第7話 感謝の気持ち

 家計簿を確認したところ、今月はややピンチ。ワインを買いすぎた。


 こういう時に登場するのが鶏の丸焼きで、5ポンド(約2.3キロ)で10ドル。一度焼けば、三食分はストックができる。

 ちなみに米国は度量衡がすべて日本と違い、混乱する。いつまでたっても慣れない。


「旨いよなー、これ」


 綺麗に盛り付けた鶏肉と野菜を前に、瑞樹はご満悦だ。

 香ばしく焼けたそれらは旨味が凝縮されていて、鶏の油を吸ったジャガイモが特に美味しい。この部屋に備え付けの大きなオーブンのおかげだ。


「美緒、料理いつもありがとう」


「どういたしまして」


 瑞樹はよく「ありがとう」と言い、日々、私の家事に対するモチベーションを高めてくれる。理屈っぽいところもあるが、素直で優しい夫なのだ。


 あらかた食べ終えた私は、テレビのスイッチを入れた。ニュースで英語の聞き取りを練習するために。画面には、いかにも政府のお役人という風情の男性が映っていて、GDPがなんとかかんとか、と話していた。


「……GDPって何だっけ?」


「国内総生産」


「国内総生産って?」


「一定期間に国内で生み出された付加価値の総額」


「……付加価値って?」


「この場合の付加価値は、ごく単純に言うと『モノ・サービスを売って得た収入から、材料費などの価値を引いたもの』。例えば、鶏の丸焼きをデリで買うとしよう。その場合、デリで付けた価格から材料費などのコストを引いたものが、GDPとなる。例えば価格が15ドル、材料費などのコストが合計で10ドルだったらGDPは?」


「5ドル」


「そう」


「さっき私が作った丸焼きは? GDPには入らないの?」


「入らない。家庭内労働も生産活動であることに変わりはないけど、市場を通じて売買されないから」


「ふうん。市場がなくても、GDPに入れてくれればいいのに」


「簡単な方法があるよ。美緒が他の主婦と交換で家事をして、お互いにその代金を支払えばいい」


「?」


「例えば、美緒が隣のホセさんの家で、和食を作る。ホセさんの奥さんのガブリエラさんがうちに来て、メキシコ料理を作る。それでお互いに労働の対価として5ドルずつ支払えば、それはGDPに計上される」


「自宅で料理するとGDPに入らないのに、隣の家でするとGDPに入るの?」


だけじゃなくて、がポイント。今の話で言いたかったことは二つ。一つ目は、家庭内労働を金銭評価したいのであれば、取引によって価値をはっきりさせること。二つ目は、今の話からも分かる通り、GDPの概念は不完全なもので改善の余地があること」


「さらに言うと、今のGDPは、経済活動の指標という要素が強い。でも、市場がない家庭労働などをGDPに加えれば、人々の幸せや豊かさの指標に近づくと考えられる。その場合は、家庭内労働をプラスし、公害や環境破壊はマイナスにすると、より人々の幸せを図るのにふさわしい指標になると思う」


「公害と環境破壊も、GDPで評価されていないの?」


「されてないよ」


 そうなのか。



 夕食後、リビングでアロマキャンドルに火をつけた。室内に鶏肉の匂いが残っていたからで、それは調理中に換気扇を回せないのが原因だ。このアパートには、換気扇が付いていない。以前は一軒家の三階部分を間借りしていたが、そこにもなかった。


「アメリカ人って、換気扇がなくても気にならないんだね?」


「うん」


「オーブンは、ほとんどの部屋に付いているのにね」


「うん」


 瑞樹はソファで文献を読み始めていて、返事は上の空だった。



 私は廊下に出て、寝室のドアを開けた。ここにも匂いは入り込んでいて、ジャスミンの香りのキャンドルを灯す。


「瑞樹」


 リビングにいる瑞樹に、声をかける。


「寝室で三十分ぐらい、本を読んでるね。キャンドル点けてるから、一応見てる」


 備え付けの本棚を眺め、黒い表紙に金字でタイトルが箔押ししてある一冊を手に取った。レターサイズのこの本は、瑞樹の博士論文だ。


(久しぶりだな)


 すべて英語と数式で書かれており意味不明だが、一ページだけ、私が理解できる箇所がある。冒頭部分にある「謝辞」がそれで、瑞樹はそのページだけ日本語訳を付けて、論文のコピーと一緒に私にくれた。博士号を取った直後のことだから、もう三年も前になるのか。


 謝辞には、瑞樹からごく親しい人達への感謝の気持ちが綴られている。


「あの時は結婚を申し込む直前だったし、公私とも色々あった時期だったから、つい感傷的になって書きすぎた」


 この論文の話になると、瑞樹は決まってそう言う。確かにそうだろう。他人が読むかもしれないものにここまでのことは、私なら書けない。照れくさい。


 だからこそ、この博士論文は私の宝物だ。私はベッドにゆったり座って、いつものページを開いた。


 ――――――――――――――――――――


 謝辞


 本論文を作成するにあたり、ご指導頂いたA.D.ワトキンス教授に感謝いたします。


 また、長年に渡り良き友人であり、僕の研究に忌憚ない意見をくれた宮本君に感謝します。


 そして、経済面で研究を支えてくれた両親に感謝します。それと同時に、家業を継ぐ、という母の期待に応えられそうにないことを、大変申し訳なく思います。いつか和解できる日が来ることを祈っています。


 最後に、美緒に。


 この博士論文は四本の論文で構成されており、二本目までは快調でした。それが、三本目はなかなか完成できなかった。帰国し、仕事と研究の両方をやっていることが原因だろう、と自分に言い訳をする日々が続いていました。

 そんな時に出会ったのが美緒で、たまに話すのが良い気分転換になったのか、また調子が戻ってきました。おかげで何とか三本目が完成し、四本目に至っては、これまでになく楽しく研究に取り組めました。


 おそらく美緒は気付いていないと思いますが、今日はつばめに行こう、毎日五時になったら美緒に会える、土曜日は一緒に過ごせる(とはいっても、僕は一緒にいる時間もほとんど研究ばかりしていましたが)、などの小さな楽しみが僕の日常に変化をもたらし、モチベーションを上げました。


 もちろん、快調だった四本目にも越えるべき山はいくつもあり、その度に僕はストレスを感じました。そんなときも美緒は、いつも通りそばにいてくれ、僕の支えとなってくれました。


 この論文を、そして研究者を志すことを諦めずに済んだのは、美緒のおかげです。どうもありがとう。


 心から感謝します。


 橘瑞樹

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