瑞樹博士の経済学
オレンジ11
第1話 1LDK、月三十万円
日曜日の朝はパンケーキを焼く。
一週間に食べる分をまとめてなので、フライパンに生地を広げ、裏返し、皿に取り、またフライパンに生地を広げ……を一時間ほど繰り返す。
その間、
瑞樹は以前、企業で働いていた。私とは社内恋愛だ。当時の瑞樹は高収入だったが生活は質素で、「生活水準を一度上げると、戻せなくなるから」というのが理由だった。
それは「ラチェット効果」というそうだ。
モディリアーニ(F.Modigliani)とデューゼンベリ(J.S.Deusenberry)が提唱した仮説で、「人間の消費行動は過去最も高かった時の支出に左右されやすい」、という説だ。
要するに、「一度覚えた贅沢を手放すのは難しい」ということらしい――私の理解が間違っていなければ。そんなことあるんだろうか。「ない袖は振れない」っていう諺だってあるのに。
「これまで貯蓄に回していた分があれば、そこに手を付けられるだろ。あとは、貯金を取り崩したり借金したり」
そう言って笑った瑞樹に、私は魅力を感じた。知的な
二人でテーブルに向かい合い、たっぷりのコーヒーを飲みながら、焼きたてのパンケーキを食べる。
「研究の調子は?」
「いいよ。データが揃って、どうやって論文にまとめるか考えてるところ」
「そう。良かった」
会社を辞めてからの瑞樹は、毎日楽しそうだ。研究者になるまで少し回り道をした分、今の状態に幸せを感じているのだろう。
しかし、まさか我が家に貯蓄できない日々がやってくるとは、思ってもみなかった。諦めるしかないとわかっていても、私はつい家賃の話題を出してしまう。
「それにしても、家賃高いよねえ。1LDKで月三十万円だよ? この半年、ほとんど貯金できてない」
半年前までは田舎で暮らしていて、そこは物価が安くてゆとりのある生活だった。家賃は2LDKで十万円。家具付き。今の住居は家具が付いておらず、引越当初はその出費も大きかった。
「瑞樹、家賃だけは大盤振る舞いだよね。これ、付き合い始めた頃に教えてくれた『ラチェット効果』じゃないの? 人は一度上がった生活水準を簡単には下げられないという……。瑞樹は広い家にしか住んだことがないから、いい部屋を選ぶんじゃない?」
「そうとも言えない」
「ほんとに?」
「だって、大学の近くに住むのは研究効率を上げるために必要なことだから」
「……」
「効用の最大化を図ったらこうなった、ってこと」
瑞樹はすました顔で、パンケーキにバターと焼き林檎をのせ、フォークで口に運んだ。
「屁理屈っぽい」
「そんなことない」
「瑞樹はもっともらしいことを言うけど、最終的には自分の好みで物事を決める気がする。そういう時、得意の経済理論はどこにいってるの?」
「行動経済学では、『人の行動は不合理』と言われている」
「……何、行動経済学って」
知らないぞ、そんな言葉。
「経済学の中に、そういう学問があるの。本、貸してあげるから読めば」
「……いい、わかんないから。それで、うちの家賃が高いのは不合理の結果なの?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
どっちなんだ、一体。話が分からなくなってきた。
「まあ、いいじゃない。そんなに難しく考えなくても。それより
瑞樹の言葉に、私は窓を見た。快晴だ。ここは八階。窓から見えるのは、立ち並ぶレンガ造りのビルと青空。
アパートの外に出て通りを渡ると、そこは川沿いの公園だ。
全長約六.四キロメートルのこの公園は、ハドソン川に沿って、マンハッタンの西端に細長く伸びている。緑が豊かで、眺望が開けていて気持が良く、波止場から見る対岸のニュージャージーは美しい。有名なセントラルパークもここから近くて、東に徒歩十五分。
「いい場所だよね。だから家賃高いんだよね」
川を見てのんびり歩きながら、私たちはおしゃべりする。
「まあね。マンハッタンは特別だから、仕方ない。そういえば昨日ワトキンス先生からメールがあって」
「何て? 先生、大丈夫?」
「うん、治療が上手くいってるって。寛解したら復帰予定。ノーベル賞取るまで頑張るって。だから俺がここで代講するのは、あと一年くらいだと思う」
ワトキンス先生というのは瑞樹の恩師で、経済学会の大御所。さすがに旬を過ぎた感はあるが、ノーベル賞というのは、決して冗談ではない。
先生は一年前から病気療養中で、当時、瑞樹は中西部の大学で教えていたが、先生に請われてニューヨークの大学に移ることにした。恩師の役に立ちたいし、今後のキャリア形成にも有利だから、と。それで、私たちは半年前からマンハッタン在住となった。
「そう。良かった。先生の復帰が確定したら、瑞樹はまた転職活動?」
「うん、年明けくらいから新しい就職先を探す」
「見つかるかな」
「多分。この間送った論文もアクセプトされたし、業績は順調だよ」
このところ、瑞樹の論文は立て続けに一流誌に掲載されている。優秀なのだ。
「そっか」
「うん」
「そういうわけで、一年後にはまた田舎暮らしが始まるかも知れないから、今のうちに、二人で都会を楽しもう」
瑞樹が笑った。私もつられて笑う。
そうよね、家計のことは気にしすぎずに、マンハッタンを満喫しなくては。
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