第25話 『クローディアの秘密』とTOEFL

 火曜日。咲ちゃんと一緒に過ごす日だ。咲ちゃんというのは同じアパートに住んでいる小学校三年生。


 いつものように小学校の玄関前で待っていると、扉が開き、次々と担任の先生に引率された子供たちが出てくる。咲ちゃんのクラスは三番目。おっ、いたいた。咲ちゃんも私に気付き、満面の笑みで手を振ってくれる。先生とハグしてからいそいそと、こちらにやって来た。私は先生に手を振ってご挨拶。


「今日は美術館に行く約束だよね、覚えてた?」


「もちろん。借りてた本も持ってきたよ。すごく面白かった。ありがとう」


 私は咲ちゃんに文庫本を手渡した。タイトルは『クローディアの秘密(※1)』。メトロポリタン美術館(※2)が舞台の児童文学で、作中、主人公のクローディアと弟のジェイミーは家出をして美術館で暮らす。


 本に登場する場所が実際にあるのか確かめてみよう、というのが今日の計画。咲ちゃんも私もメトロポリタン美術館には何度か行ったことがあるが、本で描写されている場所は記憶になかった。


 美術館までは、セントラルパークを通って二十分ほど。学校前の屋台で買ったシャーベット――レインボーという名前の毒々しい七色の――をシャリシャリ食べながら、咲ちゃんが言った。


「あそこの美術館って、広くてお城みたいだよね」


「そうだね。部屋が沢山ありすぎて、私はいつも迷子」


 広くて薄暗くて、廊下なしでどんどん部屋が繋がっていく。複雑な展開図みたいだ。あっという間に方向感覚は失われ、館内をさまよう羽目になる。


 咲ちゃんは先週、小学校のクラス遠足でも来たそうだ。入館手続きを済ませた後、「このロビーのお花は全部、本物なんだって」とか、「公立じゃなくて私立なんだって。すごいよね」など、トリビアを教えてくれた。


 いつもは気ままに歩いて迷子になる私だが、今日は咲ちゃんがいるので慎重に。館内マップと『クローディアの秘密』についている地図、そして付箋を貼ったページの情報を確認しながら、慎重に館内を進んでいく。


 一つ目の目的地は、その付近を何度か行ったり来たりして、やっと発見した。クローディアとジェイミーが使った礼拝堂。中世エリアの目立たない場所に、本に書かれているのとよく似た部屋があった(※3)。

 重厚な木の壁とステンドグラスに囲まれた小さな空間にいると、タイムスリップした気持ちになる。


 次の目的地は「噴水のある池」。館内で見たことのある水場は二つで、一つはエジプトの神殿がある場所。そちらではないだろうから、もう一つを目指す。


「あれー? ちょっと違うよ」


 噴水が目に入った途端に、咲ちゃんが首をかしげた。


「レストランのそばにあって、コインが落ちているのは一緒だけど。池が小さいしイルカがいない」


 本の中では、イルカの噴水がある池にコインが落ちている様子が描写されていたのだが、目の前の景色は挿絵と明らかに異なる。


「うーん、どうしてだろう……」


 この日の探検はここで時間切れだった。




「それで美緒は今、美術館の人に質問するための英作文を書いている、と」


「そう」


 夕食後のテーブルで辞書を引きながら考えていたら瑞樹が話しかけてきたので、私は今日の出来事を教えたのだ。


 日常会話は何とかなるが、複雑な内容はハードルが高い。その場では質問できない。


「もっと英語が上手くなりたい」


「じゃあ勉強すれば。半年前、『TOEFLの参考書を買ってくる』って隣の書店に行って手ぶらで帰ってきてから、何も進んでないよね」


「……」


 バレていたか。お隣のB&Oで立ち読みしたらTOEFLの難しさに怯み、それ以来放置していた。


「日常会話ができるようになってTOEICで高得点が取れても、そこから伸び悩むことは多いと思う。次のステップとして、TOEFLを受けるのはいい方法だよ。このままだと、咲ちゃんと差が付くばかりだ」


 咲ちゃんは、渡米一年であっという間に私を追い越した。現地校でネイティブの同級生に揉まれているから当たり前なのだが、やっぱり悔しい。


「……わかった。やる。四か月後に受験する」


 私はノートパソコンを開き、amasonにログインした。買おうと思っていたテキストは覚えている。


「美緒、amasonで買うの?」


「そうだよ」


「隣のB&Oで買えば?」


「あそこは定価で高いよ? Amasonなら……この本は30%OFFだよ」


 我が家は常に節約中。何でも安い方がいい。


「半年前とはいえB&Oで立ち読みしてきたんだろ? だったら隣で買うのが筋。店舗で立ち読みだけしてamasonで購入するのは、フェアじゃない。俺は反対。美緒の行動は、amasonがB&Oのフリーライダーになることを助長している」


「フリーライダー?」


「『活動に必要なコストを負担せず利益だけを受ける者(※4)』 この場合は、B&Oが実店舗を維持運営してテキストの現物を店頭に並べておくコストに、amasonがフリーライドしている形になる」


「そう言われれば確かに……でも30%だよ。定価30ドルのテキストが21ドル、割引額は日本円で約1,000円だよ」


「それは大きいな……」


 おっ、瑞樹が揺らいだ。と思ったのも束の間、新たな提案を出してきた。


「じゃあせめて、B&Oのネットストアで買えば。定価より安いはずだ」


 二人で一緒にB&Oのネットストアを確認する。あった。私の欲しいテキストの価格は……。


「惜しい! 22ドル!」


「頑張ってるじゃないか。Amasonと1ドルしか違わない。はい、クリック」


 瑞樹が横から画面を操作し、B&Oのカートにテキストが入った。まあ仕方ないか、1ドルの差だったら。


「あとはクレジット情報と住所を入力して」 


「こういうのも、ちょっと面倒なところだよねえ」


 amasonならすでに私の情報が入っているから、クリックだけで買えるのに。


「いいだろ、それくらい。ショールーミング――小売店で確認した商品をその場では買わず、ネット通販によって店頭より安い価格で購入すること(※5)――は、小売店を倒産にまで追い込む可能性だってある。やってる人は多いけど、俺はしないし、美緒もしないで。B&Oが隣にあるから欲しい本がすぐ買えるし、立ち読みもできるし、それに併設のカフェを使ったり、沢山お世話になってるだろ」


「わかった」


 確かに、瑞樹のいうことは正しい。


 それにしても、半年前に立ち読みに行ったことを覚えていたとは驚いた。テキストが届いたら、ダイエットの時(※6)のように、短期間ごとの目標を設定して頑張らなくては。



 ――――――――――――――――――


 ※1

 E. L. カニグズバーグ(1973)『クローディアの秘密』(松永ふみ子訳) 岩波書店.


 ※2

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%B3%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8


 ※3(2018/11訂正)

現存しているか、確かではありません。以下サイトには紹介されていないようでした。

 50 Years of Mixed-up Files

https://metmuseum.org/events/programs/met-celebrates/mixed-up-files-50th-anniversary


 Explore The Met and Celebrate 50 Years of Mixed-Up Files

https://www.metmuseum.org/blogs/metkids/2017/50-years-of-mixed-up-files



 ※4 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC


 ※5

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0


 ※6

 第8話『ダイエット』 https://kakuyomu.jp/works/1177354054885096795/episodes/1177354054885238198

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