第2話

   二


 河岸を離れてから四時間が経過すると、船は白い雲の下に浮かぶ“島”に着いた。僕はトイレに一度行ったきり便意がなくなり、窮屈(きゅうくつ)な船から地上へ降りられるうれしさに、下痢(げり)の疑念はどこかに消えてしまった。


 船は堤防に横づけした。英語で書かれた紙を持つ、茶色い肌の客引きが数十人、にぎやかに待ち構えていた。僕は一ヶ所に集められた積荷に強引に近づいて、カラフルな積荷の山から黒のバックパックを探し出し、船を降りる人の列に加わった。


「あら、あなた、日本人?」


 しゃがれた声が僕に話しかけた。振り向くと、背の低い女性が立ち、その隣には汗ばんだ男がいた。


「は、はい。あなたも日本人ですか?」僕はむけられた質問を返した。


「そうよ、わたしも日本人よ。同じ船だったのね、一度も見かけなかったけど、どこにいたの?」べとついた髪を肩に乗せる女性は、溌剌(はつらつ)と声を出した。


「ぼくは甲板にずっといたんです。船内は人でいっぱいだったので」


「そうなのよ、すごい人の数よね、さすがフルムーンパーティーに近いだけあるわ。わたし達は船内にいたのよ、どうりで見かけなかったわけだわ。そうそう、この人はチャッキーといって、バスの中で知り合った人なのよ」女性は隣の男に顔を向けた。


「ぼくはチャッキーっていうんだ、よろしくね」薄茶色の短い髪をしたチャッキーさんは、立派な体格を揺らし、細い目で僕を見て言った。


「よろしくです、ぼくはゆうじって言います」僕は丁寧(ていねい)にこたえた。


「わたしはレモンっていうの、よろしくね」レモンさんは微笑(ほほえ)みながら元気よく言った。


 船を降りてから、僕はおそるおそる訊ねた。


「二人はフルムーンパーティーが目当てで“島”へ来たんですか?」


「もちろんよ、あなたもそうじゃないの? わたし達今回が初めてなのよ」


「そうです、ぼくも初めてなんです。どこでやるかわからないし、泊る宿もわからない、それに、日本人はだれもいなくて、船の上で震えていたんでよ」僕はおどけた口調で言った。


「あら、そうだったの? わたし達も泊る宿を決めていないのよ。ねえ、せっかくだから一緒に行動しない?」綺麗というよりは、かわいらしい顔のレモンさんはさらっと言った。


「それはいいですね! それがいいです! いや、ほんと助かります。じつは、わんさかといる客引きを見て、どうしようかと思っていたんです」胸のつっかえが取れて、僕は明るい調子で言った。


「ほんと、ここの客引きの数にはびっくりだよね」チャッキーさんは微笑みながら言った。


 こうして僕は、さばさばしたしゃがれ声のレモンさんと、生えかけの髭(ひげ)で顎(あご)を青くした、体格のわりにおとなしいチャッキーさんと、一緒に行動することになった。船の上での陰鬱(いんうつ)な心持は晴れて、広がる青空と生命力あふれる島の木々を見ると、ようやく南の島に着いたのだと実感した。胸は未知なる期待でうずうずしていた。


 陸地へ続く堤防の一本道は、旅行客と客引きの交渉がいたるところで行われ、小さな市場のようだった。近づいてくる客引きを笑いながら断りつつ、堤防の上を歩いた。二人ともTシャツと短パン姿に、僕よりも大きなバックパックを背負っていた。


「あの人たちは、毎日港で待ちかまえているんですかね?」僕はチャッキーさんにおもわず質問してしまった。


「さあ、どうだろうね」チャッキーさんは僕をちらりと見て、前方を向いた。


「ちょっと多すぎるわよ、フルムーンパーティーに近いのもあるんじゃないかしら?」レモンさんは額から汗を垂らして言った。


 広い道へ出たところ、レモンさんは数台並んでいるトラックの方へ進んだ。僕は後ろからついていった。トラックの荷台には長イスが設置されていて、体の大きな白人が三人、大きなバックパックを抱えて、ちょこんと座っていた。レモンさんは近くにいた運転手らしき人に話しかけた。


「どこかに移動するんですか?」僕はチャッキーさんに聞いた。


「そうだよ、パーティーのあるビーチの方へ行くんだよ」チャッキーさんはやわらかな口調で答えた。


「てっきり、港の近くでパーティーがあるのだと思ってましたよ」と言ったが、実際はそこまで考えていなかった。


「二十バーツ出せば、ビーチに近い繁華街へ連れていってくれるらしいわよ、さあ、乗りましょう」レモンさんは僕とチャッキーさんに声をかけた。


 色あせた水色のトラックの荷台に乗りこんだ。白人の目の前に座ると、「ハロー」と声をかけられた。口元を緩(ゆる)めて僕もあいさつをした。


 数分すると荷台は人で一杯になり、運転手らしき短髪の男が出発の合図らしき声をあげた。声と同時に白人の若い男女がトラックに近寄り、男と話してから荷台に乗りこみ、わずかに空いていたスペースを埋めると、車は重そうに発進した。


