第19話 就職氷河期(その2)

「おかえり」


 午後十一時すぎ。そっとアパートのドアを開けると、瑞樹が出迎えてくれた。鍵を開ける音で気付いたのだろう。


「ただいま。久しぶりに沢山たっぷりお喋りした。オイスター・バーの後、ダイナーでコーヒーとデザートを」


「そう。良かったね」


 瑞樹が嬉しそうな顔をした。妻の喜びは夫の喜び――瑞樹のそういうところが、私は大好きだ。

 だがその表情を見たらなぜか、伊藤さんとの会話を思い出した。


「……伊藤さんに余計なことを言っちゃった」


 伊藤さんは気にしていないようだったが、私は瑞樹に向かって懺悔した。



「伊藤さんは、何歳だっけ?」


「四十四歳」


「それは、の生まれだ」


 瑞樹が机に置いてあったノートパソコンで何やら検索した。少しして見せてくれた画面には、「出生数・出生率の推移(※1)」のグラフが表示されていた。


「ほら、伊藤さんは昭和四十八年生まれで、第二次ベビーブーム世代の中でも一番、出生人数が多かった年」


「ほんとだ、2,091,983人も! ……ちょっと待って、その七年前の昭和四十一年は、随分少ないね? 1,360,974人しかいないよ」


 そこだけ棒グラフが谷になっている。


「ああ、『丙午ひのえうま(※2)』だ。『丙午年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮める』という迷信があって、それを信じた人たちがいたのが原因。結果的には、まれにみるになった。入試では競争相手が少なかったし、大学卒業時はバブル真っただ中」


「それなら、大学卒業時の求人倍率にも差がありそうだね」


「見てみよう」


 瑞樹はR社がまとめた統計(※3)を探し出した。不運な伊藤さん(第二次ベビーブーマーで氷河期世代)と幸運な丙午とでは、大きな差があった。



 第二次ベビーブーマー(1973年生まれ)

 出生人数 1973年 2,091,98人

 1996年3月卒業予定者の大卒求人倍率 1.08倍


 丙午(1966年生まれ)

 出生人数 1966年 1,360,974人

 1989年3月卒業予定者の大卒求人倍率 2.68倍



「たった七年しか違わないのに、差が歴然」


「うん。出生人数と求人倍率の差があることに加え、日本特有の新卒一括採用や人事制度の影響で、伊藤さんの世代は割を食った。そしてその影響からいまだに抜け出せていない」


 意外だ。瑞樹は感情に流されず論理的だから、長年にわたり派遣に甘んじていた伊藤さんの自己責任だ、と指摘されるかと思ったのに。


「『労働市場の世代効果』という概念があるんだ」


「どういう意味?」


「『年齢, 性別, 学歴が同一な世代の賃金や離職などの就業状況が, 学校卒業時点での労働市場需給と世代人口の規模により持続的影響を受けること(※4)』。簡単に言うと、卒業した時に求人が少なかったり同年齢の人口が多かったりすると、就職に不利で、その影響は将来的に続く、ということ」


「日本で特に顕著にみられる現象だ。今ちょうど面白い本を読んでいるんだけど」


 瑞樹は本棚から取り出した一冊を、私に見せた。タイトルは、『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか(※5)』


「この中で、世代間の賃金格差について考察した章がある。見てみよう」



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 ※1

 内閣府HP「出生数・出生率の推移」より

 http://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/data/shusshou.html


 ※2

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%99%E5%8D%88


 ※3

「第33回 ワークス大卒求人倍率調査(2017年卒)」株式会社リクルートホールディングス(2016年4月21日付)。p4に該当の表あり。

 http://www.recruit.jp/news_data/release/pdf/20160421_01.pdf


 ※4

 太田、玄田、近藤(2007).  溶けない氷河――世代効果の展望 日本労働研究雑誌, 2007年12月号(No.569), p4

 http://web.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2007/12/pdf/004-016.pdf


 ※5

 玄田 有史 編 (2007). 人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか 慶應義塾大学出版会

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