第5話

   五


 僕は特に用意することがなかったので、ベッドに腰掛け、メモ帳にこの島で必要な物を書きだした。水着、シュノーケル、そして大麻だ。首都では大麻が手に入らなかった。酒があったので必要としていなかったからだろう、その存在すら忘れかけていた。だが、“島”は素晴らしい自然にあふれる。僕の体は無意識に大麻を欲していた。「この環境で大麻を吸ったら?」と考えると頭が爆発しそうになり、顔がにやついてベッドに何度も頭を打ち付けた。僕はベッドの上で仰向(あおむ)けになり、両手を頭の後ろにまわして、“島”の生活に期待を寄せた。


「トントントン」


 ドアをノックする音が僕の意識を覚(さ)ました。


「ゆうじ君、起きてる? 行くわよ」


 レモンさんの元気そうな声が聞こえた。僕はあわてて起きて、ドアを開けた。シャツを代(か)えたレモンさんが立っていた。


「寝てた?」レモンさんが聞く。


「いえいえ、ばっちり起きてましたよ」僕は答えた。レモンさんの背後には、チャッキーさんが細い眼をして立っていた。


「えらいわ、さあ、行きましょう!」レモンさんはあどけない感じで言った。


 店が点々と並ぶ道に出て、数分歩くとスクーターが何台も置いてある店を見つけた。店をのぞくと、白いシャツを着た細長い青年がテレビを見ている。レモンさんが声をかけた。青年はこちらに気がつき、表情を変えずに近づいてくる。


 レモンさんが話を通すと、真っ赤(まっか)なボディーのスクーターが用意された。メーターをのぞくと、千キロをまわっていなかった。青年からキーを受け取り、エンジンをかけると、素直にエンジンがかかった。


「このバイク調子よさそうですね」僕は言った。そして青年の顔を見た。青年がレモンさんに何か言った。


「おろしたてのバイクだから丁寧(ていねい)に乗ってくれ、だってさ」レモンさんは言う。


 僕は青年にむかって、ハンドルを握った手と、頭を小刻みに動かした。青年は眼と顔を心持上げてから、振り返って店の中に入った。


「ねえ、誰が運転する?」レモンさんが言う。


「運転していいですか?」僕はスクーターにまたがったまま言った。


「大丈夫? 運転できるの?」


「まかせてください、これでも中型の免許を持っているんですから」


「そう? ならお願いするわ」


「疲れたら言って、運転かわるから」チャッキーさんは僕の眼を見て言う。


「わかりました」僕は微笑(ほほえ)みながら言った。


「では、アマ島へ行きましょうか!」


 レモンさんが真ん中に座り、チャッキーさんが後部へ座った。重くて不安定なスクーターはゆらゆらと走りだした。


 僕はシートの前部に、尻をひっかけるように座っていた。尾骶骨(びていこつ)に直接あたるようで違和感があったが、すぐ気にならなくなった。車体は思った以上に不安定で、スピードを出さないと安定しなかった。そのうえ、エンジンが唸(うな)るわりにスピードは出なかった。


「バイクは最高ですね!」


 僕は後ろを向いて声を大きく出した。車の運転中でもそうだが、話しかける際に人の顔を見てしまう癖があった。それに、バイクの運転者の声は、後ろに座る人に聞こえにくいからだ。


「ええ! でも、ゆっくりでいいから安全運転でお願い」レモンさんが耳元で言った。


「わかりました!」僕は大声で返事した。レモンさんの言葉は聞こえたが、意味はわかっていなかった。


 運転に慣れはじめたので、僕はトラックで通った急な坂道のことを考えた。まずは運転の感覚を取り戻すことに集中していたからだ。実際、バイクに乗るのは久しぶりだった。運転免許は持っていたが、以前乗っていたホンダのアメリカンタイプのバイクは、一年前に故障してしまい、それからはバイクにふれても、運転はしていなかった。


 感覚を取り戻したところで、このバイクであの坂道を乗り越えられるのか、あらためて疑問に思った。むしろ、あの坂道があったから、僕は真っ先に運転を申し出た。レモンさんは問題外として、チャッキーさんは運転ができるのか? もし、運転できたとしても、あの坂道を乗り越えられるのか? 半日チャッキーさんと一緒にいたのをふまえ、僕は判断した。


