第24話 ワインと片道航空券――需要の価格弾力性
最近のショックな出来事。それはヴィーノ・ヴェルデ(※1)が値上がりしたこと。夕食の支度をしながらの晩酌に、欠かせないワインだったのに。
「いくら値上がりしたの?」
食卓で愚痴る私に、瑞樹が訊いた。
「2ドル」
「けっこう上がったね。他のお店は確認した?」
「うん。このあたりのお店は全部、値上げしてた。あーあ、残念。10ドルちょうどであの美味しさなのが魅力だったのに。だから今日は、試しにアルゼンチン産のワインにしてみたの。何種類か試飲させてくれて、トロンテス(※2)っていう品種の白ワインが美味しかった。甘い果物みたいないい香りだよ。冷やしてあるから後で飲んでみて」
私の話に瑞樹は「わかった」と頷き、「美緒にとっては、ヴィーノ・ヴェルデの価格弾力性は高いんだね」と言った。
「何? 価格弾力性って」
「価格が1%変化したとき、需要量や供給量が何% 変化したかを示す数値。美緒のワインの場合は、『需要の価格弾力性』だね。簡単にいうと、価格が上がった時に需要がどれだけ減るかってこと」
「買わなくなるよ」
「もっと具体的に」
「毎月4本買っていたのを、2本に減らす予定です」
「なるほど。じゃあ、計算してみよう。需要の価格弾力性の計算式はこれ」
瑞樹はナプキンに三つの計算式を書いた。
需要量のパーセント変化 = 需要量の変化 ÷ 当初の需要量✕100
価格のパーセント変化 = 価格の変化 ÷ 当初の価格✕100
需要の価格弾力性 = 需要量のパーセント変化 ÷ 価格のパーセント変化
「まず需要量のパーセント変化を計算しよう。美緒は毎月4本ヴィーノ・ヴェルデを買っていたが、今後は2本になる。だから需要量のパーセント変化は……」
-2÷4✕100 = -50%
「へえ、マイナス50パーセントなんだ」
「次に、価格のパーセント変化。これも計算するまでもないけど……」
2÷10✕100= 20%
「なるほど、20%の値上がりね」
「そう。それで、最後に需要の価格弾力性を計算すると」
-50%÷20% = -2.5
「弾力性について語るとき、通常マイナスは付けない。だから2.5が、ヴィーノ・ヴェルデに対する美緒の価格弾力性」
「2.5ってどうなの?」
「とても弾力性が高いといえる」
「そうなんだ。でも価格の弾力性の概念って、なんの役に立つの?」
「企業が商品の価格を決める時とか」
「へえ」
「わかりやすい例でいえば、航空運賃」
「あっ!」
記憶が鮮明によみがえってきた。あれは約三年前。米国で暮らすために、東京からの片道チケットを購入した時のことだった。片道運賃なのに、往復運賃のなんと三倍もした。
「じゃあ航空会社は、顧客の価格弾力性に応じて運賃を決めてるってこと?」
「そう。説明のために、乗客を三つのグループに分けてみよう」
瑞樹がナプキンにペンを走らせる。
<航空機の乗客の属性>
A.価格弾力性が高いグループ。
例:パックツアーの利用客や、裕福ではない学生など
B.価格弾力性が中間のグループ
例:海外出張をするビジネスマン
C.価格弾力性が低いグループ
例:どうしてもその飛行機を利用しなくてはならない人や、片道航空券の購入者
「実際にはもっと細かく分類して、戦略的に運賃を設定していると思う。でもこの三つで概要はわかるよ」
例えばAのグループは、チケットの価格が自分たちの希望に見合わなければ、購入を止める可能性が高い。だから運賃は安めに設定する。その代わり、購入期限を搭乗日よりかなり前に設定したり、便の変更を認めないなど、制限を付ける可能性が高い。
Bは出張だから、チケットの価格はさほど問題にしないグループ。だから、少し高めの価格設定にする。その代わり、購入期限に余裕を持たせたり、便の変更を認めるなど、何らかの特典を付ける。
Cは、これは俺たちが米国に引っ越してきたときもそうだけど、どんなに高くてもチケットを買わざるを得ないと想定されるグループ。緊急な事情で搭乗日直前に買う場合も入ると思う。
「なるほどね。だからあの値段だったんだ。それに、『片道のみご利用される場合に、往復チケットを購入して往路を破棄することは禁止です』って説明してくれたよね」
「そう。足元見てるよな。でも経済はそういうものだから、仕方ない」
「……瑞樹、家で文句言ってたよね?」
「うん。納得はしてるけど、航空会社のやり方に腹は立った」
そこまで話すと瑞樹はキッチンに食器を下げ、冷蔵庫からトロンテスのワインを出してグラスに注いだ。
「意外と美味しいよ」
機嫌のよさそうな声だ。良かった、気に入ったようだ。
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※1
ポルトガル産の、完熟前の葡萄で造られるフレッシュなワイン。微発泡でアルコール度数は低め。
※2 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3
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