 僕は眼を輝かせ、きょろきょろしていた。汗を乾かす心地よい風が上半身をつきぬける。僕はかぶっていたニット帽を素早く脱いで、荷台の端(はし)をつかんだ。目の前の白人は楽しそうに会話していた。


「気持ちいいな! チャッキーさん、今日は天気がいいですね」僕は隣に座っているチャッキーさんの顔をのぞいた。


「ああ、そうだね」チャッキーさんは大きい声で返事した。


 僕はそれを聞いてうれしくなり、通り過ぎていく風景を眺めた。背の高い椰子(やし)の木やふさふさした柔らかい芝、緑の強い植物達が遅くも早くも過ぎていく。ヘルメットをかぶらずにバイクを運転する旅行者や、二人乗り・三人乗りしている島民が、対向車線を通り過ぎた。英語表記された看板を並べた商店が去っていく。四駆の車がトラックを追い抜き、乗っている白人が陽気に声をあげた。


 道はするどい角度の傾斜になり、エンジンをうならせて車は進んで行った。坂を上りきると、前方に景色が開けてコバルトブルーの海が広がっていた。きらびやかな海面は透(す)きとおり、太陽をゆらゆらと反射させている。


「チャッキーさん、すばらしいですね!」僕は叫ぶように声を出した。


「そうだね、とてもきれいだね」チャッキーさんは遠くを眺めながら答えた。


「立ち止まって写真を撮れないのが残念ですね」僕は荷台をつかんでいる腕に力をいれた。


 トラックは急な坂道を何度も上り下りしたあと、直線の道を走った。しだいに民家が増えはじめた。凸凹(でこぼこ)の道へ曲がると、水溜まりが点々とする空き地へ着いた。空き地には車が三台停まり、数人が暇(ひま)を持て余すように雑談している。白人が席を立ったので、僕はつられて席を立った。


「レモンさん、ここですか?」


「そうねえ、たぶんここじゃないかしら」


 レモンさんはあたりを見まわして答える。運転手が降りて何やら声を出すと、乗客は次々と荷台を降りた。


「何もないところだね、どこが繁華街なのだろう?」チャッキーさんが誰に話しかけるわけでもなく言った。


「そうですね」僕はあいづちをうった。


「繁華街はどこなのかしら? それらしい雰囲気はないわね。でも、これだけ乗客がいるから、近くにありそうじゃない」レモンさんは僕とチャッキーさんを交互に見ながら言う。


「はやく宿を見つけておちつきたいわね。昨日から移動のしっぱなしでさすがに疲れたわ」レモンさんは首を振りながら言った。


「じゃあ、まずは宿を見つけましょう」僕は頷(うなず)いて言った。重い荷物を置いて、はやく“島”での自分の場所を得たかった。


 他の乗客の半分は歩いてどこかへ行き、もう半分は空き地にいた客引きと話していた。すると麦わら帽子をかぶった長髪の男が、僕たちに話しかけてきた。アロハシャツを着たその男は、眼がりりしく、端整(たんせい)な四角い顔をしていた。


 英語力の乏(とぼ)しい僕はレモンさんの方へ振り返った。すぐにレモンさんは数歩前へ出ると、その男と会話をはじめた。僕とチャッキーさんはわからないながらも、二人のやりとりを無言で見ていた。


「目の前がビーチの宿があるらしく、車で連れて行ってくれるそうよ。それもタダで」


 眼を少し見開いてレモンさんが言う。レモンさんは確かめるように男に話しかけた。男は笑いを浮かべて答える。


「どうする? その宿を見に行く?」


「いいですよ。安くて寝る場所があれば、なにも文句はありません」僕は自信ありげに言った。


「うん、ぼくもかまわない」チャッキーさんはどうでもよさそうに答える。


「そう? それなら行ってみましょう」そう言い、レモンさんは男に手振りをまじえて話した。男は停まっている軽トラックを指した。


 レモンさんが助手席に乗り、僕とチャッキーさんは荷台に乗った。白人の中年男性も一人乗りこんだ。


「ビーチの前って、どんな宿ですかね?」僕は目の前に座っているチャッキーさんに声をかけた。


「はやく宿が決まるといいね」チャッキーさんは表情をかすかに動かし、そう答えた。

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