第9話 ある土曜日(その1)
メトロポリタンオペラは、ニューヨークにある素敵なものの一つだ。
初めて「カルメン」を観た時、私は感動した。何度でも観たいと思った。しかし瑞樹は、上演時間のほとんどを居眠りしていた。しかも悪びれもせず、こう言ってのけた。
「冗長すぎる。演技が大げさだし、知ってる歌以外はつまらない」
仕方ない、二回目のオペラは一人で行こう――そう思っていた矢先に知り合ったのが由布子さんで、以来私たちは、月一回、土曜日のマチネ(※1)を一緒に観劇している。ほっそりして綺麗な由布子さんに何とか釣り合うために、私はいつもよりお洒落して出かける。それがまた楽しい。
「やっぱりいいわぁ、トゥーランドット」
終演後、カフェでカプチーノを飲みながら、由布子さんがため息をつく。
「そうですね。ストーリーは荒唐無稽ですけど、豪華絢爛でいいですよね。ネッサン・ドルマはアリアの名曲ですし」
プッチーニはわかりやすくて、私も大好きだ。
「それにしても、私たちの夫、遅いわね」
由布子さんが腕時計を見る。午後六時。オペラが終わって一時間が経っている。待ち合わせの時間は五時半だった。
「また二人で研究に夢中になってるんじゃないですか?」
由布子さんの夫は静川先生といって、隣りの州の大学に所属している。瑞樹と同じく経済学者で、大学院から米国なのも同じだ。ずっとこちらの大学で教えていて、年齢は四十三歳。既に教授。
ちなみに同じ経済学でも、静川先生の専門分野は瑞樹と異なる。瑞樹は国際経済学で、静川先生は金融経済学。
その二人が最近、共同で論文を書いている。学会でたまたま話す機会があり、意気投合したのが発端だ。やり取りは主にメールなのだが、たまに直接会って話した方が良いからと、ここ数か月は月一回のペースでニューヨークに来ている。
車で二時間ほどの距離なので、由布子さんも同乗して来て、私と一緒にオペラを観たり、お茶したりと、親交を深めている。
「あっ、メール来ましたよ」
瑞樹からで、「あと三時間かかる。ご飯食べて待っていて」とあった。それで私は、由布子さんを自宅に連れ帰った。
キッチンでワインを開け、チーズとプレッツェルをつまみながらおしゃべり再開。
「由布子さん、最近どうですか? 直哉君が家を出て、寂しくないですか?」
「全然! 久々の自由を満喫中。直哉も大学で楽しくやってるみたいだし、子育て終了ねー。過ぎてしまえばあっという間だったわ。二十五の時に産んだから、ほんと、早かった」
そういうものなのか。私はまだ、入口にすら立っていない。
「美緒さん、このチーズとワイン、美味しいわね」
「やっぱりそう思います? この組み合わせのせいで私、太ったんですよ。今やっと、ダイエットに成功したところです」
「そういえば! この間会った時より顔の輪郭がすっきりしたわね!」
「ありがとうございます。ところで、しめはどうします? お蕎麦でいいですか?」
私の問いかけに、由布子さんがにっこり微笑んだ。
「美味しかった! ご馳走様でした」
テーブルの向かいに座った由布子さんが、ぺこりと頭を下げた。
「そんな。ありあわせで恐縮です」
お蕎麦の具は、鶏の丸焼きの残りとチャイブのみじん切り。冷蔵庫にあったもので何とか間に合わせた。
「ところでワトキンス先生は、体調回復されてるんですってね。となると来年あたり、橘先生はジョブマーケット(※3)に出るのかしら」
「そうなると思います」
瑞樹の今のポジションは、大御所・ワトキンス先生の代理でしかなく、テニュア(※4)はない。次の転職はテニュアが取れるポジションを狙うことになるだろう。
「橘先生なら大丈夫って、うちの夫が言ってたわ。去年雑誌に載った論文で、すごくいいのが一本あるって。とても多く引用されている(※4)んですって?」
「そうですか? 引用件数のことは聞いていないんですけれど」
「できれば、ニューヨーク周辺の大学がいいわねえ。せっかくお友達になれたのに、離れるのは寂しいわ」
「はい。私も同じです」
本当にそう思う。夫同士は夢中になって仲良く研究に勤しんでいるし、妻の私達も気が合う。こういうことって、滅多にない気がする。
静川先生と瑞樹が戻ってきたのは、九時過ぎだった。
「遅くなってすみませんでした。妻が夕食をご馳走になったそうで、ありがとうございました」
静川先生が丁寧に頭を下げるので、私もそのようにした。
「いえいえ。こちらこそ、夫が遅くまでお世話になってありがとうございました」
「美緒、今日は楽しかった?」
瑞樹がベッドに入ってきた。
「楽しかったよ。瑞樹は?」
私は読みかけの本を閉じた。
「うん、すごく。いい論文が仕上がりそうだ」
「また専門誌に投稿するの?」
「もちろん」
瑞樹は満足そうな笑みを浮かべた。
別々に過ごしたが、お互いに充実した良い土曜日だった。
―――――――――――――――――
※1 午後一時頃からの昼公演。
※2 要するに、職探しのこと。
※3 終身雇用の身分。
※4 他の研究者の論文で参照されること。引用が多いと、目立っている証拠。必ずしも良い論文というわけではないが。
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