 三人乗りは予想以上にスクーターの馬力を削っていた。運転に慣れてきて僕は、「全速力で坂に入る必要があるぞ。あの坂は本気でぶつからないと負ける」と思った。


 僕は全速力で道をとばして、一本目の坂を駆(か)け上がった。勢いのあったスクーターは、坂の半分を過ぎると徐々にスピードが落ちた。僕は不安になった。のろのろと走り、なんとか坂を上りきった。僕は手ごたえを感じた。


 しかし、ここからが本番だった。上りのことばかり気をとられ、下りをまるで考えていなかった。スクーターが下りに入ると、ジェットコースターが降りはじめる時の感覚がよみがえり、僕は思いきり顔をひきつらせた。


 左右の手と眼に意識を集中させ、ゆっくりと坂を下りだす。一直線の坂ならば、それほどまで神経を尖(とが)らせることはないが、曲がる道の連続を記憶していた。僕はブレーキを臆病なほど繊細(せんさい)に扱った。スピードを出しすぎてしまえば、車体は道を曲がりきれずに横転する可能性がある。そこであせってブレーキをかけてしまえば、車輪はロックしてしまい、三人分の重りを載せたスクーターがこちらの意図を無視して進み、やはり横転しまう。僕は小刻みに握っては、放し、一定の速度を保った。


 下り坂を半分ほど下りたところで、ブレーキを放(はな)し、スロットルを全開に開き、猛スピードで坂を下りた。そしてそのまま、壁のような上り坂をまた駆け上がった。


 僕は笑いながら運転した。坂の連続はどうにか乗り越えられる気がした。それに、バイクの運転は楽しかった。


 ひやっとする場面が数回あった。長い坂を上っている最中にバイクが止まってしまい、二人を歩かせる羽目にもなった。だが、それ以外のミスはなく、なんとか坂道の繰り返しを越えた。


「とんでもない坂道でしたね」僕はほっとして声を出した。


 舗装された直線の道を走り続け、すれ違う島民や旅行客と何度も笑顔をかわしては、“島”の大部分を埋めている植物に目をやった。その度に贅沢な時間を過ごしていることをうれしく思い、バイクのスピードを上げてしまった。レモンさんに注意されて速度を落とし、冷たくなった風を感じた。


 港にたどり着き、僕は防波堤の手前にバイクをとめた。


「ちょっと、スピード出しすぎじゃない?」レモンさんがバイクから降りて言った。


「そうですか? あんなもんじゃないですか?」僕は大きく息を吐いてから言った。


「はやく感じるわ」


「でも、はやく行かないと日が暮れちゃいますよ」僕は腕を真上にのばした。


「つぎはぼくが運転しようか?」チャッキーさんが言った。


「あっ、お願いします」


 ガイドブックに載っている地図を見た。アマ島は北部にあり、自分たちの泊まる宿は最南部の町にあった。港は島の西部にある。


「このちょうしなら、はやく着きそうですね」僕は言った。


 チャッキーさんと交代して僕は後部に座った。チャッキーさんの運転は速くもなく、遅くもなく、いたって普通だ。僕は後部に座って気がついた。運転手はさほど速度を感じない。後部は揺れるので、しっかりとつかまっている必要がある。


 バイクは海岸線に沿って走り続ける。しだいにすれ違う人は少なくなり、建物も見なくなった。右には鬱蒼(うっそう)とした緑の密林、左は赤みを帯びてきた空とゆらめく海を背景に、輪郭線のくっきりする椰子(やし)の木が過ぎていく。後ろを振り返ると、遠近感のあるハの字の一本道が見えた。頭上を見上げると、小高い山々が視界に入る。靄(もや)ともいえる雲が山の頂上を隠していた。僕は口を開けて、眼を大きく見開いていた。


 道は海岸線を逸(そ)れて山へ向かっていった。雲が忙しげに頭上を流れていた。やがて雨が降りはじめる、すぐに激しくなり、大粒の雨が地面に降り注いだ。あたりは激しく音を鳴らした。チャッキーさんは痛みを避けるようにスピードを落とし、それでも進み続けた。


