スクールライフは何色に?
第19話 これっておれの挑戦状?
合宿が終わり、おれたちの日常が戻ってきた。
穏やかな気候だった五月を過ぎ、教室の中が蒸し暑くなるにつれ、授業の難易度も高くなっていった。
けだるさに満たされた六限目の授業は物理で、無駄に目のぎらついた教諭が教科書を読み上げながら、よくわからない記号を黒板に羅列していく。
「この任意の点から質点までの距離に、質点の運動量のその距離に垂直な成分を掛けた積を、その点のまわりの角運動量といい……」
授業内容を理解している者もいれば、まるでついていけずに、理解することを諦めてノートに落書きをしている連中もいる。
おれはといえば、その意味の分からない板書をノートに書き写しながら、時々教室の窓のほうへと視線をむけた。
もっとも、外の景色を眺めたかったのではなく、窓側の席に座る花咲里さんの横顔を、ぼんやりと見るともなしに眺めやっていたのだけれど。
くりっとしたおおきな瞳が犬みたいに愛嬌があって、ぽってりとした印象ながら、身体はちっちゃくて性格もおとなしい。つい守ってあげてしまいたくなるような、典型的な妹系キャラクター。
地方出身者で訛りがきついのがコンプレックスで、いまだクラスの人たちとも打ち解けている様子はない。
かろうじて、前の席に座るお菊人形みたいな女子と、ほんのちょっと会話を交わしてるくらい。
授業中だけあって、彼女は先生の話を真剣に聞きながら、教科書や黒板とにらめっこ中だ。おれが見ていることにだって気づいてないだろう。そもそも、おれは廊下側の一番後ろの席なので、ほとんどの生徒はおれのことを視界に捉えてさえいないはず。それも、おれの無個性を助長しているのかもしれない。
誰にも気づかれないほどのため息をついて、おれは視線を黒板に戻した。先生は黒板に書き込んだ図面をチョークでコツコツと叩く。
「つまり、なぜフィギュアスケートのスピンで回転中に加速できるかというと、スピンしながらに腕を体の中心に近づけることで回転半径が小さくなり、角運動量保存則によってそのエネルギーが速度に換えられたからだ」
先生はしたり顔だったが、その日の授業内容は大して頭に入らないまま、終業のチャイムが鳴った。
放課後の清掃とホームルームを終えると、クラスメイト達は堰を切ったように教室を飛び出して、それぞれの部室に向かった。うちの高校はとにかく部活動の数がやたら多い。当然、どこかの部に入っている生徒が大半で、あっという間に教室内に残っているのは片手で足りるほどの生徒だけになった。
「オレ、来週のスーパーマトリックスのチケット、手に入れたぜ!」
「マジかよ! あれ、あっという間にチケット完売したやつじゃん。で、俺も連れていってくれるんだろ?」
「馬鹿! カノジョと行くに決まってんじゃねーか!」
教室内に残っていた、クラスの男子が教卓のあたりで騒いでいた。どうやら、来週日曜日に市民体育館で開催されるイベントのことで盛り上がっているようだった。
「ライドウ君」
突然、呼びかけられて顔をあげると、花咲里さんがいた。伏し目がちに、小声で何かをいおうとしてもごもごと口を動かしている。
「あの、今日……部活、行く?」
「あ、うん……」
と、曖昧な返事をしてから、思い直して、
「ごめん。今日も用事があるから、花咲里さんが行くなら休むって伝えておいてくれない?」
と、お願いする。一瞬、彼女は戸惑ったように目を泳がせたが、すぐに小さくうなずいて、答えた。
「わかった……今日もお休みするっちいっとく」
ほんの少し、悲しげな表情を見せ、そのまま、彼女は教室を出ていった。その足音がすっかり遠ざかったのを確認すると、少し時間を置いてからおれは教室を出た。
部活をサボりたかったわけじゃない。
ただなんとなく心がもやもやとして、暢気に部活をしている気分になれないのだ。暢気に、なんていうとまたテイブン先輩にあの三白眼で睨まれそうだけど……
今週は月曜日も火曜日も部活を休んだ。たぶん、花咲里さんはクラスが同じだから、という理由でエンツォか誰かに探りを入れるようにいわれたのかも知れない。
おれの心が晴れないのは、合宿の後からだ。
今思えば、おれたちは合宿という建前で、エンツォの個人的な事情の出汁にされたように思える。だいたい、合宿だっていうのに、椅子部と
おれに限っていえば、ダクタイル鋳鉄とかいう片輪だけで五キログラム以上ある、鉄アレイみたいな車輪を取り付けた台車で走らされた。それだって、エンツォが自分の作戦を遂行するためのもので、そんなこととはつゆ知らず、おれは馬鹿正直にエンツォのいいつけを守って、ふらふらになるまで走った。
あのレースで、
確かに、あのときは「勝ちたい」と、そう思っていた。
けれど、勝ってから「なにかが違う」と思わずにはいられなかった。
