肥後国 酔狂 天正十五年(1587年)

湧水の章 第1話 国人

天正十五年(1587年)六月 肥後国六嘉荘の川辺にて。

石坂武宗 玉名郡石坂の土豪 三十代中頃

甲斐親英 益城郡御船城城主 四十代中頃



武宗

「これはこれは。息災でなにより。八代からのお帰りですかな。」

親英

「やあ、久しぶり。豊後の大殿が亡くなられたと聞き、薩摩から戻ってきたところ、府内へ赴く途中ですよ。ところであんた、こんなところで何をしておいでですか。」

武宗

「隈本からの帰りです。ご着任された佐々殿への挨拶が済んだので…」

親英

「なるほどこちらで謀反の談議ですか。それは結構ですな。私も乗りたいものです。どこの御仁の下へお出かけですか。もはや阿蘇の家中には気骨のある人物はおりませんぞ。といって人吉も混乱しているようだ。今は時期ではないようにも思えますなあ。それとも遠路薩摩まで向かうのですか?隈部殿の使者で?それも結構ですな。なに、止めたりはいたしません。私もしばらく薩摩の殿の世話になっておりましたから、隈部党の方々と話もきっと合うはずです。なんなら私にも詳しく教えてくれませんか、口外は決して致しませんから。」

武宗

「あんた、何言ってるんですか。違います。川尻で余暇を遊んでいたんですが、世の変わりように寂しくなってこちらに来たんですよ。あの湊には私の娘が住んでますが、なにせ今や上方の連中がいばりくさってますからなあ。向こうの連中とは口を利くなと釘を刺しておきました。」

親英

「余暇とは結構。それもこれも全て関白殿下のおかげ。大したものですなあ。まあご時世でしょう。渡過瀬で対峙したあんたと笑顔で話せるのも、関白殿下のおかげ。ええとあれはいつの事でしたか。」

武宗

「あれからもう七年。その間、豊後が去って薩摩が来て、薩摩が去って関白が来て、それでも我ら肥後の衆は健在だ。もっとも阿蘇の御家は潰れましたが、これは甲斐殿、あんたの軽挙のせいだと専らの噂ですがね。」

親英

「いや、私じゃないさ。浜の屋形でふんぞり返っていた連中のせいですよ。ほれ、あんた城下で会って来たんでしょう?」

武宗

「大宮司殿は城下にはおられません。おそらく城内で手厚い好待遇をば。佐々殿はあの方と私ら肥後の者とは会わせないようにしていたようですね。」

親英

「あれも哀れな子だ。我ら生き残りがいる限り、そのわび住いで生涯が終わりかねない。これも敗北した肥後衆の命運なのだろう。」

武宗

「いや肥後の衆は戦に敗れたわけではない。豊後勢も薩摩勢も日向勢も戦場にて数多の死骸をさらしたが、さっき申したように、我ら肥後勢は健在ですよ。」

親英

「さっきから健在健在と、相当うっぷんがたまっているご様子。私も急ぎの旅ですがまだ日も高い。どうですか、あそこで一献。」

武宗

「あんた、豊後へ急がなくても良いのですか。大恩ある方の葬儀なのでしょう。」

親英

「ええと、丁度十年前までは、あんたにとっても大恩ある方だったはずだと思いますが。」

武宗

「まあ、あんたが構わぬというのならいいでしょう。ところであそこ、酒が飲めるのですか。」

親英

「心地よい湧き水に足を突っ込みながら酔える涼やかな辺です。ぜひそうしましょう。で、話を続けるとあんたの言う通り、肥後の衆はまださほど屍をさらしていないのは事実、肥後に入った佐々殿はご苦労が絶えないでしょうな。なにせこの国の連中と来たら血の気多く、憎しみを隠したまま陽気に会釈をするあんたみたいな連中ばかりですからな。と言って、連中はなにか大それたことをするわけではない。なにせ、あんたは肥後の衆と連呼するが、関白到来までそんな連帯感は皆無だったのですからな。征服された今となって、あんたらが求めているあんたらにとっての正しいお裁きとやらを声低く要求する段取りになって、連帯を感じるとはまさにお笑い種の連中だ。だから当然希望はかなわんでしょう。しかし、関白殿下がやってきて、それが認められなかったとでもいうのですか。我ら甲斐党は御船を回復できましたよ。」

武宗

「あんた饒舌ですな。まあ口の悪さには目をつぶりますが、そういう事なのです。ただ、今の天下を覆すわけではなし。後始末としては、我らの肥後における本来あるべき所領を返してもらいたいだけなのですよ。」

