第27話
黒木の宣言に応じるがごとく、千佳は急に動きを変える。
再び痛烈なブローを構える茜に向かって、今まで防御に徹していたのが嘘のように、猛然と踏み込んだのである。
当然、茜の強打をもろに浴びる位置取り。
体重を乗せた重いブローが、千佳へと襲い掛かる。
だが、その瞬間
茜の右拳が、するり、と驚くほどあっさり軌道を変えた。
茜の振るった拳を外側に払うように、千佳が自らの拳をその軌道上に滑り込ませたのだ。
茜の腕は千佳の腕の上を滑り、全く見当違いな方向へと向かってしまう。
必然的に茜の構えは大きく開き、払われた腕の下、無防備な脇腹が露になる。
「っ!」
茜が息をのむ。避ける暇も与えず、千佳はそのボディに左右のブローを叩き込む。
茜とは異なり軽い打撃に過ぎないが、6ポイントの被弾は痛い。
「ぅぁっ!」
声を発しながら茜は必死に後ろへ下がり、強引に振り回すような左フックで牽制する。
しかし、そういった必死の反撃ですら、天見千佳を後退させられない。
千佳は一気に接近し、茜の左拳を右手で外側に弾いた。
割れるような鋭い音が響く。茜のブローはあまりにも簡単に打ち払われ、またも無防備な体勢を千佳の前にさらす事となる。
「くっ」
茜が咄嗟に丸まるように身を縮め、右腕でボディを守ったのだ。
千佳は構わずガードの上から強引に連打を浴びせる。1点2点3点、と徐々に蓄積する細かい得点。茜はたまらず、両腕でガードしながら強引に前へ出て、身体ごとブローをぶつけようとする。すると千佳はあっさりと追撃を止め、猛牛をいなすように身をかわした。
茜の攻勢が崩れたことを見て、麻衣が心配そうに早川へ
「あれ、私もやられた……。こっちからパンチすると弾かれて、攻撃が出来なくなるんだ」
「……ああ、今はっきりわかった。しかし……信じられないな」
早川は茜がやられている事への驚きよりも、天見千佳の技術に対する驚きで息をついた。早川をせせら笑う黒木の声が隣から聞こえる。
「あれが天見千佳の真骨頂。二年後には我が第三格闘部を率いるエースの圧倒的な才能よ」
千佳は茜の懐へ飛び込む。迎え撃つように構えた茜の右拳。万全の体勢から放たれるこの右ブローを貰えば、並の選手では受け止めきれないだろう。
だが、天見千佳は並の選手ではない。黒木が語るのは、彼女が非凡たる由縁。
「常人離れした反射神経と動体視力、そして神経質なまでの繊細さ。全てが噛みあって生み出された芸術的な妙技」
茜の強靭な右ブローに、千佳が左拳をそえるように当てた。
直後、茜の拳は千佳の腕の上を滑り、外側へ追い出される形で弾かれたのだ。
これこそが天見千佳の切り札。
彼女は冷たい表情の奥で、小さく笑った。
「ブローの角度とスピードを一瞬で判断し、ミリ単位の調節で拳に当て、弾く技術。伝家の宝刀、その名も『パリング』。あれで彼女と私達は、二年後必ず第一格闘部を打倒する」
黒木が強く言い切るのは、それだけ自信があるという事。
天見千佳が負けるはずないという、絶対的な自信が。
体重の乗ったブローをあっけなくいなされ、さすがの茜も驚愕を隠せなかった。
無防備になった彼女のボディへ、容赦なく千佳の連打が炸裂する。
茜はあえて前に踏み込み、体ごと叩きつけるようなブローを放つ。
これは弾ききれないと判断したのか、千佳は簡単に引き下がって茜から距離を取る。
その駆け引きの上手さに早川も舌を巻く。
(絶妙な判断だ……。茜もブローに強弱をつけて揺さぶってはいるが、的確に対処されてしまってる。あんなパリングをされちゃ、茜に残された攻撃手段は腕を縮めて身体ごとぶつかるくらいのもんだ。だが、それすら冷静にかわされたらもう打つ手がない)
歯噛みする彼を見て、言葉には出さないまでも内心ほくそ笑む黒木。
(歯がゆいでしょうね、早川君。なんせ千佳は、攻撃型の選手との相性が良い。相手にとって見れば、針山に殴りかかるようなものなのよ)