レース後、「敵を欺くにはまず味方から」といった逢坂の言葉は、おれを部活動から遠ざけるそれなりの説得力があった。
おれは、エンツォに、あの車検のみんなに欺かれていただけだったのだろうか……部を存続させるためだけの、ただの数合わせに過ぎないのだろうか。
ぼんやり考えごとをしながら昇降口で通学用の靴に履き替え、放課後の熱気に沸いているグラウンドを通り抜ける。ちょうど一か月ほど前に、ここでエンツォたちに出会って、おれはハントラなんて奇妙な部活にかかわるようになったんだ。
そんなことを思いながら校門まで来たところで、
「パヤオ君」
と呼び止められた。
フルーツゼリーのようにみずみずしい声はカオルだった。パステルピンクのジャージに身を包んだ彼女が、下校途中の男子どもの視線を浴びながら、校門にもたれかかって待ち構えていた。やっぱり見つかったか。
おれは観念するように肩をすくめて皮肉を込めていう。
「こんなところで何やってるんですか? 部活は?」
「それはこっちのセリフ。ここ二、三日休んでたみたいだから、アカネちゃんにきいてもらえるように頼んだんだけどね……」
そういいながら手にしていたスマホを掲げてみせた。ラインで花咲里さんとやり取りをしていたらしい。カオルの差し金だったのか。
「それで、ここで張ってたんですか?」
ふふっ、とカオルは含み笑いをする。
「まあ、それもあるかな。ところで今時間ある?」
「はあ、まあ」
と、気のない返事をしてから気づいた。クラブを休んでるのに時間があっちゃダメじゃないか。けれど、カオルはそんなひねくれた問答をするわけでもなく、
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ」
といっておれにむかって人差し指をくいくいと曲げて、一緒に来いというジェスチャーをして見せた。
向かったのは高校から歩いて十分ほどのところにある「タイヨーホームセンター」という、この片田舎においては圧倒的な存在感を放つ、巨大ホームセンターだった。ここは食品スーパーも隣接されているし大きな駐車場があるので、いつも賑わっている。
入り口のガラスの自動ドアに、来週の日曜日に市民体育館で開催される総合格闘技大会『
アマチュアの大会ながら、メインイベントには、この町出身のプロ格闘家、
カオルもそのポスターをちらりと見遣ると「いい筋肉だね。対決してみたいな」と笑ってみせた。
いや、瞬殺されるって。
ドアをくぐり店内に入ると、カオルは迷うことなく金物コーナーにむかい、キャスターを物色し始めた。
「キャスターって結構消耗するんだよね。エンツォみたいにパワーで乗るタイプだと、すぐ車輪がすり減っちゃうから交換用のキャスターは必需品なんだ」
「まあ、台車もそんな使われ方するとは思ってないでしょうね」
おれがいうと、カオルはケラケラと笑いながら、陳列棚から次々とキャスターを買い物かごに放り込んだ。
「それで、パヤオ君が部活を休みたくなった理由はなんだったの?」
いきなりきたな。けれど、多分そう来るだろうと想定はしていた。
「なんとなくです」
「そうなの? パヤオ君って冷めていそうで、案外熱いところあるし、負けず嫌いな性格だから、なんとなくで休むような人だとは思わないけど」
おれは別に嘘をついたわけじゃない。本当になんとなくなのだ。なんとなく行きたくない。それだけだった。
元々はモータースポーツがやりたかったくらいだから、カオルがいうように負けず嫌いな面はある。だからこそ、この前の合宿のときみたいに蚊帳の外に置かれたことが気に入らなかったのかもしれない。
そのことを告げると、カオルは苦笑しながら、
「そっか、ゴメン」
と謝った。
「実はね、動物園で君たちを待ってる間にエンツォたちと作戦会議をしてたの。あ、エンツォはちゃんと伝える気だったんだよ。パヤオを呼べってコウバンに電話させようとしたんだ。でも、ボクがそれを止めたの」
「えっ? カオルさんが? でも、どうして……」
おれがいうと、カオルは笑いを嚙み殺すように肩を震わせた。
「だって、君とアカネちゃんがあまりにも楽しそうだったから、水を差したら悪いと思って」
その瞬間、おれは自分の中にあるもやもやの原因を確信した。
いや。認めたくなかっただけで、なんとなくわかっていたことだったけど、カオルと顔を突き合わせて話したことで、やっぱりそのことを認めざるを得なかった。
「カオルさん、勘違いしてるよ。おれが花咲里さんのことを好きなのは認める。でも、あの子の好きな人は……カオルさんだよ」
なにが「それとなく伝えておく」だ。こんなダイレクトにいっちゃったら、カオルだってびっくりするに決まっている。
