第10話

   十


 食事が食べ終わる頃、しんご君が狐眼を細めた醜い顔をしてやって来た。


「お財布はあった?」レモンさんは僕の隣に座ったしんご君に声をかけた。


「いえ、やっぱりありませんでした」しんご君は顔をぴくりとも動かさずにこたえる。


「話は聞いたよ、大変な目にあったね」チャッキーさんが憐(あわ)れむように言う。


「そうなんです、まいっちゃいますよ」


 しんご君はあざけるように笑った。僕は何を言っていいかわからなかった。


「どれぐらい入っていたの?」チャッキーさんが聞いた。


「約十万円とパスポート、ほかにカード類が入ってました」


「うわ、きついね」チャッキーさんは顔をしかめる。


「でも、半分はトラベラーズチェックだったのが救いです」


「換(か)えといてよかったわね」レモンさんが言う。


「でもパスポートがないと換金できないでしょ? 今は持ちあわせはあるの?」チャッキーさんが訊ねる。


「はい、五万円ぐらいは現金で持ってます。金を三ヶ所に分けてしまっていたので、財布以外は無事でした」しんご君は言う。


「盗んだ人はそこまで気がつかなかったのね、よかったわ」レモンさんがしゃがれた声で言う。


「三ヶ所に分けていたんだ? すごいね」僕は言った。


「それなら何日かは生活できるね。でも、パスポートがないんじゃな、それにカード類もとめないといけないだろう?」


「そうなんです、やることが多すぎて混乱してましたよ、でも、寝たらだいぶおちつきました」


 しんご君はかすかに笑いながら言った。雨がぽつぽつと降りはじめ、雨音がひたひたと聞こえた。


「じゃあ、今はどこに泊まっているの?」レモンさんが訊ねた。


「昨日と同じ宿にいますが、あとで宿は移ります。あんな宿にはもう、泊まりたくありません。それに、宿のオーナーに聞いても知らないと言うんです。おかしいじゃないですか? 部屋のドアが開いていたんですよ? それなのにしらばっくれて。一番あやしいのは宿の人間ですよ。ぼくが『部屋の防犯が悪い』と言っても、相手にしてくれないんです。それでもしつこく訊ねていたら、しまいには、『警察へ行けばいいじゃないか』と笑いながら言うんです。もう、本当に腹がたちましたよ!」


 穏(おだ)やかな人、という印象のしんご君が憎々(にくにく)しげに声を出したので、僕は意外な物を見たような気がしてびっくりした。


「たしかに宿の人間が一番疑わしい」チャッキーさんが同意するように言う。


「そんな宿に泊まっていたのでは危ないわね。ねえ、しんご君、わたし達が泊まっている宿へきなさいよ」レモンさんが言う。


「僕もそうしようと思っていたんですよ、どうです、部屋は空いてそうですか?」


「あれだけ部屋があるんだから、一つぐらいは空いてそうですよね」僕は言った。


「そうよね、わたし、ちょっと聞いてくるわ」レモンさんは立ち上がり、調理場へ歩いた。


「今の宿はどうやって決めたの? ガイドブックを見て決めたの?」チャッキーさんがしんご君に訊ねた。


「この町に着いた時、話しかけてきた客引きについて行ったんです。値段が安く、部屋も思った以上によかったんですよ。レセプションのある小屋から離れていて、森の中にバンガローがあるんですが、今考えると、周囲はひと気がなくて危ない場所です」


 しんご君は声を大きく言った。


「やっぱり宿の人間があやしいね」


 チャッキーさんは確信したように言う。僕は麦わら帽子をかぶった、眼のりりしい男を思い出した。


「部屋は満杯らしいわ」レモンさんがこちらへ歩きながら言う。


「そうですか」しんご君はとても残念そうに言った。


「でも、このあたりは似たつくりの宿が多いから大丈夫よ。近くの宿を探しましょう」


「チェックアウトは済ませたの?」チャッキーさんが言った。


「いや、まだです、起きてすぐにこちらへ来たものですから」


「それなら、僕がしんご君を乗せて、バイクで荷物をとりに行きますよ」僕は役目を見つけ、張り切って言った。


「それはいいわね、お願いしてもいいかしら?」レモンさんはひさしぶりに僕を見て言った。


「でも、悪いですよ」しんご君が申し訳なさそうに言う。


「いいよ、どうせやることないし、せっかくバイクがあるんだから使わないとね」僕は大様(おおよう)な態度で言った。


「いいんですか? たすかります」


「じゃあ、ぼくとレモンちゃんは、二人が戻るまでに宿を探しておくよ」チャッキーさんが間髪(かんぱつ)いれずに言う。


「ええ、そうしましょう。じゃあ、さっそく行動を開始しましょう!」レモンさんはしゃがれた声を大きくあげて言った。


 ところが、降りはじめた雨は、その瞬間を待っていたかのように雨足を強めた。大粒の雨が地面を打ち付けて、勢いよく跳(は)ねる。雨粒は壁のないレストランに吹き込み、茶色の床を濃く染めていった。三人は席を移動した。僕は雨に近づいてから、三人のほうへ顔を向けて首を振った。


 僕たち四人は雨を見ていたが、口数は次第に減っていった。轟音(ごうおん)を立てる雨音は、話すことさえも許さないようだった。


 レモンさんがガイドブックを読み始めた。チャッキーさんは横になり、寝息をたてはじめた。しんご君はばつが悪いようにそわそわし、なにやら考え事をしているようすだった。


 僕は膝を抱(かか)えて海を眺めた。強い横風が海面を乱し、雨粒が海面をざわつかせていた。空は薄暗く、灰色に覆われている。遠くの島はもう見えなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る