第35話 これが荷車検査部部長の笛鳴円造
スタート直前の空気は、いつも異様な静けさがある。ハントラだけじゃない。例えば、入学式で体育館の扉が開く直前。運動会の徒競走でトラックに立った瞬間。合唱コンクールの舞台でピアノの音とともに礼をした直後。
真っ暗な世界の中でただ一人、スポットライトを浴びているような孤独感の中、巨大な水風船のように限界まで張りつめた緊張感が、ぱっとはじけ飛ぶあの一瞬の感覚。
体中に張り巡らされた神経の隅々まで光の速さで通り抜ける幾多の感情が、オレの身体に爆発的なパワーを送り込んで、最高のパフォーマンスを与えてくれる、その一瞬がオレはたまらなく好きだ。
シグナルがブルーに変わるその一瞬に合わせて、オレの左足が地面をとらえる。
ゲートが開く速度と台車の初速がイコールならば、ゲートに衝突することはない。
その与えられた一瞬を、決して無駄にしてはならない。
推進力を持たない台車に乗る上で大切なことは、トップスピードを保つこと。
台車を軽量にする。高効率キャスターに交換する。それも必要だ。
だが、実戦とはカタログの数字通りにはいかないもの。
ハントラでは風を読み、道を読み、そして相手の心までも読む。
神経を研ぎ澄ませ、周囲のあらゆる状況を瞬時に判断する。
ブレーキ、ハンドリング、加速。反復練習によって身体に刻み込んだその三位一体のライディングを脳内にリロードする。
スピードを保つために体を低く小さく構え空気の抵抗を減らし、より重心を下げて力の分散を防ぎ、重力、遠心力、慣性モーメント、台車にかかるあらゆる力を己の肉体で支配する。
ボートの選手が全身をバネのように躍動させ、オールを漕いで水をとらえるように、地面を蹴る左足に身体全体からパワーを集中させ、大気という目には見えない壁を突破する。
そうしてただひたすらに、己の限界を追い求めてきた結果、そのコース上にはじめて浮かび上がる一本の
数多の星が輝く夜空を切り裂き流れる一筋の箒星を、ただ気まぐれに空を見上げてもその目にとらえることはできないように、信じて挑戦し続けた者の前にだけ輝く
そのラインに乗るのは……
鬼界高校、貴様らではない。
我が、入舟高校荷車検査部だ!
**
「何者だ、あの入舟高校の選手!」
「とんでもない速さでカーブに突っ込んでいくぞ!」
「見ろ! あいつ、台車でハングオンしながらコーナーをクリアするぞ!」
観客席から聞こえる驚嘆の声は、エンツォに向けられたものだ。
よく考えれば、おれ自身、エンツォの走りを最初から最後までこんなに間近に見たことはない。部分的にコーナーワークやその立ち上がりを見てきただけに過ぎない。
やっぱ、ドローンってすげー。うちの部にも欲しいな。
エンツォはクラッカーから飛び出したみたいに天才的なロケットスタートで百々の機先を制すると、超人的な加速力でその差を広げて最初のコーナーを抜け、その勢いを殺すことなく、エンツォの代名詞ともいえる台車ハングオンで第一ヘアピンをいとも容易く通過する。
一秒とおかずに百々がスノーボードのパラレル回転さながらに、ヒールエッジに乗って、ほとんど尻もちをつきそうな体勢で、路面を刻み込むように曲がっていく。百々もあれだけ身体を倒し込んでいるのに、転倒しないんだから相当のボディバランスだ。
百々はコーナーの回転力を利用しつつ、身体を大きく前傾させてスピードを上げていき、エンツォの背面にピタリと張り付く。お互い一歩も譲らないまま、右コーナーの第二ヘアピンへ突入する。
エンツォは再び 台車にぶら下がる。右側の側溝をものともせず、ミリ単位でクリッピングポイントを狙いにいく。
百々も負けじと、エンツォの背後からオーバーテイクのチャンスを伺うが、第二ヘアピンもエンツォが制し、続く第三ヘアピンまでの直線をエンツォは10mの加速ゾーンを目一杯使って加速していく。
百々はエンツォの背後にピタリとついて、彼を空気抵抗の盾にしながら、右足をドーリーから外して加速を三度ほど行う。どうやら、右足のブーツに仕込んでいるフックは、ドーリーから自由につけ外しができるらしい。よく考えられている。
そして第三コーナー直前、エンツォがブレーキングを行うほんのコンマ数秒前。
百々がラインを外して、エンツォを抜きにかかる。
百々がイン側、エンツォがアウト側に横並びになって第三コーナーへと飛び込んだ。
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