親英

「そのためにはどうするべきか。あるいはそれが聞き入れられないときは。いやいやわかってますとも。一揆して、佐々殿に認めさせるしかない。が、あの方は越前で培ったらしい精兵を率いている。簡単にはいかないでしょう。といって暗殺するのでは意味がなし。隈本を攻め、虜にし、それを持って関白殿下に訴えかけるのが近道なんでしょうね。」

武宗

「あんたも良く言いますな。しかしそうですな、いやそうですな、だが誰が攻めるのか。今や大友勢は崩壊、あんたの甲斐党だって一度は御船からも隈庄からも放逐されて離散してしまった。肝心の惟光様が隈本で佐々殿の庇護下にあるから阿蘇勢も頼りにはしてません。相良党もボロボロ。だから我ら隈部党しかいないでしょう。我らが動けば、城党、小代党なども立ち上がり、他の連中も遅れを取ることを恐れ、一気に動き出すだろうというのがもっぱらの風聞なのです。」

親英

「連中が?立つでしょうか。特に隈部殿は豊後、肥前、薩摩、そして関白殿下へと世渡りが実に巧みだ。私らが花の山で惨めな目に会う前から連中薩摩に降伏していましたよ。隈部党のあんたには失礼だが、あんな奴ら頼りにはならないのでは?」

武宗

「いや、今回ばかりは隈部党も所領を減らしています。御隠居様の方は関白殿下をお恨みされているだろうし、その代理人たる佐々殿をどうみておるか、お判りでしょう。・・・いやしかし暑いですなあ。」

親英

「玉名にお住いの方には、ここ益城の陽射しはさぞかし暑いでしょう。さあさあ足袋など脱いで、足を浸されよ、再開を祝してまずは一献。・・・まあ関白殿下のご采配、きっと素晴らしいものなのでしょうが、だいぶご朱印状をばら撒かれたそうだ。あれは良くなかったなあ。実に良くない。」

武宗

「ご朱印状ですか。なに、それならほれ、私も持ってますよ。ちゃんと石坂を安堵すると書いてある。薩摩も肥前も豊後も破れ、天下が定まったのだ。何が良くないものですか。」

親英

「なるほど、ではこれからは楽をするつもりですな。そうですかい、だが私は全く定まらん。ずっと八代にいたわけではないのですよ。だが不首尾だ。薩摩にご挨拶に行ったのが良くなかったかな。そうだ。まさか連中がここまで惨めに負けるとは思いの他だったから、内城にまで付き合ったのがいけなかったのだな。でも、あんたが持っているそれをみて、安心しましたよ。そいつはくせもんです。こいつは混乱必至だと思いますね。」

武宗

「ほう、なぜですか。」

親英

「あんたに会うまでに、そんなご朱印状を数多くみたものさ。みんな自慢してやがったが、その中に、あんたが安堵されたという土地が入っていなかったという保証はないね。なぜなら結構な重複の例があるらしいからな。」

武宗

「おい、あんた適当な事を言っているんじゃなかろうな。」

親英

「とんでもない。三か月前の中春、関白殿下は高良山から八代までたったの一週間で通過された。隈庄では泊まっていかれたらしいがね。一週間、ものすごい速さだ。全て御身おひとりでご決定遊ばされているのだろうよ。この国の細い事なんて、なんにも覚えてはおられないはずだし、日奈久の湯につかって忘れちまってるでしょうとも。誰にとっても味方は多い方が良いから、あちこちで愛想を振りまいているのさ。」

武宗

「確かにそんな噂も耳にしないでもないが、殿下の部下どもはそうではあるまいが。」

親英

「佐々殿も細い事まで配慮する方ではないらしい。勇猛だというのなら、なおさらな。」

武宗

「なるほど、ではこれも下手すればただの紙切れになる恐れありということか。」

親英

「あんたも家に帰ったら周囲を見回してみるといい。関白殿下が通過した後の損失を取り戻したがっている連中ばかりと目が合うはずさ。そして、国主となったばかりの佐々殿には力はない。そして、この肥後ではどの国主も力を持てない。二百年間そうだった。これがこの国の良いところだが、それだけ変わらなかったものが、今すぐ変わるはずがないでしょう。」

武宗「あんたいろいろと物知りだが、これからあんたが最期のご挨拶に行く豊後の大殿は、日向で転ぶまで、我らが肥後でも大いなる力を持っていたんじゃないか。」

親英

「あんなもの、統治と呼べるかね。肥後の国衆の争いの調停すら満足にせず、彼の人が日向で屍の山を築いた後は、俺たちがあのぼんくらのためにどれほど苦労したか。親子ともども命の張合いの無いことだ。だが仏さん、いや大臼様のお考えが余りにもご立派すぎたためだろう。おかげで我が甲斐党も羽振りが極めて良かった事は認めよう。」

