肥後国 問答 天正十二年(1584年)

天道の章 第1話 甲斐

天正十二年(1584年)、十月、肥後国御船城内にて。

甲斐宗運 御船城主、阿蘇家筆頭家老。七十代半ば

甲斐親英 宗運の子。阿蘇家家老、四十代半ば


 天正十二年(1584年)、十月、肥後国御船城。日の出の勢いの薩摩勢が肥後をも制圧する勢いの中、衰微著しい名門大友家と共同歩調を取る阿蘇家の筆頭家老甲斐宗運が流動する情勢の中で如何に身を処するべきか、老父として嫡男に語る。



宗運

「親英よ、聞いておきたい事がある。」

親英

「なんなりと。父上。いかなることについてですか?」

宗運

「我らが幼い大宮司様のご機嫌はいかがであったかな。」

親英

「ああ、よろしいご様子でしたよ。ここ一年で伯父御に続いて父君までも亡くなったというのに、笑顔あふれはつらつとして、誠に行く末が楽しみです。阿蘇家にそんなものがあればの話ですが。」

宗運

「大宮司様はまだ三歳。あと十年はのびのびと育ってもらいたいものだが、我らが道を誤らなければ、十年先くらいは大丈夫だろう。不肖ながらお前は甲斐家の嫡男。直に私が死ねば、益城郡の軍権は一時的にかもしれないが、お前が保つことになるだろう。」

親英

「それは甲斐家の棟梁として、ですか?」

宗運

「知っての通り、阿蘇家の家老としてさ。」

親英

「でしょうね。」

宗運

「まあそうなった時、大宮司様にご迷惑をおかけしないよう、今のうちに当家の在り方について整理をしておきたいのだ。なにか、不都合はあるかね。」

親英

「不都合ですって?父上、どうぞなんなりと。」

宗運

「私は大友家の支配が揺るぎえないこの肥後にて、大友家及び阿蘇家のため、調整役に徹してきた。これこそが我ら甲斐一門がこの国で成功した源だ。私が個人的に宗麟殿に誼を通じたのも、我ら一族の繁栄を願ってのことだし、それは同時に主家である阿蘇家の繁栄にもつながる事であった。宗麟殿からの信頼を勝ち得た事は、阿蘇家にも良い結果をもたらした。新参者だった我らがこの御船を四十年近く維持できたのも、宗麟殿の信望厚い我ら甲斐党に手を出そうものなら、豊後勢が黙ってはいない、という特殊事情を作ったからだ。この安定を得た一方であまり派手に紛争を起こす事はできなくなった。だから協調体制を維持する側に回った方が得だったのさ。しかしそれとて、感謝されて猫のひたい程の地を受けることもあり、主家に警戒を持たれないように扶持を増やすのは度胸より慎重さが肝心で、なかなか労力がかかるものだ。これをお前にくれてやろうというのだから、親英よ、お前は私にどれだけ感謝してもしすぎということはないよ。」

親英

「これは身に余る光栄ですな。父上から引き継ぐ苦労や所領について、一片も目減りさせることなく、子孫に引き継ぎたいものです。ですが、労力がかかるとは言い過ぎでしょう。例えば肥後北部のあの連中らを相手にして、なにもする必要はなかったのでは?長く肥後の方分たる志賀殿はきっと、なにもするなといいつけられてきたのでしょう。つまり父上も何もする必要はなかった、と私は思いますがね。」

宗運

「お前の言う通りだが何もしない、させないというのも苦労があるものだ。閉ざされた菊池の地の継承者たちは、外部からの指図を特に煩わしく思うものだ。だから内部での分をわきまえた自由な抗争を許せば、まあ仲良くやっていける。あと志賀殿は本当に無為の人だが、小原殿の謀反以後は、そのために比較的平穏だったとも言える。全ては予定調和、耳川で大敗を喫する以前の肥後であればな。」

親英

「時代が変わったんですか。」

宗運

「そう、大友が我が世の春を謳歌できた季は天正六年の大友家大敗を期に過ぎ去った。ということはその代理人として、調整役に徹してきた我らの存在意義の継続はありえない。隈部党も城党も、もはや大友方には戻りはしないし、赤星家は追放された。両筑豊後からの伝えを聞き及ぶを待たず、今の大友はひたすら狩られる側にある。無論、我らも同じで、そのために渡過瀬や響野原で戦が起こるのだ。いずれも我ら阿蘇勢は優秀にも勝利することができたが、孤軍である以上、いつまでも勝ち続けることはできん。そこで問うのだが、以後我ら甲斐党はいかに身を処し、所領を守るべきか?」

