第4話 バレンタインデー
スーパーに一歩足を踏み入れると、そこは花園だった――そうか、今日はバレンタインデーだ。
いつもはバナナが大量に置かれている棚、アボカドとキュウリが山積みされているはずの陳列台、エレベーター脇の人目に付く場所などに、花売り場が拡大されていた。目を引くのは赤やピンクのバラ、紫・白・黄色・赤のチューリップの花束。他にも黄色が鮮やかな水仙、ヒヤシンスの鉢植え、小ぶりな蘭など、様々な種類の花が溢れていた。
それにしても、バナナはどこに行ったんだろう。店内を一周したが、見当たらない。そのまま食べたりパンケーキに入れたり、大事な食材なのに。ちなみに五本で百円くらいだ。どうしよう。他のお店で買おうか。
考えていると、スマホが鳴った。瑞樹だ
「美緒、今日の夕食、外で食べる? 近所のラーメン屋、気にしてただろ」
何かのイベントの時には、瑞樹は気を遣ってくれる。優しいのだ。
「うん。じゃあ行ってみたい」
ニューヨークでは日本食が相変わらず人気で、市内にはラーメンはもちろん、高級寿司、定食の大斗屋、さらに居酒屋まである。怪しげな和食店も見かけるが、このラーメン屋は日本人の経営だと聞いているし、前を通りかかるといつも混んでいるから期待できそうだ。
ラーメン屋(というよりはレストランなのだが)の店内には、カップルが多かった。傍らに、花束やプレゼントらしきものを置いている客が目立つ。こちらのバレンタインは、男性から女性に花などをプレゼントするか、男女で贈り合うかだ。チョコレートにする人もいるだろうが、選択肢の一つに過ぎない。そして、ホワイトデーはない。
メニューにはラーメンの他に、蕎麦、丼もの、そしてカレーがあった。ポークカツカレー……見たら無性に食べたくなった。
出されたカレーは、見た目は普通だが、カツが薄くて硬かった。そして脂身がほとんどないのが残念。ジューシーな日本のとんかつが懐かしい。私はしんみりし、隣にいる瑞樹に話しかけた。
「期待しすぎたかも。醤油ラーメンは?」
「美味しいよ。絡まってるけど」
瑞樹が箸を動かすと、麺がごっそり持ち上がった。どうやって茹でたらこんなふうになるのかな。
「チャーシュー、分厚いね」
角煮のようなチャーシューが二切れ、麺の上に鎮座している。瑞樹がひと切れ、分けてくれた。
「……これすごく美味しい。ご飯にのせて食べたい」
脂たっぷり、トロトロだ。そして懐かしい甘さ。
「メニューに角煮丼、あったよ」
それだったか! このラーメン屋で食べるべきメニューは。
二人で二十八ドルにチップを足して、三十五ドル。ラーメンとカレーでこの価格はもやっとするが、仕方がない。日本食は高いのだ。ラーメンは自分で作れるようにしよう。
帰宅途中にあるデリの店先で、花を買うことにした。
このエリアには食べ物を中心に扱う小売店が沢山あって、その多くで切り花も売っている。花束がデリの外壁に沿って沢山並べられ、風情のある街並みに華やかな色彩を添える。
選んだのは薄紫のバラ。シックだ。二十四本で二十ドル。
「お花、東京よりずっと安いよね」
ラーメンの価格は東京の倍近くだが、切り花は逆に半額くらい。
「経済の仕組みがちゃんと働いているから」
「そうなの?」
「南米――特にコロンビアからバラを安価に輸入できるようになって、価格が下がった。二国間で貿易をする場合、それぞれが比較優位を持つ財を輸出すれば、双方にとって良い結果をもたらす好例だ」
「よくわからない」
「簡単に言うと、『自国では得意なもののみ生産して、不得意なものは他国からの輸入に頼った方が、自国も他国も潤ってみんなが幸せ』ってこと」
「得意・不得意はどうやって決めるの?」
「『機会費用』という概念があって、それで決まる」
「それは何?」
「経済学で最も重要な概念のうちの一つ。『あるもの・ことを選んだ時に、犠牲にした他のもの・こと』」
「バラの例で言えば、米国でパラを1万本作る場合に必要な資源で、別の製品――例えば車――を1台作れるとする。そうするとバラ1万本の機会費用は、車1台」
「貿易相手国で車とバラの機会費用がこの比率を超えなければ――コロンビアで車を1台作るのに必要な資源でバラが1万本より多く作れるのならば――相互に一つの生産物・製品に特化して貿易した方がいい(注1)。それはつまり、米国は車に、コロンビアはバラに比較優位を持っているということ」
「米国が車に特化したら、米国でそれまでバラを作っていた農家さんは? 車、作らされるの?」
「現実はそこまで極端じゃない。でも、いずれバラが売れなくなって、何か付加価値を付けない限りは、廃業の恐れが高まる」
「えー。頑張ってきたのに、かわいそう」
「確かに、廃業の恐れが高まるのは残念な側面。でも、バラを安く買えるという利益はすべての消費者に及ぶ。輸入競争にさらされる生産者を守るよりは、その生産者が比較優位を持つ商品を生産できるように転業・転職を助ける方が、より良い経済社会を構築できる」
「簡単にまとめると、貿易は自由に行わせ、需要と供給のバランスで決まる市場価格の変動に任せておけば、自ずと自国が何を生産して何を輸入すべきか、決まるはずなんだ」
「もっとも、十九世紀初めにリカードが比較優位の概念を紹介してから今まで、この概念はずっと経済学の教科書で取り上げられている。それは、人々が直感的にこの理論に違和感を覚えやすいからだ。正しいことは証明済みだけど」
「じゃあ、東京の花が高いのは、貿易が自由じゃないから?」
「わからない。もしかしたら、海外の花を輸入する場合に、高めの関税をかけているのかも。国内の生産者を守るために」
瑞樹がやや険しい表情になった。多くの経済学者がそうであるように、瑞樹も関税反対派だからだ。
だが帰宅後に調べてみると、日本は切り花に関税をかけていなかった。
「……とすると、なぜだろう。検疫が大変とか書いてあった?」
「見当たらなかったけど」
「そうなると、何が原因で東京の――多分日本全国そうなんだろうけど――花が高いのか、俺にはわからない。表面化していない特殊な事情があるのかも」
なぜだろう。
シャワーを浴びてベッドに入っても、まだ私は気になっていた。
「美緒、もう寝よ」
「……」
東京とアメリカで売っている花の違い……。
「美緒」
瑞樹が枕元の電気スタンドを消して、私に覆いかぶさってきた。
今日の瑞樹は、夕食後も私に付き合ってゆったり過ごし、リラックスしている様子だった。求めてくるだろうと思っていた。ああ、でも気になる……もしや。
「多品種少量だから?」
「え? なに?」
「東京のお花。お店が小さいわりに、随分多くの種類を少しずつ、売ってるよね? もしかしてそれが原因」
そこまで言ったところで、キスで口をふさがれた。
「わからない。もうその話はおしまい。こっちに集中して」
バレンタインの夜のお楽しみは、これからだ。
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注1
コロンビアでは、バラを1万本作るのに必要な資源で車は0.5台しか作れないとすると、コロンビアでは車で測ったバラの機会費用はアメリカより低く、バラをアメリカに輸出した方が良い。ちなみに、もしコロンビアでバラ1万本を作るのに必要な資源で車が2台も作れるのであれば、コロンビアではバラの機会費用は高く、車を輸出した方が良い。
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