第6話 ニューヨークフィルの公開リハーサル

 今、私たちはリンカーンセンター(※1)のディヴィッド・ゲフィン・ホールで、ニューヨークフィルの開演を待っている。午前九時五十分。本公演ではなくて、公開リハーサルだ。


 あまり知られていないが、公開リハーサルでは本公演と同じプログラムを格安で――現在は22ドル――聴くことができる。必ず通しで演奏するとは限らず、中断や、ソリストが登場しないこともあるらしいのだが、幸いなことに私達はまだ、そのような事態には遭遇していない。これまでの流れだと、通しで演奏し、指揮者と演奏者で気になる部分を確認して短く区切って弾き直す、という流れだった。


 客席で待っていると、普段着の楽団員が徐々にステージ上に集まり、それぞれ楽器を奏で始める。いつもは正装の彼らが、かなりカジュアルな服装なのが新鮮だ。


 隣の席の瑞樹を見ると、いつものように文献を読んでいた。


「何、それ?」


「比較優位の論文。授業のネタに使おうかと。江戸時代に鎖国を止めて開国した後に、貿易が日本のGDPにどのような影響を与えたかを分析してある(※2)」


「この間の『貿易するのは良いことだ』みたいな話の続き?」


「そう。鎖国の前後で状況が劇的に変わったから、比較優位について、理論だけでなく実際の社会で観測できた珍しい事例」


「著者は日本人?」


「それが違うんだよ。多分、アメリカ人。2005年にAER(※3)という専門誌に掲載された。当時の日本人研究者は『やられた』と思ったんじゃない? 気付きさえすれば、日本人にも書けただろうから」


 その時、会場から拍手が起こった。壇上を見ると指揮者が出てきたところで、間もなくリハーサルの開始だ。一瞬の静寂。そして、音楽が始まった。



 一時間ほど演奏したところで、休憩が入る。


「瑞樹、席、移りたい?」


「うん。バルコニーに行ってみよう」


 公開リハーサルは自由席で空いているので、その時の気分で色々な席を試せるのも魅力だ。前半はオーケストラに近い席で聴いたが、打楽器の音が思ったよりも大きく響いた。


 ステージを右上から見下ろすバルコニー席に落ち着くと、私はさっきの話の続きを訊いてみた。


「ねえ、他に外国人が書いた論文で、日本についての有名なものはある?」


「俺の知ってる範囲では、相撲の八百長についての論文。計量経済学。『七勝七敗の力士が、千秋楽で、既に勝ち越しを決めている対戦相手と当たった場合の勝率は、異常に高い』という結果を出した(※4)。これもAERに載った」


「……お相撲さんの八百長の何がそんなに重要なの?」


「その論文のタイトルには”corruption”という単語が使われていて、相撲で言えば『八百長』だけど、広い意味では『不正』。汚職や賄賂など。不正があると良くないっていうのは、わかるよね?」


「うん、わかる」


「でも、不正は古今東西で行われているにもかかわらず、隠れて行われる活動だから、研究はしづらい。正確なデータを入手しにくく、分析対象とするのは難しい。ところが相撲の場合は、データがほぼ完ぺきに揃っている。さらに取組制度は明確だし、インセンティブ構造(=給与体系)もすごくはっきりしている。だから分析しやすい。良い分析対象であり、データの質もいい」


「だから論文にすることに意義があるの?」


「『日本のような不正の少ない社会で、かつ長い歴史と伝統を持つ相撲で八百長が存在するのであれば、世界のどこにでもこういった不正があるでしょう』、と推測できる。だから重要な問題提起だ。汚職があると市場の効率性などを損ねて全体的な結果が良くなくなるのは確かだから」


「不正は基本的にない方がいい。だけど根絶できない。相撲の研究だけで不正についてすべてわかるとか、不正が世の中からなくなるということじゃないけれど、こういう一つ一つの状況を積み重ねて理解していくことは大事。この論文の意義はそういうところだと思う」


「……わかった気がする」


「まあ、目の付け所が良かったのが何よりだけどね。面白いもんな、『七勝七敗で迎えた千秋楽で八百長がすごい』っていう分析結果は」



 正午過ぎ、リハーサルが終わり、私たちは街に出た。平日の市内は、休日とは違った活気が満ちている。


 気軽なお店でピザとコーラの昼食をとりながら、会話は続く。


「瑞樹も日本についての論文、書けば? 最近書いてるの、ヨーロッパについてでしょ。そもそも何でヨーロッパなわけ?」


「詳細なデータを公開している政府があって、それを使って研究すると、質のいい研究ができるから。さっきの相撲の例もそうだけど、いいデータがあれば、それだけ正確な分析ができる。日本政府のデータは残念ながら、それほど質が良くない」


「ふうん。でも日本人なのに」


「ええとね、研究者としては、面白い分析結果を出して、論文にまとめたいんだ。そうすれば一流紙に掲載される可能性が高まるし、それは自分の評価、さらに収入増につながることさえあるから。日本を対象にしても革新的な研究はしづらい。だから今、日本経済を研究したがる若手はほとんどいない」


「えー。なんか残念」


「仕方ないよ――ピザ美味しかった?」


「うん。ほとんど自炊だからね。他人に作ってもらったものは何でも美味しい」


 ほんとそうなのだ。ジャンクなピザでさえ、ご馳走だ。


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 ※1 マンハッタンにある総合芸術施設。ニューヨークフィルハーモニーの他、メトロポリタンオペラ、ニューヨーク・シティ・バレエなどの本拠地。


 ※2 Aerican Economic Reviewのこと。経済学において最も権威ある雑誌の一つ。


 ※3 Daniel M. Bernhofen and John C. Brown, ”An Empirical Assessment of the Comparative Advantage Gains from Trade: Evidence from. Japan.” American Economic Review, 95(1) (2005): 208-225.


 ※4 M. Duggan and S. Levitt, “Winning Isn't Everything: Corruption in Sumo Wrestling,” American Economic Review 92(5) (2002): 1594–605.


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