第30話 買い物へ

 月曜朝は食材の買い出しに行く。

 エレベーターでアパートのロビーに降り、ドアマンに挨拶。道路に出て、横断歩道を渡る。靴屋、ベーカリー、書店、カフェ、デリなど、 立ち並ぶお店のウィンドウを眺めながら、どんどん歩く。


 この通りには、沢山の人が行き交っている。コーヒーや食べ物を手にしている人が多い。米国人の食べ歩きは、ちょっとした見ものだ。リンゴやバナナは当たり前で、紙皿に乗ったピザをかじったり、デリで買ったサラダやランチボックスをフォークでつつきながら歩いている人もいる。今、私の隣で信号を待っている綺麗な女性はスプーンを忙しなく動かして、スープを食べている。


 スーパーまでの一キロほどの間に、ホームレスが何人かいる。椅子に座って物乞いをしている人、寝袋に入って道路に横たわったままの人。ニューヨーカー達は彼らの存在に慣れていて、さして気にすることもなく通り過ぎてゆく。


 ホームレスが私たちの日常に踏み込んでくる瞬間。それは彼らが、地下鉄の車両で物乞いをするときだ。瑞樹と一緒にワールド・トレードセンター・トランスポーテーション・ハブ(※1)を見に行った帰り、ある駅で一人の男性が乗ってきた。身なりはひどく、歩行はおぼつかない。その彼が、自分の窮状を訴えながら車両内をよろよろと進んでいく。私は目を伏せた。瑞樹も。車両内のほとんどの人も。


「米国は貧富の差が大きいっていうけど、どのくらいなのかな」


 その日、帰宅後にビールを飲みながら瑞樹に訊いてみた。


「ジニ係数は0.4くらいだと思う」


「ジニ係数?」


「所得等の不平等の指標の一つ。0に近いほど格差が小さく、1に近いほど格差が大きいことを示す」


「0.4って高い?」


 瑞樹はビールを持ったままデスクに行き、パソコンを少し操作すると、グラフを表示させた。内閣府が公開しているデータだ(※2)。


「このグラフによると、OECD加盟国平均が約0.3、ラテンアメリカのいくつかの国が0.5前後。北欧諸国は概ね0.2~0.3の間。だから0.4の米国は、比較的ジニ係数が高いと言える」


「日本は……0.3より少し上くらいなんだね。OECD加盟国平均より高いね」


「うん。2009年の数字だから現状と少し異なるかも知れないけど」


 私は更にページをスクロールしてみた。


「あれ? 日本の相対的貧困率が高い(※3)。そもそも相対的貧困率ってなに?」


 グラフを見ると、日本の相対的貧困率は、OECDに加盟している先進国の中で米国に次ぐ高さだった。


「相対的貧困率とは、可処分所得が中央値の半分未満の人の割合(※4)。その資料にも書いてある通り、高齢者が多いせいもあるけど、貧困層が拡大してきているからだ。中間層の衰退も原因としてあげられているな。一億総中流だったのは、過去のことになりつつある」


「そうなんだ……格差は世代間で引き継がれやすいって言われているし、そうなると社会に閉塞感が出るよね。どうやったら、この問題を解決できるの?」


「社会の流動性を高める必要がある。流動性が高ければ、現在所得が低い状況に置かれている人でも、将来自分が――または自分の子どもの所得が――増える可能性があるから。特に子どもについては、彼らが自分の能力を伸ばせるように教育で支援することが重要だ」



 そんな話をしたことを思い出しつつ、スーパーに到着した。パンケーキミックス、冷凍餃子、卵、牛乳、ヨーグルト。キュウリ、セロリ、マッシュルーム、千切りキャベツ、ケール、バナナ、果肉がピンク色のオレンジ、チョコレートムースを次々にカゴに入れていく。


 このムースはとても濃厚で美味しくて、パッケージには「ベルギーのムース」と書いてある。ベルギーのチョコレート輸出は盛んなのだろうか。帰宅したら調べてみよう。興味深いデータが見つかったら、瑞樹にも話してみよう。



 帰り道、少し遠回りして公園に寄った。雑踏から逃れて気持ちのいい空気が吸いたくなったのだ。枯れた芝生のあちこちにクロッカスの蕾が顔を出している。黄色、白、そして紫。ニューヨークに春がやってくる。


(完)


--------------

 ※1

駅と小売店の複合施設。サンティアゴ・カラトラバ設計。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E9%A7%85_(%E3%83%91%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%B3)


 ※2

『日本の格差に関する現状』みずほ総合研究所 常務執行役員 チーフエコノミスト 高田 創氏の発表資料 スライド8参照

 内閣府HP 第17回 税制調査会(2015年8月28日)資料一覧より

 http://www.cao.go.jp/zei-cho/gijiroku/zeicho/2015/__icsFiles/afieldfile/2015/08/27/27zen17kai7.pdf


 ※3

 同上 スライド10


 ※4

 同上

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る