親英

「そうですね。甲斐党が支配するのは益城郡のみで島津の本軍と退治しても勝ち目はないでしょう。ならば主家を利用してうまく立ち回るか、勝ち馬に乗り換えるしかないでしょう。主家を利用する策ですが、当主が幼く、我らの意のままになりやすい今のうちに阿蘇勢の兵力全てをつぎ込みこの御船城を守る、もしくは攻勢に出て、例えば八代及び人吉を奪い、薩摩勢から良い条件を引き出せそうな時点で講和を行うというのが基本でしょう。一方、乗り換える方は、この益城郡の勢力を持って島津方となり、一転して浜の館を攻めるというのが常道です。」

宗運

「おい極端だな。しかも、どちらも責任回避の道だ。」

親英―

「どちらも危険を冒すのですから責任回避ではありませんよ。失敗すればどこかで詰め腹を負うのですから。ですが父上はどちらの策もお取り上げにはならんでしょう。」

宗運

「無論だな、と言いたいがそうでもない。」

親英

「御冗談でしょう。それでは父上は何のために我が弟たちを殺し追放したのか、わからんではありませんか。まるで一貫していない。」

宗運

「甲斐家のため、という絶対の大義の前には一貫している。お前は生かしておいたのがその証拠だよ。なにより人はそのうち必ず死ぬのだから、次善の道は必須だよ。違うかね。」

親英

「状況に置いて変わり得るという事ならば、我が弟たちは完全に犬死ですな。かわいそうに。」

宗運

「伊東家が崩壊した時に犬死が確定している。お前の哀れな弟たちが主家に反旗を翻した、あるいはその疑いが濃厚であったあの時、私が容赦なく処断を断行したことで阿蘇家の動揺は収まった。さらに言えば、引き続き筆頭家老として力を振い続ける事ができるのも、この残酷さのためだ。上に立つ者が、身内に甘い顔をすれば、下の者たちから軽蔑を買う。お前など甘ったれで今更遅いかもしれんが、私のやり方をよく見て、思い出すように。話を戻すが、お前の案は要するにこれまで通り大友方でいるか、島津方に寝返るか、という点が争われるわけだ。そこで大友方でいる場合、すでにあちこちで薩摩勢の調略で寝返り者がでているこの状況で、所領を守るためならともかく、耳川・島原の前例から帰還できる可能性の少ない薩摩勢との戦いについてくる武士は少ないだろう。では島津方に付く、もう一つの責任回避の道はどうか。相良殿のように命を失う事もあるけれども、上手くいけば島津家の外様として、家名は残るかもしれん。しかし、領地は削られるだろう。」

親英

「どちらが良いとは決められず、いずれ最善の道とは言えませんな。」

宗運

「ならば他の方法を検討するしかない。」

親英

「さきほど、勝ち続けることはできない、とのことでしたが、肥後の衆で協同すればいかがでしょうか。この危機にあって、現状維持を誓い合えば、失うものも少なくすむかもしれません。」

宗運

「我らや隈部党はそれでよいかもしれないが、各々が持った最盛の時代より所領を減らしている相良、名和、赤星等は薩摩勢に付くのではないかな。」

親英

「今はともかく協同できた場合、相良家が薩摩勢につきますか?私はそうは思わない。彼らにとって八代は執念の地、これを取り戻すべく必ず他国人を追い払うはず。」

宗運

「いずれにせよ、我らが肥後に置いて他国に対して協同する目的は所領の回復、という一点にしかない。他にはなんの大義名分もありはしないのだ。よって現状、比較的富裕な連合という事になるから、没落した連中は他国の走狗になるしかない。つまり、この状態では協同して事を為す事は極めて困難だという事だ。」

親英

「それならそれで、一部ではあっても一揆すること可能かもしれません。生き残った富裕者たちが協同して事に当たるという目標のために、我らが新たな調整役を務めることはできませんか。実はこの道が、私一押しの最善と信じるに足る方向なのです。」

宗運

「それをするには遅すぎたな。仮に協同できたとして、すでに薩摩勢は大隅、日向を平定し、肥後一国で対決することは不可能なほど強大になっている。では豊後、肥前と協同できるか、といえばこれまでの主従関係から彼らは決して許すまい。協同とは極めて対等に近い関係でないと成立しない。さらに言えば、島原で薩摩勢に敗北した佐嘉勢は、膝を屈する形で和睦に向かっているという話だ。強力な当主が戦場で倒れてしまったのでは仕方がないのだろうが、もはや彼らは豊後とは和睦できない。この状況下で、肥後の衆に協同をそそのかせば、それは調整ではなく煽動になる。煽動は警戒を招き、良い結果は期待できない。」

親英

「しかし、仮に、仮にですが肥後一国で結束できた場合、他国の攻撃に対して守り切る事はできませんか。」

宗運

「南に島津、北に龍造寺、東に大友が割拠している以上あまりに困難だ。理由はさっきも言った肥後の不統一と従属の歴史にある。そして、三方全て島津が抑えてしまえばもはや全ては不可能になる。」

