第21話 就職氷河期(その4)

「ハーレム? 危険じゃないの? ニューヨークには何度も来てるけど、あそこには行ったことがないわ」


 昨日と同じホテルのロビー。副島さんと伊藤さんにハーレムでの観戦を提案してみたところ、副島さんが訝しがった。


大丈夫みたいです。観客が少なめで、マラソン観戦の穴場だと友人が」


 瑞樹が説明する。


「面白そうじゃないですか、行ってみましょうよ。こんな時でもないと、副島さん、ハーレムには一生行かないでしょ?」


 伊藤さんが後押ししてくれた。



 徒歩と地下鉄で移動して約三十分後。私たちは125 St.駅に着いた。地上に出ると、周辺の道路に車は皆無だった。マラソンのために交通が規制されているのだろう。人通りは少めで、壁に落書きされた家やゴミの散らかる空き地があった。


「あっちから歓声が聞こえますね」


 伊藤さんの指す方向を見ると、二百メートルほど先の沿道に人々が並んで、手にした旗を振ったり、ボードを掲げて並んでいる後姿が見えた。その向こうを、色とりどりのウェアを着たランナーが駆け抜けていく。


「あそこがコースだな。ちょうど、アレックスが指定してきた場所だ」


 細かいアレックスは、今朝レースが開始される直前に、私たちが彼を観るべき場所のマップを送ってきたのだ。


「……あと五分で通過予定だって。急ごう」


 またもアレックスからのメール。瑞樹に急かされ、私たちはコースに向かう。予定では一時五十五分と言っていたが、十五分も早い。無理していなければいいけど。


 沿道に並ぶ人はさほど多くなく、私たちは見やすい場所を確保できた。あとはアレックスを見逃さないよう、気を付けていればいい。


「どんな人ですか? お二人のご友人」


 伊藤さんの質問。


「アレックスという名前で、背が高くて金髪で、すっごくハンサムで目立つの」


 私が説明していると、「美緒―! 瑞樹―!」と叫ぶ声がした。見ると、五十メートルほど向こうから、アレックスが走ってくる。


「あら、あの人! ほんとだ、かっこいいわね……アレックス―――!!!」


 副島さんが叫んだ。六十三歳なのに元気だなあ。続いて私、伊藤さん。瑞樹はちょっと控えめに。


 間もなくアレックスは、声援を送る私たちの前を清々しい笑顔と汗を撒き散らしながら、颯爽と通過していった。


 余裕だ。


 うんちく語りが多くてメールもくどいけど――さすがだ。


 市民ランナーの波は、途切れることなく続いていく。

 アレックスのスタートは第三ウェイブだったが、第一・第二ウェイブの人達も混ざっているのだろう。軽快に駆け抜けていくランナーに混ざって、疲弊しきって歩くのがやっとの人、道端で吐く人、頭を抱えてしゃがみ込む人がいる。三十五キロ地点は、半端じゃない。


「すごい」


 伊藤さんの声に、私は隣にいる彼女の横顔を見た。


「挑戦する姿って、いいですね」


 伊藤さんは穏やかな表情で、真っすぐにランナーたちを見つめていた。



 さてその夜。


 副島さんと伊藤さんは、私たちのアパートに遊びに来た。


「到着早々申し訳ないのですが……Wi-Fi、お借りできますか? 息子にメールしたくて」


「もちろんです」


 私は伊藤さんが差し出したスマホに、パスワードを入力して返した。



 夕食は、副島さんと伊藤さんが近所の老舗デリで食べたいものを調達してきてくれた。


 イチジク・胡桃・ルッコラのサラダ、ファラフェル(ヒヨコ豆のコロッケ)、ミートボールの煮込み、ピタパン、ベーグルサンド(スモークサーモンとクリームチーズ)、それに五種類のチーズを少量ずつ。


「嬉しいです! 人に選んでもらったものを食べるって、楽しいですよねー。それにしても、よくチーズを上手に買えましたね」


 そのデリのチーズは量り売りで、店員さんとやり取りしないといけない。私の英語力ではオーダーが上手くいかず、チーズはスーパーで買っている。


「伊藤さんが頼んでくれたの。英語、話せるのよね」


「いえ、それほどでは」


「どこで覚えたんですか?」


 瑞樹が興味を示す。


「息子の同級生にアメリカ人と日本人のハーフの子がいまして、そのお母さんに習いました。私は彼女に日本語を。もう五年になります。おしゃべりの延長程度ですけど」


「その五年間で、TOEICが六百点から八百八十点になったんですって。去年は『検索技術者検定(※1)』の一級にも合格したのよね」


「すごいじゃないですか! 私も目指してましたけど、二級止まりでしたよ。伊藤さん、その二つの資格があれば、正社員として」


 雇ってくれる会社がありますよ! と言いかけて、私は瑞樹と副島さんの視線が自分に刺さるのを感じた。しまった、また余計なことを――。


「美緒さん、そうおっしゃって頂いて、ありがとうございます。でも、ずっと派遣社員の四十四歳では、現実は厳しくて」


 その時、伊藤さんの手元にあったスマホからメールの着信音が聞こえた。


「息子から返信かしら?」


 画面を見た伊藤さんは、息を呑んだ。



(続く)



 ―――――――――――――


 ※1

 司書が取得しておくと有用と思われる資格の一つ。

 http://www.infosta.or.jp/examination/


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