第17話 これがイスと台車の異種交流戦 2
テイブン先輩は、ピットエリアに台車を入れ、息も絶え絶え、瀕死のセイウチのようにごろりと地面に転がる。
「あとは頼んだわよ……」
「わかりました!」
「パヤオ、コースのイン側を走れ。その後も同じコースで周回しろ」
エンツォの指示に力強くうなずいて、おれはさっきキャスターを交換した台車を蹴りだし……
左足に渾身の力を込めて、もう一蹴りして勢いをつけ、なんとかスタートした。
もたつく間に先行する椅子部の連中との差が100メートルほどに広がっている。おまけに、金属製のキャスターが路面の小さな凹凸を拾ってしまい、いつもよりも車体が跳ねて乗りにくいし、コントロールしづらい。マジでなんなんだよ、この台車!
コースのイン側を走る理由としては、カーブの内側を走るほうが、わずかでも周回の距離は短くなる。一周あたりはわずかな差でも、十周積み重なれば大きな差になる。それは理解できる。ただ、このコースは外側よりも内側のほうが荒れている。ところどころアスファルトが割れたり剥がれたりしている。鋳鉄キャスターでエンツォのいうように同じコースをたどれば、ラップを重ねるごと路面はますます荒れてしまう。そうなれば、当然走りにくくなるし、やつらとの差を詰めるどころか、どんどん広がっていってしまう。エンツォが何を考えているのかさっぱりわからなかった。
おれが二周を回った時点でカオルと椅子部の差は約100メートルにまで縮まっていた。一方、おれと椅子部の差は300メートルに広がっている。ちくしょう、このままじゃ、残り数周のうちに周回遅れにされかねない。
ピットエリアでは、チームザ・ビーストの花咲里さんが交代の準備を始めていた。カオルの体力ももう限界なのだろう。
その後、さらに二周まわり、おれのラップが五周目に入った。コースを半周ほどしたところでコースが歩道と交差するポイントがある。やや下り勾配になっているものの、歩道の縁石部分にほとんど段差はなく、通常のキャスターなら特に問題なく通過できる程度だ。しかし、この鋳鉄キャスターだと小さな段差でも台車が跳ねる。
「危ねえっ!」
段差で跳ねた途端、後輪の片側に荷重がかかりすぎ、鋳鉄キャスターがコントロールを失う。そのまま、台車は勢いよくくるりと180度進行方向を変えた。
台車から落ちれば即失格。
こらえてくれ!
一瞬息を止めてぎゅっと目をつむった。スピンした台車は歩道との段差で止まった。後輪の重量があったため転倒を免れたみたいだ。
おれは飲み込んでいた息をどっと吐き出して、落ち着いて台車を元のコースに復帰させる。だが、危うく転倒しかけたことで、おれは自分の体の変調を認めざるを得なかった。
地面を蹴っている左足ではなく、台車に乗せている右足のほうが疲労度が激しく、踏ん張りがきいていなかった。特にふくらはぎの下、足首のやや上と、太ももの張りが顕著だ。
キックボードやスケートボードと違い、地面と荷台の高さが二十センチメートルほどある台車を常に漕ぎ続けるのは、右足だけをスクワットしてるのと同じこと。これが思いのほかキツい。
単純に考えれば、右足と左足を交互に蹴って進めば、疲労の蓄積は片側に集中しない。でも、それじゃ台車の上で反復横跳び状態になる。
だいたい、交換した鋳鉄キャスターが重すぎる。さっきはそのおかげて転倒を免れたけれど、リアフォワードにして、キックボードの要領で進んでいくのに、後ろの自在コマの荷重が極端に重いのは、障害でしかない。せめてこれを前側にできれば……
「そうか、前にすりゃあいいんだ!」
おれは一声あげると、リアフォワードの構えから、左足を軸にして台車を反転させ、フロントフォワードスタイル、つまり
通常、ハントラの公式レースでは、ライダーは荷台に乗らなければならないが、これはハントラのレースじゃない。台車から降りなければルール上は問題ないはずだ。
おれは、
ハントラでこの乗り方をするのは、基本、
しかし、今回は交換した鋳鉄キャスターの重量があり、それが台車の先端にぶら下がっている。意図的に後方に荷重をかけなければ、前輪は浮き上がらない。それに、硬度の高いこの車輪なら荒れた路面に当っても、アスファルトを破壊して力技で越えられる!
さらに、この乗り方ならば簡単に蹴り足を入れ替えられるので、足にかかる負担は段違いに軽減される。良いこと尽くめ! グッジョブ、おれ!
これなら、すぐに300メートルの差を取り返せそうな気がする!
起死回生の一手に意気揚々と台車を蹴って進み、さらにもう二周ラップを重ねたところで、再度GPSの画面を確認する。
「広がってるじゃん!?」
おれと椅子部の差は300メートルから440メートルに広がっていた。
これは一体どういうことだ? しかし、ピットエリアに目をむけて腑に落ちた。
浪工のメンバーが、チーム不適合者は
とはいえ、半周以上も差をつけられているなんて、あいつらどんなスピードで椅子を転がしてやがるんだ! チームザ・ビーストもカオルから花咲里さんに交代しているのに、その差は50mを切っていた。
「くそ、台車のほうが絶対有利だと思ったのに!」
ぶんぶんと首を振って雑念を振り払い、力の限りに地面を蹴りコースを周回するものの、次のラップも、その次のラップもおれはずるずるとタイムを落としていった。
やがて、花咲里さんも弁天と戎橋に抜かれ、さらにおれと浪工椅子部との差は700メートル、つまりおれの100メートル後方に椅子部が走っている!
