第10話 ある土曜日(その2)
「今日、大学で日本人の研究者に会った。『今度拙宅で食事でも』って誘われたけど、どうする?」
帰宅直後の瑞樹が、私に訊いた。
「どんな人?」
「剛田さんといって、金融経済学の先生。日本の大学で教えていて、四十代かな。うちの大学で一年限定で研究中。奥さんと二人で来てるって」
金融経済学か。静川先生と同じだな。
「瑞樹がいいなら、いいよ」
海外で日本人、特に同業者に会うと、「一緒に食事でも」という流れになることは多い。こちらで暮らすともてなしもこちら方式になるのか、配偶者同伴で自宅に招いて・招かれて、が一セットになることが多く、一度会うと二回目がある仕組みだ。
じゃあメールで返事をしておくよ、と瑞樹が書斎スペースに引っ込んだのが八時半。九時過ぎには返信が来て、二日後の土曜日に私達は、剛田先生のお宅を訪問することになった。
剛田先生の奥様は華代さんといい、名前の通りとても華やかで、よく話す人だった。日本ではアパレルメーカーの広報担当で、剛田先生の研究留学のために休職して帯同したそうだ。
華代さんの料理の腕は抜群で、食卓には、太巻き寿司(太巻きの中に花などの綺麗な模様が!)、お吸い物をはじめとして、凝った和食が並んだ。
当日知ったのだが、剛田夫妻と瑞樹は同じ大学出身だった。そのせいで、華代さんは何かというと母校の話題を出してくる。瑞樹は学部までしか日本にいなかったので帰属意識は薄いのだが、それでも大学時代の話を振られれば答える。一時間経つころには、私はすっかり退屈してしまった。
「ところで橘先生は、何か投資ってされてます?」
華代さんから瑞樹に、久々に大学ネタ以外の質問が振られた。
「特に何も」
そう、瑞樹は投資に興味がない。でも私は、実は少しある。その証拠に――
「私は国債、持ってます」
何気なく発した一言だったが、三人の視線が私に集まった。
「美緒、国債持ってるの? 日本のだよね?」
瑞樹は意外そうな表情だ。
「うん。結婚する前に何となく買ってそのまま――」
「それはいけませんな!」
私が話し終わらないうちに、剛田先生が割って入った。先生の細い目が鋭く光ったのを私は見逃さなかった。
「美緒さん。国債は暴落する危険性が高いですよ!」
ええっ? そんな話、聞いてないけど。私は固まってしまった。華代さんはそんな私を一瞥してため息をついた。
(何も知らないのね、あなた。経済学者の妻、失格よ)――とでも言いたげに。
ここから先は剛田先生の独壇場となり、国債から始まって内閣批判、日本経済の危機、さらには世界経済にまで話は広がっていった。
剛田先生はたまに、「橘先生はどう思われますか?」と訊いたが、瑞樹は「僕は金融やマクロは専門外なのでよくわかりません」と答えるだけ(瑞樹は話を早く終わらせたい時、よくこういう言い方をする)。そうすると剛田先生は、「私が教えてやらなくては」と思うのか、さらに説明に熱が入るのだった。
(華代さん、止めて下さいよ。あなたの夫はしゃべりすぎ!)
私は心の中で叫んだが、華代さんは、夫である剛田先生の話に心酔しているご様子。苦手だ、この夫婦。私達がようやく解放されたのは、十一時だった。
「はー、疲れちゃった。お料理はおいしかったけど」
帰宅すると私は、ベッドに身を投げ出した。瑞樹も私の横に寝転がった。
「俺も。うちに招待するの、めんどくさいな。美緒ごめんね、あそこまでよく喋る夫婦だと思わなくて」
「いいよ、瑞樹のせいじゃないし。それにしても、国債って暴落するの?」
私が訊くと、瑞樹がこちらを向いた。
「どうだろうね。可能性は常にあるけど。あそこまで断言できるのはすごいよな」
「瑞樹はどう思うの? ほんとに分野違いでわからない?」
「分野違いというよりは、予測が難しい。日本政府は、国債が暴落するとは思っていないけど、それも確実じゃないし」
「剛田先生は、ずいぶんと内閣を批判してたね」
「うん。アベノミクスで『三本の矢』って、以前よく言われてたの、覚えてる?」
「うん」
「その一本目が、『金融緩和政策』。日本はデフレが約二十年続いていて、そこから脱却するための政策だ。具体的には、国内の通貨供給量を増やし、景気を上向かせる」
「うん。でもデフレはまだ続いてるよね?」
「ああ。安倍内閣発足から五年経過したけど、まだデフレから脱却しきれていない。政府は、今後も金融緩和政策を維持する方針。でも『これ以上金融緩和を続けるのは危険』だというのが、剛田先生の意見だ。他にも同じ考えの人たちはいて、『反リフレ派』と呼ばれている」
「へえ。そうなんだ。これ以上の金融緩和が危険な理由は?」
「主な理由は二つで、『ハイパーインフレ』と『国債価格の暴落』」
「ハイパーインフレはわかる。物凄い率での物価上昇が止まらなくなること、でしょ?」
「そんな感じ。じゃあ、国債価格が暴落するとどうなるか、わかる?」
「うーん」
「国債の暴落がもたらすのは、金利の急上昇。そして国債価格の暴落と金利急上昇は、国の経済に様々な悪影響をもたらす」
「難しいなあ」
「じゃ、悪影響の例を三つ教えてあげよう。一つ目は、金利が急上昇することで政府の歳出に占める利払いが大きくなり、他に予算を回せなくなる。こうなると国民生活に支障が出る。社会保障が削られたりするから」
「二つ目は、金融機関の持っている資産の価値が減って、金融機関の経営が危うくなる」
「三つ目は、美緒みたいに個人で国債を所有している場合は、国債の価値が目減りして、これまで積み上げてきた資産の価値が激減する」
「……何となくわかった気はする」
「話は戻るけど、結局は、国債が実際暴落するかどうかはわからない。美緒が持っている国債の額は少額?」
「十万円」
「だったら、このまま持っていてもいいと思うし、止めても、どちらでもいいと思うよ」
「わかった。ところで、反リフレ派がいるならリフレ派は? 知り合いで、誰かいる?」
「静川先生。超・強気のリフレ派。金融緩和続行に賛成する趣旨の記事をいくつか、日本の雑誌に寄稿してるよ。ネットでも読めるんじゃないかな。それに、『国債の暴落はあり得ない』って鼻で笑ったのを見たことがある」
「そうなの? 静川先生、物静かなジェントルマンなのに……まさかタカ派だとは思いもしなかったわ」
「違うよ、タカ派じゃなくてリフレ派」
「人柄的には、静川先生を信じたい。けど、国債が絶対に暴落しないという理論にはちょっと不安を感じる。そもそも、静川先生と剛田先生は、なぜ同じ金融経済学者なのに、正反対の意見になるわけ?」
「それは、財政赤字が維持可能かどうかどうかで意見が違うから。それに経済学はどんな分野でも、研究者によって異なる意見になることはある」
「リフレ派の静川先生と、反リフレ派の剛田先生が会ったら、どんな話をするのかしら」
「さあ……」
「将来的にどちらかの説が間違っていたって証明されたら、その時、間違っていた方はどうするの?」
「歴史の審判を受け入れる」
「今日の話は、漠然としていて難しかった」
「マクロ経済の話だから、仕方ない。一国全体を考えるような、規模の大きな議論になるから」
「……眠くなってきちゃた。歯磨きだけして早く寝よ。シャワーは明日でいいよ」
私と瑞樹は重い体をベッドから起こし、洗面台に向かった。
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