試合はなおも千佳の優位で続く。茜は強打を繰り返すが、その度に弾かれ大きな隙を作ってしまう。そして反撃のブローでポイントを奪われていく。
早川がその様子を見てつい声を漏らした。
「くそ、今ので10点差か……」
今のペースで反撃を貰っていては、茜に勝ち目はない。強打すれば強打するほど、大きな隙が出来てしまうのだから、攻めることすら困難だった。
かと言って、茜の持ち味であるハードヒットを使わずに勝てる相手でもない。
まさに八方塞の様相を呈する戦況に、しかし茜は弱った素振りなど見せなかった。
「ふっ!」
大きく息を吐き、今までよりも一層強く拳を振るったのだ。
当然、天見千佳のパリングの前に呆気なく腕は弾かれ、つけ入る隙を与えてしまう。
それでも茜は冷静だった。弾かれることすら織り込み済みであるように、むしろ身体を広げて反撃を誘う。打ってこい、と言外に主張するかのごとく。
千佳が反撃のブローを打ち込もうとするが、直後彼女は危険を察知した様子で腕を引き、後退して茜から離れた。広橋茜は何かを狙っている。千佳の本能がそう告げていた。
茜は千佳に距離を置かれ、力を溜めた左手を押しとどめざるを得なくなる。
「カウンター狙い? 残念だけど、千佳の嗅覚は伊達じゃないわよ」
黒木が茜の動きを分析する。早川にも茜の狙いはある程度伝わっていた。カウンターに対してさらにカウンターを合わせるつもりなのだ。ほとんど隙を見せない千佳に反撃するためには、パリングもガードも出来ないカウンターの瞬間を狙うしかない。
だが、千佳もその弱点は熟知している。茜の狙いを察知し容易に反撃を許しはしない。
早川は厳しい状況に顔をしかめる。が、すぐに彼は気付くこととなる。
茜の目に宿る力。それはこのような苦しい戦況であっても、輝きを失っていない。
早川は思わずにいられなかった。
何かやってくれる。茜なら必ず、と。
次の瞬間、茜が左腕を後ろに引き、踏み込みながら素早く打ち込む。
何度も繰り返したようにその左拳は呆気なく千佳のパリングで弾かれ、無防備にボディを開け放してしまう。千佳のカウンターが狙いを定める。しかし、彼女は腕を出さない。点差は充分であり、危険を冒してまであえて勝負を急ぐ必要はなかったからだ。
そういった打算が、千佳の危険に対する嗅覚を、ほんの少しだけ鈍らせた。
千佳は両手を構え、いつでもパリングできるように準備した、つもりだった。
直後茜は、勢いをつけるように左腕を強く引き戻し、反動で上体を回転させた。
両脚に渾身の力を込め、全身の筋肉を悲鳴が上がるほどに収縮させ、骨格に力を伝え、全身から生み出されたエネルギーを、一片たりとも残さず右腕へ集約していく。
その右ブローは、今までのどれよりも凶悪な破壊力。
だが、千佳は高をくくっていた。どんな強打だろうと、ただのブローならば弾くことができると。果たしてそれが、茜の渾身のブローにも通用するかなど、考えてもみなかった。
パリングのために構えた両腕の中心目掛けて、茜の全力のへヴィーブローが炸裂する。
千佳は咄嗟に両手を使い、拳の軌道を逸らそうとした。
だが、鉄槌のような茜のブローは、千佳の両腕に触れた瞬間
千佳の顔が歪むほどの強烈な衝撃を与え、両腕ごと容赦なくボディへと押し込んだのだ。
「な、に……」
千佳は驚愕のあまり、声を漏らした。
体験した事もない圧が、重く鋭く身体の中心を射抜き、鈍い破裂するような音が響く。
両腕を緩衝材として身を守ったはずなのに、茜の拳は防具越しに深々と千佳の腹部へ突き刺さり、彼女の身体は前後に大きく折れ曲がった。そのまま千佳は勢いよく後ろへ弾き飛ばされ、転ばないまでもバランスを崩してよろけてしまう。
「くっ、はぁ」
千佳の表情が苦悶に染まる。全身が危険信号を発する。この相手はやばい、と。
打たれた部分がじんじんと痛む。両腕と腹部の厚い防具越しで痛みを感じるなどまずありえないことだった。だが現実に、そのありえないことが起きている。