案の定「ふぇ?」と空気の漏れたような声を出して、カオルはキャスターを手にフリーズしてしまった。けど、おれの心の中の小さな嫉妬の炎が「もうどうにでもなれ」と完全に開き直らせていた。
「動物園で花咲里さんがいったんだ。カオルさんのことがいいと思ってるって」
カオルとまともに顔を合わせることができなくて、おれは視線を外した。はたから見たら、不貞腐れているように見えたかもしれない。
「ふぅん。そっか」
思いのほかカオルのリアクションは薄い。けれど、これは花咲里さんとカオルの間の話だから、おれがどうこうできる話でもないし、カオルに「花咲里さんの気持ち」を伝えたんだからおれのミッションは終了だ。
だけど、カオルのほうはそうさせてくれなかった。
「それで、パヤオ君はどうするの? アカネちゃんのこと」
「どうって、どういうことですか?」
「だーかーらー」
カオルに腕をつかまれて、ぐっと引き寄せられた。その力はさすがにアームレスリングチャンピオンだ。抵抗しようという気が失せる力強さがある。気づけばカオルと三十センチの距離でむきあっていた。男だとわかっていても、ドキリとしてしまう。
「好きなんでしょ? 彼女のこと」
「そりゃ、好きですよ……なんていうか、守ってあげたいって、そんな気持ちになるっていうか……」
カオルに押し切られて、つい本音をこぼしてしまう。でも……
「でも、彼女の気持ちはおれに向いてないんですよ。それに、負けるとわかっている相手と勝負なんてナンセンスですよ!」
つい大声をあげてしまった。
もし、花咲里さんが好きな相手がカオルじゃなかったら、おれだってこんなに悶々とせずに済んだかもしれない。むしろ、自分のほうが花咲里さんの恋人に相応しいんだって、いつもの幸せな妄想で楽観的に盛り上がっていられたかもしれない。
けれど、カオルに対しては、何一つとしてカオルの上をいくものがおれにあるように思えなかった。
美少年で(そのうえ美少女で)、性格がよくて、誰からも愛されるキャラで、クラブではみんなの精神的支えにもなってる。おまけにアームレスリングチャンピオンで雑誌の読者モデルだ。こんなチート能力を女神さまから授かったような人が相手になるものか! 花咲里さんの気持ちをカオルからおれにむけるなんて、無理ゲー以外の何物でもない。
「勝てそうにないと思ったら逃げちゃうんだ。守ってあげたい、なんて口先だけなんだね」
挑発的にカオルがいう。相手がカオルだからだ、という言葉が出かかったけれど、飲み込んで、反論はしなかった。
「わかった。じゃあ、アカネちゃんはボクが好きにできるってことだね」
花咲里さんが望むならそれも仕方ないだろう。おれの出る幕じゃない。
「ちなみに、ボクってちょっと性的嗜好がゆがんでるところあるから、アカネちゃんにあんなことやこんなことをして、開発しちゃうかもしれないけど、パヤオ君はそれでも平気なのかなぁ……」
あんなことやこんなこと……って、なに? ごくりと生唾を飲み込んだおれの心を見透かしたかのように「例えばぁ……」と、カオルはおれの耳元でネットの世界でしか聞いたことがないような「あんなこと」や「こんなこと」のプレイの数々を口にした。視界の端にカオルの歪んだ笑みが浮かんでいる。
この瞬間、花咲里さんのもつ特殊スキル「やっぱりおれが守ってあげたい」が発動した!
「やっぱりダメです! あんなことやこんなことはダメ! やっぱりおれが花咲里さんを守ります!」
「ふふっ、そうこなくちゃ。それならボクと勝負しようよ。キミが勝ったらボクが花咲里さんに人にいうのもはばかられるような行為はしないと約束するよ。それで、勝負の内容だけど」
アームレスリング以外でお願いします。
「やっぱり腕ずも……」
「ハントラで勝負しましょう!」
すかさずおれがカオルの言葉を遮った。
「おれはハントラ初心者だ。カオルさんはハントライダーじゃないけれど、一年間マネージャーをしていた分、一日の長があるでしょう! これならお互いにパワーバランスが偏らない、ハントラで勝負しましょう!」
カオルは黙っておれを見つめていた。アームレスリングチャンピオンに真正面からやりあったら、勝ち負けという話ではない。下手すりゃ脱臼モノだ。
数秒の間のあと、カオルは「わかった」とうなずいた。
「勝負は来週の日曜日の朝に尾上山で。このことはエンツォたちには内緒にしておいてね。もちろん、アカネちゃんにも。ボクからエンツォには君の休みの理由をうまくごまかしておくよ」
そういうと、カオルはおれを売り場に置き去りにして、一人で会計レジにむかった。
なんだか奇妙なことになった。そう思いながらも、おれの足は無意識のうちに台車売り場へとむいていた。
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