「島の天気は変わりやすいって聞きますが、ほんとうですね?」僕は目の前のレモンさんに話しかけた。


「まったくだわ、でも、それって山じゃないの?」レモンさんは薄目を開けて言う。


「いや、わかりません」僕は顔をしかめた。


 バイクは緩(ゆる)やかな道を上りつづけた。雨はしだいに弱くなり、止んだ。僕はレモンさんに話しかけようと思ったが、バイクのうえでの会話が面倒だったので、話しかけるのをやめた。そのかわりに周りの景色を眺めた。


 道はアスファルトから土と砂利の道に変わっていた。何度か道が分かれるところがあり、その度にバイクをとめて、三人で話してから道を決めた。ガイドブックは持っていたものの、細かい道がわからず、だれも正確な道を知らなかった。


 陽(ひ)はいつのまに沈み、あたりは暗くなっていた。なんどかチャッキーさんと運転をかわった。道はどんどん悪くなり、アマ島に着く気配を起こさせなかった。すれ違う人はいなくなり、冷たくなった風が濡れた衣服を冷やして、嫌な空気を感じざろうえなかった。


 気がつくと、緩やかな上り坂の道は狭くなり、大きな石がところどころに突き出る凸凹(でこぼこ)の道になっていた。くぼんだところに水がたまり、汚れが目立たなかったバイクはすっかり泥まみれになっていた。だが、そんなことはどうでもよかった。バイクは上下に揺れながら進み、タイヤが泥にとられて滑(すべ)ってばかりいた。


 大きな石にぶつかり、車体が激しく上下して後輪が横に滑り、三人とも片足を地面につけてなんとか車体が倒れるのを支えた。


「この道であっているのかしら?」レモンさんは小さな声で言う。


「どうですかね?」僕は答えを避けるように、考えもせずに言った。


「これ以上進むのは厳しいよ」運転していたチャッキーさんが言う。


「ひどい道ね、腰が痛くてたまらないわ」レモンさんは弱々しく言った。


「こんなひどい道はじめてです」


 僕は同意するように言った。辺りはすっかり真っ暗闇になっている。ふと、遭難する人間の心境を考えた。


「どうする?」チャッキーさんがあきらめたように言う。


「どうするって? アマ島に行くのをやめるかってこと?」レモンさんが言った。


「そう、進むか、引き返すかってことだよ」


「どうします?」僕もつられて言った。


「そうね、もうこんな状態だしね」


 レモンさんがはっきりしないようすでこたえる。バイクのヘッドライトが石の転がる道を照らし、エンジン音が規則正しく響いていた。静かな息づかいがやけに聞こえ、時間は重々しく流れ、呼吸することに嫌気がさした。今の状況を考えると胸の詰まる思いがする。緊張を持った空気はいまにとぎれてしまい、元通りにならないような気がした。


「どうする?」チャッキーさんが静かに言った。


「どっちにしろ進むか、戻るかですよね」僕は言った。


「そうね」レモンさんは言った。


 通ってきた道を考えると、僕は気が遠くなりそうになった。「また、あの凸凹道をとおるのか?」と思うと、知らない道の方がいい気がした。 


「引き返しても、また、あの凸凹道ですよ。いままで走ってきた時間を考えると、進んだほうがよくないですか?」


「この道をかい?」チャッキーさんはあきれたように言う。


「はい!」


「だって、道がほとんど見えないよ?」


「はい! それでも来た道を戻るよりマシです」僕は引き返すのが嫌だった。


「そうか」チャッキーさんは考えるように言った。


「レモンちゃんはどう?」チャッキーさんはレモンさんのほうを見る。


「わたしは、どちらでもいいわ」レモンさんは意見を持っていなかった。


「もう、このさいです、とことん進みましょう!」僕は間髪(かんぱつ)いれずに調子のよい声で言った。


「そう、なら、進もうか」チャッキーさんは少し間をおいて言った。


「ぼく、運転します!」


「わかった、視界が悪いから、気をつけて運転するんだよ」チャッキーさんはそう言った。

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