第2話

いくつもの灰色の机が並び、その上に書類や様々な雑品がひしめいている。机と机の隙間に生じた狭い通路を、上着を脱いだスーツや白衣、果ては短パン半袖等、色々の服を着た人達がせわしなく歩き回っている。


 早川一騎はやかわいっきはその中の一つの席に着き、手に持った書類に目を通していた。


(『特待生徒』の一番から三番は順当に第一格闘部に入部か……それにしても一番の子はすごいな……、中学時代は道内じゃ負けなしじゃないか……)


 書類を眺めながらあれこれと考えを巡らせていると、彼の名を呼ぶ声が聞こえた。


「早川、今年の有望株でもチェックしとるのか」


 早川は視線を上げ、その先にいる人物を確認する。皺を深く刻んだ老年の男性だった。紺色のシャツとジャージに身を包み、スポーツトレーナー然とした雰囲気を漂わせている。彼を見るなり早川はひらひらと書類を揺らしてみせた。


「ええ、僕には関係ない話ですが、一応自分の高校の有望選手ぐらいは知っておこうと思いまして」


 老年の男性は早川の斜め前の席にどかりと座り、再び口を開いた。


「お前さえよければ第一格闘部のコーチに推してやるのにのう」

「僕じゃ実力不足でしょう」

「指導能力はわしのお墨付きだ」

「あはは、それは嬉しいな。……ところで浅倉先生、今年はどんな選手が?」


 早川の問い掛けに、浅倉と呼ばれた男性はわざとらしく聞こえるぐらい大仰に答えた。


「ここ数十年で最強。全国でも結果を残せるぐらいの面子じゃな。代わりに、性格も曲者ぞろいじゃわい」


 早川は冗談を聞いたような顔で笑う。


「強い選手を担当できて羨ましいですね」

「それがな、こう長いことやっとると逆に物足りない気持ちになる時もあるんじゃ」


 浅倉が皮肉っぽくそう答えたのを見て、早川は不思議そうな表情をした。

 どういうことだろう、と早川はその続きを促すように頷いて見せた。


「うちに来る強い選手っていうのは、もう形が定まっとるだろう。すると、わしらに出来る事もそう多くない。だから時折無性に『まだベルヒットについて何も知らないような』どこにでもいる普通の子を指導したい、と思うときがある」

「なるほど。僕を教えてくれた時もそうでしたね」

「ああ。あの時は楽しかったな。あのハナタレ小僧が、今じゃこんな風に成長してるなんて誰も思わなんだ」


 早川はかつてを思い出すように目を瞑る。

 すると浅倉は少々小難しい顔をして、ううんと唸った。


「最近じゃうちの格闘部は人数が増えすぎて新入部員を制限しておる。出来れば全ての子を受け入れてやりたいんだがな」


 早川はちらりと浅倉の顔を一瞥した。


「また新しい格闘部が出来る可能性もありますかね? つまり、第七格闘部が……」


 浅倉は苦々しい口調で答える。


「第七格闘部か……。実績のあるコーチがいれば新設は容易いじゃろうが。そもそも他にコーチの足りてない格闘部もあるしのう……。なかなか名乗り出る人材がいないのが現状だな」

「確かに……」

「そうじゃ。もしお前が名乗り出るなら、わしは応援するぞ」

「僕が? なんだか想像できないな」


 かかか、と喉を鳴らす浅倉。早川は少し驚いた様子で、目を丸くした。


(部活の顧問かぁ……。興味はあるけど、大変そうだ……)


 そう頭の中で呟いて、彼は手に持っていた書類を机に投げ置いた。

 再び目を瞑る。二人の会話はそこで途切れた。広くて狭い職員室の中、多くの教師達が立てる物音が早川の耳に入ってくる。

 その物音に耳を預けながら、彼は大きくあくびをする。


 不意に職員室の端側から、早川の耳に口論のような話し声が聞こえてくる。


「だからこういう形の因数分解ってのはね。右側に来る数字を見て大体の目星をつけて……」

「目星? その目星はどうすれば見つかりますか?」

「いや、数字を見て、ね。足し引き掛け算やってみれば……」

「数字を見る、とは、数字の奥に隠された何かを見るという事ですか?」

「そ、そうじゃなくて……」


 一人の生徒が教師に勉強に関する質問をしているのだった。

 その生徒は艶のある短めの髪をわしゃわしゃとかき上げ、ひどく難しそうな顔をして考え込んでいる。対する教師の方も対処に困る様子で、懸命に説明の言葉を探していた。

 早川がその様子を眺めるともなく眺めていると、横合いから声が。


「あの子、知っとるか? 新入生の広橋茜」


 早川はその声に振り向く。そこにいるのはやはり第一格闘部顧問の浅倉教諭だった。


「いえ、僕は知りません。有名なんですか?」


 あの子、というのは質問している生徒の事だろう。

 早川がそう解釈して聞き返すと彼は愉快そうに笑って答える。


「有名も有名よ。入学後すぐのテストの成績で、もう各科目色んな教師から呼び出しを受けとるんだが……」

「が?」


 煮え切らない言い終わりに早川は続きを促し、浅倉が言葉を継ぐ。


「ちょっと、物分かりがよろしくないみたいでな……。すでに五人以上の教師を、禅問答まがいの質問責めでノックアウトしているらしい」


 直後、男性教諭の声が響く。


「ひ、広橋! 悪いけど先生これから用事あるから他の人に聞いてくれ!」


 そう言って先ほどまで数学の質問に答えていた教師が席を立ち、困惑する広橋という名の女生徒を尻目にすぐに撤退してしまう。


「あ、逃げおった。まあ、あの調子を見れば想像してもらえると思うが……」


 浅倉がそう解説すると、早川はようやく納得が行った様子で頷いた。


「彼女は何か部活には?」

「んー。まだ入っていないようじゃな。格闘部に入りたいみたいで、先日『第一格闘部(うちの部)』に来たんだが」

「入部しなかったんですか」

「入部させてあげられなかった。一応経験者ではあるようじゃが、中学時代の大会成績が全くなかったから、部の規定でな……」


 残念そうに浅倉は漏らした。


「部員数制限で、未経験者はほとんど入部出来ないんでしたっけ」

「うちにはプロ志望の生徒も大勢いるからな……。……それより早川、行ってやらなくていいのか?」

「?」


 彼の質問の意味が分かりかね、早川は不思議そうな顔をした。

 すると浅倉は手を上げ、ある方向を指差した。そこには先ほどから困ったように職員室をうろうろしている少女の姿がある。


「あのぅ、誰か数学の先生いらっしゃいませんかー?」


 彼女がそんな事を言い、質問を補足するように浅倉は続けた。


「お前数学教師じゃろ」


 早川一騎は、広橋茜が探している数学の教師である。のだが、


(これは引き受けたら最後だぞ……!)


 先ほどの先生のように質問責めに遭ってはたまらない、と早川は逃走を図ろうとする。


「ぼ、僕は用事があるので」


 だが、早川の肩は何者かの手によってがし、と掴まれ、動けなくなってしまう。

 早川はゆっくりと振り返る。肩を掴んだのは、先程逃走したはずの男性教師だった。彼はにやにやと意地悪そうな笑みを浮かべ、早川に命令する。


「早川くん、代わりにお願いしますね?」

「げっ」


 反論を許される余地はなさそうだった。

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