千佳の動揺など意に介さず、茜は再びコンパクトな左ブローの構えに入る。
千佳は思う。このフォームからは、さっきのような凶悪なブローは繰り出されまい。しかし、このブローを好きに打たせてはならない。打たせたが最後、本当に恐ろしい利き腕のブローが、鉄槌とでも呼ぶべきそれが容赦なく襲ってくるのだから。
千佳は猛然と前へ突っ込んだ。受身に回ればやられる。ならばここで勝負を決める。
茜の左ブローを千佳は弾き、がら空きの脇腹へ左右の連打を叩き込むべく構える。
対して茜は、先程よりも一層強く左腕を引き戻し、必殺の右ブローへ移行する。
二人の身体が交差し、いよいよ勝負が決まるかという瞬間
甲高い笛が鳴り、二人の間に可奈が躍り出る。
「ストップ! 終わりよ二人とも!」
止めなければ確実に続行していただろう二人に対し、慌てた様子で可奈は制止を求めたのだった。伊藤が親指を立ててその行動を賞賛した。
千佳も茜も不満そうな顔をして、とぼとぼと両顧問のもとへ歩いてくる。終わってみれば点数は14‐19で茜の負け。ただどちらも不完全燃焼の感は否めないようだった。
「先生、もう1ラウンド。あと3分あれば勝てる……!」
茜がむすりと一言。失礼かつ不遜とも言える発言に、早川は肝を冷やした。
「駄目に決まってんだろ。向こうの迷惑にもなるし……」
「私は構いませんよ。逃げたと思われたくないので」
すると横から天見千佳がわざと大きな声で言い放つ。麻衣と一緒にいるときは気弱そうだった彼女は、ベルヒットの事になると人が変わったように負けず嫌いになるらしい。
「残念だけど千佳、これ以上はやめときましょう。ハードヒッターとの試合はあまり長くやらせたくない。ま、続けた所で結果は見えてるけどね」
黒木が意地悪く笑って言う。千佳は渋々ながら頷いて承諾した。ただ茜だけは納得がいかない様子で、黒木の発言にも文句を言いたげに顔をしかめている。
「黒木先生、結果が見えてるってのは聞き捨てなりませんね」
しかし彼女以上に文句を言いたかった人間が一人いた。早川である。
「うちの茜は強いですよ。いくらそっちの選手が優秀でも、確実に勝てる保障なんてないと思いますけどね。むしろ3ラウンドもあれば、茜が勝つ可能性は充分にあった」
「せ、先生」
「落ち着いてくださいよ~」
子供のようにムキになって言い返す早川を、麻衣と由紀がなだめようとする。
「それは失礼。それじゃ、時間も時間だしさっさと撤収することにしましょう」
黒木の方はあまり気にしない様子で、さらりとこう言ったのだ。
早川は不満そうな顔をしていたが、事を荒げるでもなく黒木の言うとおり撤収の準備にかかったのだった。
体育館の片づけを終え部員と共に部室へ向かう黒木に、後ろをついていく可奈が尋ねる。
「なんだか、向こうのセンセやたらムキになってましたね。黒木先生もですケド」
「そりゃ、ムキにもなるわよ。お互いのエースをぶつけあった試合なんだから」
「で、結果は見えてるって本気だったの?」
「見えてるわ」
黒木が素っ気無く答える。可奈は黒木がなぜそう言い切るのかわからず不思議そうな顔をしたが、深く追求するような事はしなかった。
(あのまま続けてたら……か。あの場では千佳のプライドのためにああ言わざるを得なかったけど、実際問題少しショックね)
黒木は眉根を軽く寄せた。それは、黒木だけが知っている言葉の真意だった。
(あのまま続けてたら、千佳が負けてた。向こうの実力もさることながら、こっちはハードヒッターに対する免疫が無さすぎる。やはり今後は、こういう弱点を一つずつ潰していく必要がありそうね。ったく、やることが多すぎて忙しいっての)
試合に出た選手たちを引き連れ、彼女は第三格闘部の部室へ向かう。次にやるべき事をすでに見据えて。
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