第5話 ピアノとラップ
瑞樹はセロリが好きだ。独特の清涼感と、水分の多さが良いのだと言う。行きつけのスーパーでは二十本で二百円くらい、東京と比べると破格の安さだ。
「お弁当にも入れて」
以前ねだられてから、瑞樹のランチはサンドイッチとセロリになった。サンドイッチの具材はバターとハム。毎日同じ。
「研究中は余計なこと考えたくないし、食べすぎると眠くなる」
というのが理由だ。
朝食を準備する私の横でコーヒーを淹れながら、瑞樹が訊いた。
「咲ちゃんのピアノ発表会、何時だっけ?」
咲ちゃん、というのは、同じアパートに住んでいる小学三年生。家族ぐるみのお付き合いだ。
「三時から。ミッドタウンで」
「じゃあ、二時半に待ち合わせでいい? 現地集合で」
「いいよ」
今日は土曜だが、瑞樹は研究室に行く。論文の修正で忙しいのだ。待ち合わせの時間まで、私はミッドタウンで用事を済ませよう。ミッドタウンはマンハッタンの中心部、にぎやかなエリアだ。
まず行った場所は、ニューヨーク公共図書館の日本語図書コーナー。でも今日は面白そうな本はなくて、借りなかった。ここに来なくてもネットで予約して自宅近くの分館で受け取れるので、焦る必要はない。
次に記伊国屋書店、さらにBooks1/3に立ち寄り、しばし漫画を立ち読みする。UNIKROと有印良品で衣料品と日用雑貨を買い、遅い昼食にうどんを食べ、一息ついて花束を買い、発表会の会場に向かった。
会場はピアノ店だった。通りからガラス張りの店内が見える。やわらかな照明に照らされて、美しいピアノが程よい間隔で三十台ほど置かれていた。
「美緒」
既に店内にいた瑞樹が、私に気付いてドアを開けてくれた。
「すごいね、ここ」
「うん」
店内を見て回ると、どのピアノにも製造年と価格を記した札が置かれていた。一番古いピアノは一八〇〇年代の製造。木目の模様を生かした茶色のピアノ、凝った彫模様を施したものなどがあり、見飽きない。まるでピアノの博物館だ。
リサイタル用のホールは店の奥にあった。中にはパイプ椅子が並べられ、ほぼ満席。演奏する子供たちは、最前列に座っておしゃべりしながら開演を待っている。
「瑞樹先生、美緒さん」
声のした方を見ると、咲ちゃんの両親――華恵先生と裕都先生が立っていて、私達に会釈した。彼らは、瑞樹と同じ大学に研究留学中の医師だ。
「咲子はピアノ、好きじゃないんですよ」
開演を待っている間、裕都先生が唐突に話し出した。
「毎日練習させるのが大変で。本人もやめたいと言うし、どうしたものか。でもせっかく六年も続けてきたのに……」
今度は華恵先生。
そういえば咲ちゃん、私に「ピアノ嫌い」と言っていた。
やがて演奏が始まり、いよいよ咲ちゃんの番になった。お辞儀をした咲ちゃんの顔は、こわばっている。目が合う。
(頑張って、咲ちゃん!)
私は心の中で声援を送りながら、拍手した。
「咲ちゃんのピアノ、下手だったなあ」
帰宅後、キッチンでビールを飲みながら瑞樹が言った。私は夕食の準備中で、セロリを千切りしているところ。
「そんな言い方、かわいそう」
「でも美緒もそう思っただろ」
「……」
咲ちゃんの名誉のために沈黙を貫いたが、実際、演奏はひどかった。リズム感がないのが致命的で、この先続けても大して進歩しないだろう。でも。
「三歳からずっと習ってるんだよ。せっかく頑張ってきたのに、やめるのは勿体ないんじゃない?」
「華恵先生もそう言ってたけどさ。それは続ける理由としてはダメ。こういう場合、過去の投資――ピアノを買ったお金、月謝、それに練習に費やした時間と労力――を判断材料にしてはいけない」
「……経済学に当てはまる概念があるの?」
「ある。マンキューの『経済学の十大原理』の三つ目」
「つまり?」
「『投資を継続するかどうかの決定は、限界的な変化で考える』」
「『限界的な変化』って何?」
「『一定期間のコストと利益』。咲ちゃんのピアノであれば、コストは月謝・練習の労力と時間。利益は上達度」
「要するに?」
「裕都先生と華恵先生が、咲ちゃんにピアノを続けさせるかどうか検討する場合は、これまで投資したコストで十分な利益が得られたかどうかで判断すべきってこと。投資したコストの量――これまでかかった月謝、さらに練習の労力と時間――で決めてはいけない。さらに補足すると、すでに投資したコストは『サンクコスト』とよばれ、日本語では『埋没費用』」
「じゃあ、止めるのが正解?」
「咲ちゃん一家の発言を総合すると、そうなるね。明らかに、これまで投資したコストに見合う利益は得られていない。六年やってあれじゃ……」
「そんなに簡単に割り切れるものかしら」
「割り切れないよ。だから判断を誤ることは多いし、この概念の持つ意味が大きいんだ。よくあるのは、企業の新規事業で投資した分のコストに見合う利益が出ない場合に、サンクコストを惜しんで撤退の判断が遅れるケース」
「咲ちゃんのピアノは、続ける方向で考えられないの?」
「華恵先生と裕都先生が、『もしこのままピアノを続けさせれば、ある時ぐっと上達するかもしれない』と期待すると仮定してだけど。その場合は、判断を先延ばしにすることも一つの手段だ。注意が必要なのは、『楽観的な見込みでだらだら続けてしまう』という判断ミスが起こりがちなこと」
「じゃあどうしたら?」
「判断基準をきちんと作ったうえで続けるのがいい。咲ちゃんの場合は、例えば一か月後に月謝に見合った上達がみられるか、とか、半年後に投資した月謝に見合う上達があったか、などだね。習い事は階段状に上達する場合もあるから、期間は長めに設定してもいいかもね。わかった?」
「なんとなく。瑞樹、華恵先生と裕都先生に教えてあげれば? 二人とも頭がいいから、私よりずっと理解できると思うよ?」
「無理。よその家の教育方針に口出しはできません」
「ところでマンキューって、昔の人?」
この間教えてもらった『比較優位のリカード』は、一七七二年生まれだった。
「昔じゃない。まだ六十歳。二十九歳でハーバードの教授になった秀才だよ」
「さっきの原理……なんだっけ」
「経済学の十大原理」
「そう、それ。瑞樹、全部言える?」
「当たり前だろ。でも自分で読んで。本、貸してあげる。マンキューはブログやってるから、彼に興味があるなら読んでみれば。リンク(※1)を送ってあげる。それより、お腹空いた。ご飯食べよう」
夕食は、サーモンのグリル、セロリのきんぴら、レトルトの味噌汁にした。
セロリのきんぴらは東京の和食店で覚えた味で、細切りにしたベーコンと薄切りのセロリをごま油で炒め、砂糖と醤油で味を調える。セロリがびっくりするほど食べやすくなる。
厚切りのサーモンは脂がのっていて、この二つのおかずでご飯が進んだ。その結果、瑞樹も私も食べすぎた。
夜、私はベッドで眠い目をこすりながら、マンキューのブログにアクセスした。
ふむふむなるほど。あれ、“PRINCIPLES OF ECONOMICS”、ここにも載ってる? Rap Version? ラップ?
クリックすると、もろにラップだった。
”Yo!”で始まった。目が覚めた。
瑞樹が隣で笑った。
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※1
http://gregmankiw.blogspot.com/2007/12/principles-of-economics-rap-version.html
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