしの部屋に来たあと、宿へ戻ったわ。話は聞いたけど、もう、夜が明けはじめていたのよ。どうすることもできなくて、明日みんなで考えましょうってことになったのよ」レモンさんがひっくり返ったような眼をして言う。


「運が悪いね、しかし、本当に盗難はあるんだね」チャッキーさんは驚いたようすで言った。


「ほんとですよ」


 僕はそう言ったあと、自分の行動を思い起こした。そして、自分の考えの甘さを思い知らされた。盗難はどうも他人事のようで、まるで現実味がなかった。自分には関連のない出来事で、心のどこかで盗まれる人を馬鹿にしていた。だが、知り合いが盗難にあったのを聞き、はっきりと起こりえる現実だと認識して、背筋がぞっとした。


 先ほどまでの軽快な気分は消えてしまい、場は重苦しい沈黙で包まれた。


「でも、考えたってしかたがないわ。しんご君が来ないと詳しくわからないし。ねえ、二人は食事を注文したの?」レモンさんが話題を変えるように言った。


「いや、まだだけど」チャッキーさんがこたえた。


「なら、頼みましょう、わたし、おなかすいたわ」

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