第28話 ワトキンス先生
「瑞樹! 美緒! よく来たね、さあ入って」
出迎えてくれたワトキンス先生は、三ヶ月前に病院で会った時とは別人のように顔色が良くなっていた。体重も戻ってきたようだ。隣に立つ奥様のヴァネッサさんの笑顔を見ても、順調に回復しているのがわかる。二人とも六十代、来年で結婚四十年になるそうだ。
「さて、美緒。申し訳ないが瑞樹を少し借りて良いかな?」
「どうぞ」
私が答えると、先生と瑞樹は書斎に向かおうとする。その二人に声をかけたのがヴァネッサさん。
「昼食はお部屋にホットドックを準備してありますから、二人で食べてね」
「いつもすみません」
瑞樹が礼を言って笑った。
先生も瑞樹も、会えばすぐ研究の話がしたくてそわそわする。ヴァネッサさんと私が食卓にいれば気を遣って世間話もするが、二人とも、早く食事を切り上げたがっているのが見え見えだ。そんなわけで、四人で昼食のテーブルを囲んだのは、私が初めてこの家を訪れた時だけ。それ以降は、昼食は男二人・女二人で別々に食べる習慣になっている。
「さて。私たちはどうしましょうね? テラスで食べる? それともお天気がいいから、海岸でピクニックでもする? 帰りにお魚と野菜を買いましょうか」
先生の家はなだらかな丘の上にあるが、車で十五分も走れば海岸に出る。ヴァネッサさんと私は砂浜に敷いたブランケットの上で、ホットドックを食べ、アップルサイダーを飲んだ。アップルサイダーは暖かくて、スパイスの香りがしてとても美味しかった。レシピを教えてもらおう。
「ワトキンス先生、お元気になって良かったですね」
「ええ。ここまで回復するとは信じられない気持ちよ。一時期は、もうだめかと思った」
ヴァネッサさんの声が震えた。
「――さて、あんまり長居しても海風で冷えちゃうわね。夕食の材料を買って、帰りましょう」
その日の夕食はバーベキューだった。裏庭に設置したグリルで焼いてくれるのは、ワトキンス先生。トングを手に張り切るその姿は「どこにでもいる初老のおじさん」という風情で、華々しい業績を持つ一流経済学者には見えない。
「子供が小さかった頃は、毎年ハロウィンでグリルマスターとして大活躍したものだよ。ハロウィンは学校を上げての大イベントで、お化け屋敷の他、食べ物の屋台やバザーでPTAはお金を稼ぐんだ。稼いだお金は学校の運営資金になる仕組みでね。私の焼くパテ(ハンバーガーの中身)は大好評だったよ」
確かに先生のパテは美味しい。炭火で焼いたパテは、外側に適度な焦げ目がカリッと付いている。それをパンに挟み、ピクルスとケチャップ少々。大きな口を開けて齧ると、肉汁が溢れ出る。
そして今日のメインは、海岸近くのマーケットで調達した新鮮なロブスター。殻を剥き、ふっくりした身をバターソースにつけて食べる。
美味しすぎる。
手土産に持参したムルソーと一緒に味わう。相性ばっちり。
「このワインすごく美味しいわ。ありがとう」
ヴァネッサさんも嬉しそう。
「瑞樹は美緒に経済学の話をすることがあるんだって?」
グリルに、アルミホイルの小さな包みを四つ置きながら、ワトキンス先生がいたずらっぽい笑顔を浮かべて私に訊いた。
「はい」
「わかりやすいかい?」
「えーとそうですね……」
「わかりやすいだろ?」
横から瑞樹。
「どんな話が印象に残っている?」
「ゲーム理論かな。現実の世界に応用できるケースが多いとわかって、興味深いと思いました」
「なるほど。偉大な理論というのは、わかってしまえば当たり前のことだ」
ん? 何か話が飛躍した気がするけど……先生は偉大な学者だから、きっと深い言葉なのだろう。あとで瑞樹に訊いてみよう。
ワトキンス先生が続ける。
「美緒、経済学の定義は『限りあるものをどう使うか』なんだ。そして経済やお金の話だけではなく、時間や資源の使い方を考えることもできる応用範囲の広い学問なんだよ。だけど制約があるもの、限りがあるということを研究対象として考えているから、『全てがばら色』という研究結果になることはない。あっちを立てればこっちが立たず、みたいなところがある」
「そういう制約のある中での学問の面白みは?」
「そうだなあ。それが人生だから、かな。経済という事象についてだけでなく、人間や、さらにいえば人生への洞察も深めていくことができることろが、経済学の魅力だ。そうだろ? 瑞樹」
「ええ、そうですね」
「あなた、そろそろデザートできたんじゃない?」
「ん? そうだな。みんな、お皿出して」
先生は私たちのお皿に、さっきのアルミホイルの包みを一つずつのせてくれた。中に入っているのは、グラハムクラッカーでチョコレートとマシュマロをサンドしたもの。グリルにのせてあったから、チョコレートとマシュマロは溶けている。ガツンとくる甘さがコーヒーとよく合う。楽しいディナーだった。
その日私たちは先生のお宅に泊まり、翌朝、ニューヨークに戻った。
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