いくらエンツォでもほぼ周回遅れの距離を一人で取り返すなんて絶対に無理だ。
「くそ、もっとスピードを出さなきゃ……もっと速く走れよっ!」
突如、おれの感覚器官がマヒしてしまったように、視界がぐらぐらと歪み、体が奇妙な浮遊感に包まれる。どれだけ必死に台車を蹴っても、まるで海の中を進んでいるようで前に進んでいる気がしない。
それどころか、台車を蹴るたびに、アスファルトの路面がどこまでも無限に伸びていくような、そんな錯覚に陥ってしまう。
なんで、おれの台車はスピードが出せない! なんで、やつらに追い付けない! なんで!? なんでだよっ!
このままじゃ、おれのせいで、おれたちのチームが負けてしまう。
「なにをやっている、パヤオ! 交代だ!」
怒鳴り声にハッとして顔をあげた。
噴水前でテイブンが『PIT IN』のサインボードを掲げて、その傍らでエンツォが真っ赤な顔をして、大声を張り上げていた。慌てて交代エリアに入ると、崩れ落ちるように台車を降りて、エンツォと交代する。
「すみません、エンツォさん……おれ……全然速く走れなかった……」
ほとんど泣きそうな声でおれはしゃくりあげた。
悔しくて、不甲斐なくて、こんなおれ自身が許せなかった。ところが、エンツォは、にやりと口元を舟形に吊り上げ、
「パヤオ、お前はよくやった。あとは任せろ」
と、あの重量のある金属キャスターをリアフォワードに構えると、弾丸のようなスピードでコースに飛び出していった。
なぜか歩道と交わるところで台車を大きく振り出し、豪快にテールスライドをさせて、ガリガリとアスファルトをこすりながら曲がっていく。
その直後をチームインテリの弁天が追い上げていく。その姿を見たおれは思わず叫んだ。
「なんじゃ、ありゃぁ!」
弁天とかいう小さい女は、低くした座面で頭が膝に着くぐらいに前かがみになって座り、足の動きに合わせて両手で中空を掻きながら、新種の節足動物みたいに異様な動きで、エンツォの十数メートル後ろをぴったりとついていっている。
「どや。あの弁天はムチャクチャ早いで。低く構えた全身のバネを生かし、その力を両足に送るライディングスタイルは『ダーク・スパイダー』の異名を持っとるんや」
へたり込んでいたおれに逢坂がまたしても妙にかっこいい必殺技を口にする。真夜中にあの動きで追っかけられたら、トラウマになること間違いなしだ。
逢坂がいうように、弁天は最初に出走していた兎我野と天王寺の二人組よりも、個人のスピードとしては速い。事実、交代したばかりのエンツォと弁天の距離は一向に広がる様子はなかった。
おれは逢坂の横を離れ、テイブン先輩に駆け寄る。
「テイブン先輩、このままで大丈夫なんですか? エンツォも浪工との差を縮められてないじゃないですか」
「大丈夫よ。それに、エンツォはパヤオのことを褒めていたわよ。理想的なポジションでの交代だったって」
理想的? そんなはずはない。おれはほとんど周回遅れになったのだ。
「それより、アカネちゃんも交代よ」
テイブン先輩に背中を押されて、交代の準備をしているチームザ・ビーストと合流する。
コウバン先輩はすっかり走る準備を整えている。台車は最初にテイブン先輩が乗っていたものを使うらしい。
「アカネちゃん、交代だよ!」
ここから視認できる位置にまで戻ってきた花咲里さんに、カオルがサインボードを掲げながら大声で告げると、彼女は最後の力を振り絞るように大きく足で蹴って台車をピットエリアに入れてコウバン先輩と交代する。
「お疲れ、アカネちゃん。あとは任せて」
ヘルメット越しでもわかるイケメンな視線を投げかけて、コウバン先輩らしい堅実なライディングで先行する椅子部の二人を追った。
一方、花咲里さんはヘルメットを脱ぎ、ほとんど体力を使い切ったかのように、両手を膝に置いて短く浅い呼吸を繰り返していた。
「カオルちゃん……
顔を伏せたまま呼吸の合間に絞り出すように声を震わる。街灯に照らされた地面に小さなシミがひとつ、ふたつと広がる。それが汗なのか涙なのか、おれにはわからない。でも、おれにも今の花咲里さんの気持ちは痛いほどよくわかった。チームの力になれないことがこんなにも悔しいものなのか。
しかし、カオルは花咲里さんの肩に手を置いて笑った。
「だーいじょうぶ」
あまりにも能天気な響きに、花咲里さんは顔を上げた。大きな愛嬌のある瞳の目元が微かに赤く染まっていた。
「まだボクたちが負けると決まったわけじゃないよ。アカネちゃんは精一杯走って、そのバトンをちゃんと繋いだんだもの。信じよう、ボクたちのチームが勝つって!」
カオルの言葉におれも花咲里さんもはっとして、視線を交わした。
そうだ。おれたちはチームで戦っている。おれたちの出番が終わっただけで、まだレースは終わっていない。
勝負はまだついちゃいない!
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