第18話 就職氷河期(その1)
ミッドタウンにある瀟洒なAホテルに足を踏み入れると、足元をふわりとした感触が通り過ぎた。
猫。
視線を落とすと、一メートルほど前方を茶トラが一匹、ピンと立てた尻尾を振りながら優美に歩いていく。
「当ホテルの看板猫です」
私が驚いたのに気付いたのだろう、ドアマンが声をかけてくれた。このホテルでは、一九三〇年代後半からずっと、猫を飼っているそうだ。
「お待ち合わせですか?」
猫について簡単に説明してくれた後、彼はロビーの奥にあるラウンジに視線を向けた。壁際にはこじんまりしたバーカウンターがあって、スツールに腰かけているアジア人とおぼしき女性が二人。あの後ろ姿は間違いない。副島さんと伊藤さんだ。
再会を喜び合った後、私たちは、グランド・セントラル駅(※1)に向かった。
移動途中、地下鉄駅構内でジャズの演奏を聴いた。ニューヨークの地下鉄では、時折ミュージシャンたちが演奏している(※2)。予期せぬ印象的な演奏との出会いを期待し、私はグランド・セントラル駅に来るときはちょっと遠回りをしてでも、演奏していないかどうか確認することにしている。今日のグループはなかなかだった。彼らの前に置いてあるバケツに小銭を入れて、目的の店へ。
「牡蠣の種類が豊富で楽しいし、クラムやロブスターも新鮮で味が濃いの。ニューヨークはシーフードが美味しいのよ」
駅構内のオイスターバーを推薦したのは、グルメで旅慣れている副島さんだった。
私たちは会社の元同僚で、副島さんは六十三歳、伊藤さんは四十四歳。三人の共通点は、資料室で働いていたこと。元々は正社員の副島さんと派遣社員の伊藤さん、という人員だったのが、副島さんが定年したため私が後任になった。私は一年経たずに辞めてしまったけれど。
「時差ボケ、大丈夫ですか?」
私は食前酒のコスモポリタンを飲みながら、副島さんに訊いた。
「うーん、ボケてるわねえ。ちょうど半日違うから、おかしな感じ。伊藤さんは?」
「同じくです」
「お腹いっぱい食べれば、きっとよく眠れますよ」
話しているうちに、牡蠣の盛り合わせ二ダースと白ワインがサーブされて、宴が始まった。
「伊藤さん、今、資料室はどうなっていますか? 私の後任の落合さんは、まだいます?」
「はい。でも来月で退職です。ご主人が地方に転勤で。次は須田さんという、経理にいた方が責任者です」
資料室の責任者は、司書資格を持つ社員が配属される慣例だ。副島さんは秘書、私は庶務、落合さんは人事出身だった。
にわか司書の私と落合さんが何とかやれたのは、伊藤さんのおかげだった。伊藤さんは司書課程を卒業していて、いくつかの専門図書館で働いた経験があり、司書としての能力が高いのはもちろん、落ち着いた人柄で安定感がある。資料室を利用する社員からの信頼も厚い。
「伊藤さんが資料室の責任者になったら良いのに」
私は思わず口走った。伊藤さんの答えはわかっているのに、つい。
「……でも私、正社員として働いたことがないので。たとえ派遣でも、十三年も使って頂いてありがたいと思っているんです。出産前後に仕事を離れたのに、また声をかけて下さったし」
「すみません、余計なことを」
気まずい沈黙。
伊藤さんが大学を卒業して社会に出る時、世の中は就職氷河期だった。民間企業への就職を目指したものの希望はかなわず、専門図書館でアルバイトしながら正社員を目指すはずが、これも計画通りにはいかなかったそうだ。
結局、三十歳になる少し前から派遣社員になり、ほとんどの期間を、副島さんや私がいた資料室で働き続けている。合間にお子さんが生まれ、ますます伊藤さんが正社員として採用される可能性は狭まった。ご主人は中小企業勤務で待遇はさほど良くなく、「だから私も働き続けたいんです。息子の学費をきちんと用意したくて」と伊藤さんは言っていた。
「就職氷河期の影響が、こんなに長く残るなんてね」
副島さんが小さなため息をついたが、ちょうどこの時、ウェイターが大きなロブスターを私たちのテーブルに運んできた。銀色のトレイにのせられたロブスターは、頭と爪、それに尻尾が真っ赤。胴体部分の皮は剥かれており、白くてふっくらした身が湯気をまとって見るからに美味しそうだ。
「さあ、食べましょう!」
伊藤さんが明るく言い、私たちはまた、楽しい食事とおしゃべりを再開した。
―――――――――――――――――――
※1
ミッドタウンの42丁目にあるターミナル駅。構内には多くのレストラン、食料品店、その他のお店が入っている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AB%E9%A7%85
※2
事前オーディションによる登録制で、様々な演奏者がいる。
http://web.mta.info/mta/aft/muny/
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます