第3話 半裸とパジャマ

 NYのアッパーウェストサイド。

 小学校の入口前で待っていると、入り口から咲ちゃんのクラスが出てきた。担任の先生を先頭に、子どもたちの列が後ろに続く。


「美緒さん!」


 私に気付いた咲ちゃんが、列から飛び出してきた。艶々した黒髪のボブにボリュームのある前髪が、日本人らしくてかわいい。

 私は咲ちゃんと手を繋ぎ、一緒に先生にご挨拶をした。お迎えなしでは下校できないルールが徹底されている。日本と違って、一人で出歩く小学生は皆無だ。


 だから咲ちゃんのご両親のどちらも都合がつかないときは、私がピンチヒッターとしてお迎えに来る、というわけだ。


「今日暖かいよね」

「うん」

「コートとブーツ、暑いくらい」

「そうだね」


 三月には珍しく、気温は十八度。


「公園に寄って帰ろうよ」


 咲ちゃんの小学校はセントラルパークのすぐそばにある。

 公園といってもスケールは大きく、マンハッタンの中央部分、南北×東西が約四キロ×一キロの面積。起伏のある土地にゆるやかな曲線を描く小路が張り巡らされ、木が茂り、広大な芝生や池に加えて野球場やテニスコート、野外劇場、セレブなレストランまであって、森であり一台レクリエーション施設でもある。そして、野鳥とリスとラクーン(たぶん、タヌキ)沢山生息している。カラスはいない。


 私たちは、リスを眺めるのが好きだ。いつものように、芝生を見渡すベンチに座り、リスが地面からドングリを掘り出すのを観察する。


「ふさふさの尻尾、かわいいよねえ」


 咲ちゃんがため息をつく。

 そう、このあたりのリスは、日本にいるのとは種類が違う。正式な種類は知らないが、「グレイ」と呼ばれているようだ。キョトンとした顔に豊かな灰色の毛、白いお腹、短い足に大きな尻尾。全体的にぽってりした感じだ。


「触ってみたいけどね」


 彼らは人間と絶妙な距離を取り、絶対に触らせてくれない。


 その時、咲ちゃんと私の前をジョギング中の男性が通り過ぎた。


「短パンしかはいてないよ、なんかエッチ」


 咲ちゃん、多分それは「エッチ」ではなくて「セクシー」って表現する方が適切だと思うよ。まだ知らないんだね。


 それはさておき、上半身裸で走る男性は意外と多い。公園内は人気のジョギングコースなので、しばしば見かける。冬の間はさすがにいなかったが今日は久々の陽気だから、「待ってました」とばかりに、あちこちにパンツ一丁の男性が走っている。


「うわ、美緒さん、戻ってきたよ」


 通り過ぎたさっきの男性が、こっちに向かって歩いてくる。


 あれ、見慣れた顔だ。


「美緒!」


 私が声をかけるより早く、アレックスが手を振った。引き締まった筋肉が美しい。ハイスペックな男・アレックスは、身体のメンテも怠らない。


「似てるなと思ったら、やっぱり。美緒、何してるんだ?」

「リスを見てるの」

「その子は?」

「同じアパートに住んでる咲ちゃん」

「やあ、咲ちゃん。僕はアレックス」

「こんにちは。咲子です」

 二人は握手した。

「英語上手だね。いつからアメリカにいるの?」

「一年前」


 咲ちゃんの英語力は、在米三年目の私をはるかに上回っている。噂には聞いていたが、子どもは英語を覚えるのが本当に早い。スラングだってお手の物だし、黒人やヒスパニックの話す鉛のある英語まで理解できるのだから、驚きだ。


「ところで知ってるかい、咲ちゃん。この公園のリスは、もとは野生じゃないんだよ」

 アレックスお得意の蘊蓄が始まった。

「えっ、そうなの!?」

「うん。一八七七年に放された何匹かのリスが、六年後には千五百匹に増えた」

「へー。ところでアレックス、何で上半身裸なの?」

「気持ちいいから」

 そうなのか。でも見せびらかしたい気持ちもあるんじゃない? 彫刻みたいだよ、あなたの筋肉。


「アレックス、かっこよかったね」

「うん」

「でも瑞樹先生の方が素敵」


 咲ちゃんの両親は極めて礼儀正しい人たちで、家族そろって私の夫に「先生」を付けて呼んでくれる。先ちゃんの母親と父親はそれぞれ、研究留学中の皮膚科医と眼科医。私達も敬意をこめて、「華恵先生」「裕都先生」と呼んでいる。


「裕都先生もハンサムだと思うよ」


「そうかなー。瑞樹先生みたいに、背が高かったらいいけど。あと、最近ちょっとお腹出てきたんだよね。まだ三十三歳なのに。早くない?」




 私の部屋に着くと、咲ちゃんがブーツを脱いだ。これまで隠れて見えなかったが、薄ピンクに白い水玉のズボンが出てくる。


「あれ? いつもジーンズ化レギンスなのに、珍しいね? 」


 生地が薄くてパジャマみたいだ。


「うふふ」


 先ちゃんがコートも脱ぐ。あれれ? ふわっとしたトップスもズボンと同じ生地だ。


「パジャマだよ」


「ええー⁉ 咲ちゃん、それで学校行ってきたの?」


「うん。PJsデーだったんだ。PJsってパジャマのことだよ。初めてだから、ワクワクしちゃった。朝起きて着替えなしでそのまま。楽! でもスリッパ忘れたんだよねえ。友達にきかれた。『何で咲はスリッパ持ってこなかったの? パジャマとセットなんだよ』って。知らないよねえ、そんなこと」


「パジャマで授業ウケたの?」


「まさか。授業はないよ。普段頑張ったご褒美の日だもん。みんなで映画観て、持ち寄ったお菓子を食べて、ごろごろして過ごした」


 咲ちゃんはリビングの絨毯に座ると、リュックのファスナーを開け、さかさまにした。いつもは水筒とスナックしか入っていないリュック(文房具は学校に置いてあって共用。教科書はない。お昼は給食かお弁当を各自がその日の気分などで選ぶ)から、お菓子が山ほど出てきた。


「食べよ!」


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「で、お腹がいっぱいで夕食が入らないと」


 テーブルの向かいに座る瑞樹が、スプーンを手に取った。


「そう。甘いもの食べすぎて胸やけもする。ごめんね、手抜きで」


 一人分だと思うと凝ったものを作る気がせず、卵とターキーの鶏ひき肉、冷蔵庫にあった野菜を沢山いれたチャーハンにした。


「まあ、今日も楽しかったようで良かったよ」


「ありがと。瑞樹はどうだった?」


「……論文がリジェクトされた」


 表情が曇る。


「完全にだめ?」


 そうなるとランクの落ちる雑誌に投稿しなおしで、瑞樹が大嫌いな作業だ。


「いや。『直せば載せてやらなくもない』って感じかな」


 少しは見込みあり、か。


 一度完成させた論文は、瑞樹の中では「もう終わったこと」になっているのを私は知っている。既に他の論文を書き始めていて、「今さら修正は面倒。やりたくない」というのが本心だろう。でも業績を作らなくてはならないから、直さざるをえない。大学で終身雇用の身分を得るために。


 講義をしながら研究の手は抜けず、時には専門誌の編集者からリジェクトされ、若手研究者の生活はストレス満載だ。

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