親英

「なんだ、それではもう詰み、既に打つ手なしではありませんか。」

宗運

「だからこそ、頭を働かせるのだ。我ら一党だけではなく、肥後を含めて考えたお前の考えはこの際有益だと私は思う。そして肥後だけでなく、九州全域、中国四国、そして上方の事も含めて考えてみるのだ。このまま行けば、まず間違いなく薩摩勢が九州の覇権を握る。そうすると、中国の毛利、四国の長曾我部と外交関係が始まるだろう。今、上方の織田家は乱れているが、信長が死ぬまで毛利は織田の攻勢に防御一辺倒であった。もしもあの時、九州全体を掌握する勢力がいたとしたら、どうなっていただろうか。」

親英

「その勢力と織田家は協同して東西から毛利を攻め立てて、山陰山陽を山分けにしていたでしょう。遠交近攻というやつですな。」

宗運

「そうだ。織田は毛利を確実に攻めるため、大友と結び、島津に大友攻めを中止させていたくらいだからな。しかし、実際はそうはならずに信長の死を好機と、島津は大友攻めを始めた。これは織田信長主催で斡旋されたはずの島津家と大友家の和睦を一方的に破る行為だ。そして、私の知る限りは島津と毛利は特別な間柄には無いが、織田家の羽柴秀吉は毛利と和睦して家中の混乱に対処している。以後、この羽柴が織田家筆頭家老になり、織田勢は毛利勢とともに九州入りすることもあるかもしれない。いや、織田家の内乱に勝利した羽柴は必ずそうするだろう。」

親英

「確かに、和平を蔑ろにした島津家を織田家は罰するかもしれませんが、主催した織田信長は今や死に、その後継者は一時の無法と許すかもしれません。そうすれば、九州では島津の世が続くことになります。」

宗運

「いいや、あれほど強大な織田信長の後継者たらんとするものは、必ず先代の決定を遂行するだろう。そうでなければ、先代の名誉が守られず、後継者としては不適格という事になる。ましてこの件は武士の面子が掛っているものでもあるし。」

親英

「すると、父上の持つ結論が見えてきましたね。この期に及んでは、我ら一族の所領を守るためには大友氏を裏切らず、かといって深入りせず、上方の勢力が攻めあがってくるまでの間、島津氏と時間稼ぎの妥協点を見つけるのが最良、ということですね。これは大友氏の滅亡が前提でないのですね。」

宗運

「宗麟殿はそれだけでは終わるまい。弱者を追い詰めたり、追い詰められた他者を侮蔑し辱めるのはあの方の天分だ。きっと絶妙の時宜にて、それこそなりふり構わず上方の勢力を薩摩勢にぶつけるだろうさ。絶体絶命とはいえ、それだけの材料はまだある。」

親英

「私は大友家が滅んで、阿蘇家が生き残るという予想でしたが、あの引きこもりの病人に、まだ何かできるとでも?」

宗運

「あり得そうなのは、残る全分国を織田家に差し出す、だ。それこそ家臣団もつけてな。今の大友家にだって優れた家臣が全く居ないわけではないから、とりあえずは彼らの生活の保障も含めて、他国の軍を呼び寄せるにはこれが最も効果的だろう。引きこもりが動けば周囲は驚く。何をするものか、と。また、落ち目とはいえ比類なき名門を率いる御身だ。単身上洛して詫びを入れて織田の勢力を呼び込む事くらいわけないだろう。場合によっては、織田の九州入りは早まるという事もある。思い返せば、あの伊東義祐も、このやり方で大友家を日向に招き入れたのだ。」

親英

「それが大友家衰微の始まりになるとは、当時誰も思いもしなかったでしょうな。大友家があれほど惨めな大敗を喫するとは誰も。ということは、上方の軍も大敗を喫する、ということがあるかもしれないでしょう。」

宗運

「そう、だから島津家は初戦に全力を投入するはずだ。織田信長生前で、織田軍二十万余と言われたものだ。話半分としても十万余。さすがに島津家の兵数では戦いにならないだろうから。またそれほどの大軍を一度に動かすのは誰にとっても難しい。島津家はそれら織田軍団を個別に撃破する以外、勝機はないだろう。」

親英

「織田軍が攻め寄せたら、羽柴殿の歓心を買うため、呼応する者どもが増え、下手をすれば戦が長引き、我ら武者振りの良い者たちにとってはさしずめ繁忙期となりましょう。もっとも、大軍が押し寄せれば瞬時に決してしまうか。島津側と上方側、どちらもやっかいなものですな。」

