第26話 トランプ大統領

 私の日課。それはシットコムを一時間観ること。


 シットコムというのはシチュエーション・コメディの略で、笑いを中心としたドラマ。以前はニュースを中心に観ていたのだが、ある日、アレックスに指摘されてしまった。


「オーノー、美緒。人々はニュースアンカーのようには話さない。生の英語を学びたかったら、シットコムを観るべきだ。なぜならシットコムは日常的な題材を扱っているから、日常会話の良い見本なんだ。早かったり聞き取りにくかったり、さらにスラングやイディオムも沢山出てきて、とても勉強になると思うよ。会社やセミナーで話す機会があるならアンカーの話術を学ぶのも良いが、美緒にまず必要なのは日常会話だろう? レッツ・チャレンジ」


 それ以来、苦行が続いている。登場人物たちの会話はほとんど聴き取れず、したがって笑いのポイントもわからない。笑えないコメディは辛い。


「ふー、今日もやっと終わった」


 やれやれとチャンネルを変えると、トランプ大統領のアップが映った。


「また失言でもしたかな?」


 画面を見ると、


「トランプ大統領の側近の〇〇氏が辞任を発表」


 というテロップが目に入った。


「あら……何人目?」


 思わず呟いた。すると瑞樹が答えた。


「二十三人目くらいかな? 正確にはわからないけど、このサイト(※1)によると、就任一年目で辞めたのは二十二人だってさ」


 瑞樹は書斎スペースでパソコンに向かっている最中だ。


「……大統領の側近って、全部で何人いるの?」


「六十四人」


「えー? 三分の一くらい辞めちゃったの?」


「そうなるね。同じサイトの情報だけど、トランプ政権一年目の離職率は三十四%。歴代政権の一年目の側近の離職率は、過去最も高かったレーガン(※2)政権が十七%。トランプ政権はその二倍だから、ダントツだな」


 パワフルな男・トランプ大統領は、側近の離職率でも圧倒的な強さを誇っているのだった。


 だが彼の政策は物議を醸すことが多く、最近では鉄鋼とアルミの追加関税が大きなニュースになっている。具体的には、鉄鋼とアルミを米国に輸入する場合、それぞれ25%と10%の追加的な関税をかけるというものだ。


「関税は経済にとって良くないんでしょ? 本に書いてあったよ。なぜトランプ大統領は敢えて関税をかけるの?」


「鉄鋼とアルミの国内生産業者を守って、次の選挙で支持を得るためだと思う。トランプ大統領はおそらく、関税をかければ貿易赤字が減ると思っているんだろう。経済学者は概ね反対だけどね」


「国内のごく一部――この場合は鉄鋼とアルミの生産業者――のためにはなるけど、他の人達にとっては不都合だ。輸入品に関税をかければ、国内での商品価格は高くなるから。だから米国人であっても、関税によって、これまでより高い鉄鋼・アルミ製品を買うことになる。それに、関税をかけることの大きな問題はまだある。Trade war(貿易戦争)だ」


「トランプ大統領は、『貿易戦争は良いことで、楽勝だ』ってツイートしたらしいよ」


「ああ、そうだね。でも、貿で、んだ。ゲームの理論、覚えてる?」


「うん」


「じゃあ、囚人のジレンマを使って、貿易戦争を説明していこう」



 瑞樹が、私が座っているソファに腰を下ろし、ノートにメモを書いていく。



 プレイヤー: A国、B国

 マトリックス: A国とB国がそれぞれ相手国から輸入する商品に追加的な関税をかける・かけない場合の利益


            B国

        かけない  かける

   

   かけない(4、4) (2,5)

 A国 

   かける (5、2) (3,3)




「マトリックスの説明をするよ。お互いに追加的な関税をかけない場合のA国とB国の利益は(4、4)、全体では8。逆にかける場合は(3,3)で全体は6。A国またはB国いずれかだけがかける場合は(5、2)または(2、5)で全体は7」


「この、いずれかだけが追加的な関税をかける場合の数字が5になっているのはどうして?」


「それは、追加的な関税をかけると、その商品の需要を下げる効果があるために、その商品の価格が下がり、かけた側の国は従来より安価にその商品を購入できるようになるから。ここで質問。A国にとって最適な手は、追加的な関税をかける・かけない、どっちだと思う?」


「えーと、マトリックスで見ると、Aにとって最適なのは『かける』。なぜなら、Bが追加的な関税をかけていなくても、かけていても、Aの利益はかけていないときよりかけている時の方が高いから」


「そう。そしてB国にとって最適な手も、追加的な関税を『かける』になる。だから、A国もB国もかけ合ってしまう。相手の取る手がどちらであっても。だからお互いに追加的な関税を「かける」のが均衡。表の右下(3.3)のところだ。そしてこれは囚人のジレンマの状況。前も話しただろ(※3)」


「うん。つまり、放っておくと二国が追加的な関税をかけ合う状態になるっていうこと?」


「そう」


「じゃあどうして、今はそうなってないの?」


「WTOがあるから。GATTの時代から、ラウンド(※4)と呼ばれる多国間貿易交渉を九回行ってきて、世界貿易において繰り返しゲーム的な状況を創り出しているからだ。ラウンドの成果によって、各国は互いに関税を引き下げてきた」


「その均衡を破るのが今回のトランプの政策。米国がA国だとすると、彼の取った手はマトリックス左下になる。だけど米国が追加的な関税をかければ、相手国も報復的に関税をかけることが想定される。そうすると均衡は、図表右下の『お互いに追加的な関税をかける』になり、これがいわゆる貿易戦争とよばれる状態だ」


「せっかく長い時間をかけて各国が協調体制を創り出してきたのに、トランプ大統領の一方的な政策によって、また囚人のジレンマの状況に戻ってしまうの?」


「このままだとそうなるね。特定の国を適用除外にすることを検討している様子もあるけど。いずれにしても、多国間の関係よりも二国間、二国間よりも一方的な措置を好むという、トランプ大統領の傾向をはっきり示した例だと思う」


 そうなのか。大統領に当選した時も驚いたけど、今回の政策もすごいな。世界はどうなっていくのだろう。


 ――――――――――――――――――


 ※1

https://www3.nhk.or.jp/news/special/45th_president/articles2/special/one-year-anniversary/index.html


 ※2 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%B3


 ※3

 第11話 囚人のジレンマ(ゲーム理論・その1)

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885096795/episodes/1177354054885266615


 ※4

 http://www.meti.go.jp/policy/trade_policy/wto/wto/doha/doha-round.index.html

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