武宗

「それを言うなら、肥前の殿、あの熊公も酷かった。あんたも知ってるだろうよ、赤星殿の例の通りな。伝え聞いて良い気分になるものではない。仕え甲斐はなかった。」

親英

「隈部党だってその熊公との誼のおかげで勢いますます盛んとなったのではないかね・・・それが今やこのざま。つまり他国の力を当てにするのでは限界があるということだね。そして盟主にするには、もちろん他国の殿ではよくない。肥後の衆が持つ殿がおらねば。といって今や菊池殿の名すら懐かしい。隈部殿、小代殿、城殿、相良殿、名和殿、多少でも元気が残っている方々はこのくらいか。ふん、隈部殿も上手くやっていたようだが、かの目利きも関白殿下の前では役に立たなかったと見える。領地は三分の一ほど、削られてしまったのだったかな。」

武宗

「貫高勘定では、おおよそ半分とおっしゃってたよ。これは凄まじい損害だ。下手をしたら御隠居様の首もあぶない。」

親英

「それは悲惨だな。でも筑前の秋月殿、高橋殿などに比べればいくらかましでしょう。」

武宗

「ましなものか。御隠居様の落胆ぶりは見ていられないほどだ。お気の毒に。」

親英「まっこと、誠にお気の毒。すぐに降伏したというのにいいところがない。しかしそれではきっと、関白殿下に対して含むところが当然あるのでしょうなあ。」

武宗

「だとしても、どうしようもないと家中はみな諦めている。ご時世には逆らえんし。」

親英

「俺など、阿蘇は言うに及ばず山鹿でも球磨でも疎まれていて、主家は二つとも没落した。が、全く諦めていない。」

武宗

「それはあんたに学があるからだろうよ。躾てくれた見事なお父上を持った事を神仏に感謝するべきだな。」

親英

「長く生きた親父だったが、さらに長生きしてくれていればこんなみじめな事にはならなかったんだろうさ。しかしあんな無限の忍耐を強いられては、私は身が持たないだろう。」

武宗

「あんたのお父上は最後まで豊後のためにお働きだったが、あれはなぜかね?隈部党らと組んで薩摩に協力すれば、結果はまた違ったかもしれないのに。」

親英

「さてね、豊後の大殿は肥後の守護でもあるから、ただそれに従っていただけのように思えるね。戦や駆け引きは達者だったが、時世を読むことに長けていたとも思えん。結果として豊後が呼び寄せた関白殿下に旧領を安堵していただけたが、乗る馬が違っていれば、もっと出世ができたかもしれん。」

武宗「あんたそこまで言えれば立派だな。もう何も言うまいよ。ただ、宗運入道は寂心入道の後、この肥後で最も立派に振る舞われた御仁だったよ。みんなそう思っているさ。そしてあんたはその道を忠実になぞらなかったから評判が悪いのさ。」

親英

「あんたは私の知力が親父に好かれていなかった事を知らんのさ。そして甲斐党の後継者候補は他にもいたから、全てを率いる地位に就くには功績が必要だった。あの時点では薩摩のやり口にも不満を持つ者が多かったからいけると踏んだのだが、まあいろいろあって結局しくじってしまった。あんたには、私には親父の後を単純になぞることなど許されなかった、という事を忘れないでもらいたいね。」

武宗「ふーん、やはり当主はとっとと隠居して子に正当な地位を保証せねば、家は上手くいかんのか」

親英

「それは第一の条件、後は余計なことに口を挟まず任せる、というのも大切だ。豊後をみたまえ。酷いありさまだ。そして、関白の指揮下に入っても混乱は収拾されていない。そのまま身罷られた大殿の罪は深いぞ。子に無限の負債を残して戦線放棄したようなものだ。しかもその後継者の出来ときたら…。」

武宗

「それでは豊後殿は今後ますます頼りにはならんな。」

親英「頼むは薩摩殿しかいないでしょうな。余力を残したまま和睦できたのだから、勢いはまだ残している。肥後の衆にとっては、如何にそれを肥後国内に引き込むかだ。」

武宗

「しかし薩摩は征服地に厳しいぞ。相良党など征服の先兵に使われたではないか。義陽殿は修理大夫だったのにあの扱いだ。先の戦では、我らだってそう扱われた。功績をあげても島津縁故の連中に横取りされてしまってはたまらん。豊後殿の時代だってそんなことばかりだった。我ら肥後勢の働きも、あの道雪入道の功績にされてしまったことも結構あったらしいぜ。」

親英

「肥後には殿がいないのだからそれはしようがない。あきらめるしかあるまいさ。それでもより良い結果を残すための主問題は、誰が主導権を握るか、これさ。」

武宗

「あんた先ほどあきらめていない、とのたまっとったが、まさかそれがあんただっていうんじゃなかろうな。」

親英

「まさか、言わないよ。」

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