第29話 咲ちゃん&アレックスとの夕べ

 金曜日の午後六時半。


 咲ちゃんがソファに座って、『赤い妖怪』という日本アニメを観ている。英語吹き替え版。

 咲ちゃんの両親は小学校の先生との面談に出かけていて、その後に保護者だけの飲み会なので、咲ちゃんはうちで夕食とお風呂まで済ませる予定だ。


 咲ちゃんの横にはアレックス。カナダ旅行のお土産を届けに立ち寄ってくれ、ついでに夕食も食べていくことになった。好奇心旺盛な彼は、テレビを観ながらしきりに咲ちゃんに質問している。画面には給食を配るシーンが映っている。


「日本の小学校ではランチ、教室で食べるのかい?」 


「うん、そうだよ。アメリカと違って、小学校にはカフェテリアがないの」


「あの白い服を着てランチを準備してるのは、調理師?」


「違うよ、小学生だよ。給食は自分たちで配るの」


 咲ちゃんが通う小学校では、カフェテリアで給食または持参したお弁当どちらか好きな方を食べているそうだ。給食はビュッフェのような形式で、大人が手伝っているらしい。


 テレビ画面が教室の風景に切り替わる。


「机が綺麗に並んでいて、ミラクルだ」


「うん、びしっとしてるでしょ」


「オーマイ。一日中あそこに座っているのは窮屈じゃないか?」


「そうだね。お水を飲めるのは休み時間だけだし。私、アメリカ方式に慣れちゃったから、帰国したら心配だなあ。でも、みんな上履きに履き替えるから校内は清潔で、いいところも沢山あるんだよ」


 咲ちゃんによると、彼女が通う小学校の座席の並びはグループごとに向かい合わせで、教室の床には二、三カ所ラグが敷いてある。一日の中で、机に座ったり、ラグに座ったりして授業を受けるそうだ。お水は水筒持参で、飲むタイミングは自由。



「ご飯できたよ」


 声をかけると、咲ちゃんとアレックス、そして瑞樹が食卓に集まった。今日のメニューは「日本のカレー」。近所のスーパーに日本のカレールーが売っているのだ。


「美味しいねー。カレー大好き! そういえばうちのお父さんとお母さん、瑞樹先生にについて訊こうかなって言ってたよ。って何?」


「カワセ?」


 怪訝に思ったアレックスが口を挟み、瑞樹が説明する。


「英語だとexchange rate。意味は、国と国のお金を交換するときの比率。裕都先生と華恵先生が気にしてるのは、円とドルのことかな」


「そうそう! 『円高が』とか、『ドルに換えるタイミングが』とか言ってたよ。お父さんとお母さんのお給料は、日本の大学からもらってるんだ。それは日本の銀行に入って、たまにアメリカの銀行に移してるの」


「なるほど。じゃあきっと、お金を移すタイミングを考えてるんだね。円をドルで評価する価値は、常に動いているんだ。例えば、今1ドルが100円だったとしても、一か月後には1ドルが110円になったりする」


「そうしたら、1ドルが100円の時に交換した方が得だね? 100円で1ドルが買えるってことだもんね。瑞樹先生、いつまで待てば一番お得?」


「それはわからないんだ。為替レートの変化は、為替の専門家でも予測が難しい」


「そうなの?」


 咲ちゃんは不思議そうな顔だ。


「俺の勘では、次にトランプ大統領が何か衝撃的な発言をしたタイミングがいいと思うね」


 元・シルバーマンサックスのアレックスが意見を述べる。


「なぜなら、彼の言動でドルが下ることが多いから。あとは、いくらまで下がったら交換すると決めておくとかさ。完璧を期さず、ある程度のところで手を打つのがいい」


「ふーん、そうなんだ。わかった。アレックス、アドバイスありがと」


 そう言って、咲ちゃんはカレーの最後の一口を食べ終えた。



 咲ちゃんがお風呂に入っている間、大人は食後酒の時間。早速、アレックスのお土産のアイスワイン(※1)を開けてみる。濃いブルーの細いボトルが美しい。


「カナダ産のワインなんて、意外だろ? 五大湖周辺で作られているんだよ。先週末、祖母の家に遊びに行ったついでに買ってきたんだ。ところで瑞樹。さっきの為替レートの話だけど、日本のGDPは、円ベースでは2011年頃から増加傾向だけど、ドルベースだと減少傾向から抜け出せていないだろう。このことについてどう考えている?」


「そうだな。俺と美緒の生活には、実はあまり関係ないんだ。こっちの大学からドルで給料をもらっているから。日本にある資産は、預金が少しと美緒の国債くらいだし。日本国民について言えば、所得の多くをドルで支出する家計にとっては、ドルベースのGDPが減っていくのは問題だろうね」


「あとは、各家計は直接的または間接的にドル建ての物を買っているけれど、その比率が少ない家計にとっては、実際の購買力はほとんど影響を受けない。逆に沢山買う家計は、購買力が下がる。つまり、ドル建て支出の多い少ないによってGDPをドルベースで考えることの有用性は変わる、かな」


「別の論点として、いくつかの国の豊かさを比較するときに市場レートで換算することが適切とも思えない。国や地域によって物価は異なるけれど、その違いは市場で決まる為替レートに反映されていないことがある」


「え? そうなの? じゃあ国の豊かさは何を使って比較すればいいの?」


「購買力平価。この方が、市場レートよりも各国の豊かさを比較するときの換算レートとして、よりふさわしい」


「購買力平価って何?」


「それは俺が説明しよう」


「え? アレックス知ってるの?」


「購買力平価とは、両国の物価水準を考慮した為替レートのこと。例えば、同じような食事でも市場レートで換算すると東京よりニューヨークの方が高くなる。もしそれが東京で2000円、NYで25ドルであれば、2000円と25ドルは同じ購買力を持つので、両地域の豊かさを所得で比較するときには、1ドル80円という購買力平価を使うのが良い、というように」


「……ごめん、わからなくなっちゃった」


 GDPの話になったあたりから私の理解は追いついていない。


「まあ美緒は、GDPが円ベースとドルベースでは見え方が異なる、っていうことだけわかっていればいいと思うよ」


 瑞樹がお変わりのワインを注ぎながら言った。


「えー? 購買力平価については?」


 もうちょっと詳しく教えて、と言おうと思ったその時、バスルームのドアが開く音がした。


「気持ち良かったー」


 頬を上気させた咲ちゃんが出てきた。


「あっ、咲ちゃんお疲れ様。何か飲む? 麦茶でいい?」


「うん! ありがとう」


 私は食卓を離れ、咲ちゃんの麦茶を準備しにキッチンに向かった。今日の話は難しかったな。


 ―――――――――――――


 ※1

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3#%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3

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