第8話 ダイエット
最近私が気になっているもの。それはパンツのゴムにのっかるお腹の脂肪。前はこんなの、なかったのに。
朝食の席で、瑞樹に告白してみた。
「私、太った」
「そうだよね」
瑞樹はヨーグルトを食べながら、ふっと笑った。
「何で笑うの」
「今頃気付いたのかなって。見てればわかるし。それに美緒、ワイン買いすぎて食費がピンチって言ってただろ。ワインに合わせてチーズの消費も増えてるみたいだし」
図星だ。
近所に素晴らしい品揃えのチーズショップを発見し、週一回通うのが私の楽しみになっていた。そして、夕食を準備しながらのチーズとワインがここ数か月の習慣に。一番好きなのは、ゴーダチーズとヴィーノ・ヴェルデの組み合わせ。
(ヴィーノ・ヴェルデとは、直訳すると「緑のワイン」。ポルトガル産で、完熟前のブドウで造られるフレッシュなワイン。アルコール度数低めの微発泡で爽やか。非常に飲みやすい)
日本でナチュラルチーズを買うと高いが、米国では安く、種類が豊富で美味しい。しかも米国産だけでなく、海外産もいい感じなのだ。瑞樹の解説によると、関税率(※1)の違いが消費者に与える影響の好例だ。
米国では、全般的にチーズに課される関税が安いので、海外産の良質なチーズが日本と比べて安価に輸入される。すると国内製品との競争が促進され、国内産のチーズの品質と価格がバランスのとれたものとなる。日本ではこの逆の現象が起こっているらしい。
それはともかく、お腹のぜい肉を何とかしなくては。私は意を決し、宣言した。
「ダイエットする」
「いいね。じゃあ、体重計を買おう」
うちには体重計がない。瑞樹は大学のジムに通っているのでそこで計るし、私は年一回の健康診断で見れば十分だと思っていたからだ。
その日の夜、瑞樹が体重計を買って帰り、私は恐る恐る乗ってみた。半年前より、4キロも増えている。事態は深刻だ。まさかチーズの関税率の低さが私の体重に悪影響を及ぼすとは。
目標は二カ月で4キロ減。瑞樹にも宣言し、かくして私のダイエットが始まった。
ダイエット一週目。
ワインの量を半分に、主食の炭水化物も半分にした。ところがこれは逆効果で、物足りなさからの間食が増えた。日中一人で家にいると、どうしてもおやつを食べてしまう。一回一回は少量のおやつも積み重なれば……。
体重は、まさかの0.1キロ増。自分の意志の弱さが恨めしい。
ダイエット二週目。
食卓からお肉を追放した。代わりに並ぶのは豆腐。瑞樹は豆腐が好きなので、嫌がらずに付き合ってくれた。
ところで、アメリカ人は豆腐の硬さにこだわりがあるようだ。行きつけのスーパーでは、硬さ別にregular, firm, extra firm, super firm の四段階の豆腐が売っている。豆腐の「硬さ」は “firm”なのだ。 肉の代わりだから、super firmを選んでみた。さらに肉気分を味わうため、焼き肉のタレをかけてみたら意外においしかった。
体重は、0.3キロ減。
ダイエット三週目。
初日の朝、瑞樹が出勤準備をしながら私に訊いた。
「美緒、どうなった? 体重の減りは」
「……二週間で0.2キロ」
「このペースだと、二カ月で約1キロだね。目標の四分の一」
「まだあと一カ月半残ってるから大丈夫。減らせる。自信ある」
「美緒はさ、何でも先延ばしにしがちだよね。そういう人は、厳格な締切を設定した方がいい。それに、その『減らせる』っていうのは、自信じゃなくて過信じゃないか? 人が経済的意思決定で犯す典型的な間違いのうちの一つだ」
おっしゃる通りだ。自制心の強い瑞樹と違い、私はゆるい女……。
「じゃあ、どうしたらいいの」
「目標設定をより短期間に変える。二カ月で4キロじゃなくて、一週間で0.5キロにする」
「それは、また何かの経済理論?」
「うん。行動経済学者のダン・アリエリー(※2)の実験結果の応用」
「あとは、食べたものを全部と、体重を一日一回計って記録する。レコーディング・ダイエット(※3)だっけ? 日本で流行ってただろ」
「めんどくさい」
「でも、そうすることによって美緒の意識がダイエットに向かうから、効果はあると思う。さらに、記録を俺に見せる」
「えー」
すごく困る、それは。昼食にピザその他、ジャンクなものを食べてだらしなく過ごしているのがバレてしまう。
「じゃあ、来週までに0.5キロ落ちなかったら、俺に見せること。無理強いはしないけど、もし見せなかったら、美緒はきっと太ったままだよ」
「……」
珍しく辛辣な言葉を残し、瑞樹は颯爽と出勤していった。
こうしてダイエットは、第三週目に突入した。
(一週間で0.5キロか。これまでの自己最高記録に挑まなくてはならないのね)
私は昼食の冷凍ピザを前に、ため息をついた。このピザは冷凍食品でありながら、イタリアからの直輸入。グリル野菜とチーズがたっぷりのって、オーブンで温め直すとそれはもう絶品だ。ワインとチーズに加え、このピザも太った原因の一つだろう。仕方ない、今日でしばらくお別れだ。
翌日から私の昼食は、瑞樹と同じサンドイッチとセロリになった。夕方、空腹を感じておやつに手を出す時間帯には、三十分ほど散歩に出て、気を紛らわせることにした。
するとどうだろう。ダイエット第三週の三日目にして早くも0.3キロ減を達成したではないか。一週間で0.5キロ減という短期目標は、私に早期の対応を促し、効き目があった。これならワインとチーズは諦めずに、二カ月で四キロ減を達成できそうだ。やった!
――――――――――――――――
※1 輸入品にかける税。
米国の関税率(乳製品は0406)
https://hts.usitc.gov/?query=cheese
日本の関税率(乳製品は04.06)
http://www.customs.go.jp/tariff/2018_1/data/j_04.htm
細分化されており一概には言えないが、乳製品への税率は概ね、米国の約10%に対して日本は約30%。
※2 Dan Ariely (1967-). 米国の心理学者、行動経済学者。有名な著書に『予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』(早川書房, 2008年)がある。上記で参考にした実験結果は、同著掲載のもの。
※3 『いつまでもデブと思うなよ』(新潮社、2007年)にて、岡田斗司夫氏が紹介したダイエット方法。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます