第20話 就職氷河期(その3)

 瑞樹が開いたページには、「図4-1 きまって支給する現金給与額の変化(2010年から2015年) (男女計・年齢別・学歴別)(※1)」というグラフが掲載されていた。5歳刻みの年齢階級で記載されている。


「『大学・大学院卒』の区分を見てごらん。マイナスになっているのは三つの年代のみ。35~39歳、40~44歳、60~64歳。中でも、伊藤さんの属する40~44歳については、月額で約2万3000円、給与額が減少しているということだよ」


「……そんなに?」


「うん。驚くよね。この数字に関しては、東京大学の玄田有史教授がテレビ番組で、衝撃的な数字だった、という趣旨のコメントをしているほどだ(※2)」


「もちろん、この年代の人達の中にも、高額な給与をもらっている人はいるよ。あくまで、全体的に見るとこうなる、というグラフ。2015年までのデータを使っている。それはつまり――」


「伊藤さんたちの世代が大学を卒業してから二十年近くたっても、まだ『世代効果』の影響を受け続けているってこと?」


「そういうこと」


 不遇。あまりに不遇だ。


「なぜ、こんなことになっているの?」


「いくつか要因はあるけど、一番大きいのは日本型の雇用慣行、中でも『新卒一括採用(※3)』だと思う。今は大卒に限った話をするけど、大学卒業後の四月に、ほぼ一斉に入社するだろう? 日本型の雇用システムでは、一度そこからはみ出すとなかなか軌道修正できないんだよ。俺は、ここが一番問題だと思う」


「やり直しのきかない社会は、不公平だし閉塞感があるものね……」


「伊藤さんの立場で言えば、更に心配なことがある」


「なに?」


 まだあるのか。


「法律が改正されて、同一企業への派遣期間は原則、三年までになったこと(※4)」


「三年を超えたらどうなるの?」


「三つのケースが考えられる。会社が直接雇用に切り替える、派遣会社が別の会社を紹介する、あるいは、派遣会社が伊藤さんを無期雇用してこれまで通り派遣するか……無期雇用と言えば、こっちは労働契約法の改正(※5)があったから、伊藤さんの場合は派遣元と無期雇用の話をするのが先になるのかな」


 あれ。法律がもう一つ出てきた。


「よくわからないんだけど、じゃあこの機会に、派遣元か会社が直接雇用に切り替えてくれるかしら? 伊藤さんは十年以上、資料室に貢献しているから」


 経験があって人柄もいい。人手不足と言われているこの時期、伊藤さんを社員にするのは、会社にとっては悪い判断ではないだろう。


「それは何とも言えない。派遣元、会社どちらからも、次回契約更新前に雇止めされる可能性もある。冷たい言い方だけど、派遣元と会社が伊藤さんのポジションについて、『誰にでも代わりの務まる仕事』と考えている可能性は高い」


「そんな非情な。この派遣法と労働契約法の改正って、労働者を保護するためのものでしょう? なのに法律を改正したことがかえって悪い方に働くかも知れないなんて、おかしくない?」


「おかしいよな」


 世の中には不平等や理不尽なことが沢山あって、それは仕方ない。だけど、新卒時の状況が二十年にもわたって尾を引いた上に、今度は派遣法改正で慣れ親しんだ会社に派遣されなくなるかも知れないなんて。


 伊藤さんは不運すぎる。


 彼女のような人が、氷河期世代には多くいるのだろう。直接関係があるのかはわからないが、少子化が進む一因にもなっているのではないか。


 ほろ酔いで帰って来た時の楽しい気分はどこへやら。私は腹が立ってきてしまった。その様子を見て気を遣ってくれたのだろう、瑞樹が話題を変えた。


「ところで、明日はどうするの? また副島さんと伊藤さんに会うの?」


「うん。ニューヨークシティマラソン(※6)を観に行くよ」


「どこで観るの?」


 観戦できる場所は、市内至る所にある。


「考えてなかった。とりあえずホテルで待ち合わせなんだけど」


「ふうん。俺はハーレム(※7)で観るよ」


「瑞樹も行くの」


「うん。さっきアレックスからメールが」


 あら。まさか。


 瑞樹が差し出したスマホを見ると、いかにもアレックスな文面だった。


「美緒、瑞樹。明日は予定あり? もし良かったらニューヨークシティマラソンを観戦しないか。興味がなかったら無理強いはしないが。ハーレムなら他の場所より観客が少なくて穴場だ。君たちは普段全く立ち入らない場所だろうから、面白いだろう。それになにより、三十五キロ地点だからレースで一番苦しい場所だしクライマックス感があって見せ場だ。絶対ハーレムで観るべきだ。俺のスタートは第三ウェイブだから十時四十分。去年は三時間半で完走したから、予定通りのタイムならハーレム通過は一時五十五分頃。スマホを持って走るから近づいたらメールする」



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 ※1

 黒田啓太 (2017). 今も続いている就職氷河期の影響 玄田 有史 編 (2007). 人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか 慶應義塾大学出版会 p54


 なお、同p53に以下の記載あり。

(抜粋)

 図4-1~4-3は、賃金構造基本統計調査の2010年から2015年への一般労働者(3)の「決まって支給する現金給与額(4)」の変化額を、年齢階層5歳刻み・学歴別・性別で図示した。


(3)(4)は原文についており、章の最後に注記が記載されていました。あまり書籍から抜き出すのもどうかと思うので、厚生労働省HPのリンクを貼っておきます。

「一般労働者」について

 http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/koyou/doukou/04-2/2.html

「決まって支給される現金給与額」について

 http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/chingin/yougo-01.html#14



 ※2

「アラフォー・クライシス」 2014年12月14日放映 クローズアップ現代+(NHK)

 https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4079/


 ※3

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%8D%92%E4%B8%80%E6%8B%AC%E6%8E%A1%E7%94%A8


 ※4

 平成27年労働者派遣法改正の概要 厚生労働省HP

 http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11650000-Shokugyouanteikyokuhakenyukiroudoutaisakubu/0000098917.pdf


 平成27年労働者派遣法の改正について 厚生労働省HP

 http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000077386.html


 ※5   

 http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/keiyaku/kaisei/index.html


 ※6

 世界最大のマラソン大会のひとつ。ニューヨーク5区全てを通る。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%83%B3


 ※7

 ハーレムの治安については、安全になって来たとの記載をウェブでいくつか見ました。しかし。安全ボケしている日本人にとっては依然として危険な場所だろうと、個人的には考えています。

 マラソン当日はスタッフや応援の人が沢山いて、警備も出て、と普段とは全く異なる特殊な状況です。

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