宗運

「まだ数年先の事だ。よくよく見定めて行動するように。」

親英

「父上、私は父上の結論もあまり信じていないのですが、未だ織田家は混乱の最中にあり、羽柴殿は地盤固めに忙しく、西国まで出張ってくる余裕は無いのでは。仮に毛利と和睦ができたとしても、大軍を持って九州に上陸するためには、四国の長曾我部家と和睦するか、戦をするか、どちらにしても話をつけなければなりません。それこそ数年と言わず、かなりの時間がかかるのでは。」

宗運

「親英よ。かつて宗麟殿とて、あっという間に相続争いを収拾し、肥後に攻め入った事を忘れてはならない。忘れるな。戦争に勝利するという事は、相続権を確実なものにする一番手っ取り早い手段なのだ。あの折は、我らが肥後入りの水先案内人を買って出たが、同じことを宗麟殿もするかもしれない、という事は忘れず覚えておくように。今や羽柴殿は家中の競争相手を瞬く間に破り、勢いは天下を抑えている。強力な軍と権威の前では、戦あるいは和睦どちらにせよ、そう時間はかからないはずだ。」

親英

「であれば、我らにとって島津家との長期的な和睦は不要かつ有害ですね。特に羽柴殿と誼を通じるべきということになりましょう。」

宗運

「まあ結論を急ぐ事はないが、どう転ぶかわからぬのも確か。どちらとも繋がりを保つべきだろうが、宗麟殿の手前、目立って勝手な真似もできん。それとなく取り次いでくれる人物を探さねばならないな。」

親英

「それであれば、丹後の細川藤孝殿を置いて候補はありますまい。細川殿は才人として高名な方ですから、同じく高名な文化人たる木山紹宅殿に早速、都合付けを頼んでみましょう。木山殿は細川殿をよくご存じのはずですから。」

宗運

「そうだな。細川家はかつて菊池家が公方への取次として頼りにしていた家柄だ。彼らの名声のためにも、話くらいは聞いてくれるだろう。惟久殿を通せばなおさらな。で、お前はまだ、惟久殿に連歌を習っているのだろう。上達したか?」

親英

「ええ大分。発句で日々の健康を寿ぎ合うもはや日課のようなものです。それより惟久殿ではなく、号の紹宅殿とお呼びくださいよ。」

宗運

「私はお前の嗜みについてどうこうは言わないが、連歌を嗜んだ武士はあまり末路が良くないのだ。程々にすることだな。」

親英

「連歌会に同席し句を紡げば、各々の指向、趣味が分かり場を良くするためには相手を思いやることが大切になります。友情を深め、連帯感を増す事ができるのです。よって、友が危機の際は深入りしてしまい、どつぼに嵌るのでしょう。父上の言う事もわかるのですが、武士などというものはしたたかに世を歩んでいても、死ぬために生きているようなものですから、必ずしも連歌が好きだから終わりが良くないとは限らないでしょう。それに、このような結束は、阿蘇家一同渡過瀬で功を挙げたように、薩摩勢との戦いでも我らを利するでしょう。それにしてもです。父上が宗麟殿をあまり買っていないとは意外でした。先ほどいろいろと指摘されていた性格評、さすがは大友家との付き合いで苦労した下々の者の意見というところ。ご辛辣な父上らしく安心した次第です。」

宗運

「分かっていないね、お前も。別に嫌っていたり侮っているわけではなく、名門の出らしい良家の甘ったれだ、と言っているだけだよ。卑劣なる事、臆病なる事、傲慢なる事、外聞を軽視する事、欲深き事で宗麟殿と義統殿はよく似ているように見える。さすがに親子だ。」

親英

「彼らは似ていますか、親子だからといって似ているとは限らないのがこの世の習いですが。宗麟殿は父君とは不仲だった、ということは、義統殿もまた父君とは不仲なのでしょうな。そんな噂も聞こえています。」

宗運

「そのようだな。いささか不仲のいきさつは異なるのだろうが、この危機に際して、二階崩れの時と同じく、別々の近臣を持って動いている。故に、我らが心配するべきは、子たる義統殿が父の宗麟殿を討伐していまうことだ。切支丹宗門の本営である事は今の大友家にとっては泣き所である。これを生贄に家中の統一を取り戻す事ができるかもしれない、と義統殿の周囲は考えている。一方で宗麟殿は、切支丹が誇る結束の強さをもって、神風が吹くのを待っているのだろう。」

親英

「では、阿蘇家も、宗麟殿ご存名の限りは、特にそちらと誼を結ぶべきですね。しかし、身の安全を図るために宗麟殿は義統殿を押し込めたりはしないでしょうか。」

宗運

「しないさ。どんなに相性が悪くとも、親は我が子愛しいものだ。」

親英

「我が弟たちを殺しまくった父上が言うと、妙な心地がするものですな。」

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