第3話

「で、この場合は除外されるから考えなくていい。するとパターンは三つに絞られるだろ? その上で正しいものを選べばいいわけだ」


 職員室の片隅で、数学教師早川一騎が、つやつやの髪を持つ少女に説明している。

 二人は家庭教師の授業よろしく、一つの机に向かって並んで座っていた。

 少女の名は広橋茜。やや丸みがかった顔つきの子で、今は早川に数学の質問をしているのだった。ふと、彼女の目に知的な輝きが宿る。


「……! つまりこの場合はかけて12になる数字の組み合わせを全部考えて、どの組み合わせならば足して7になるかを考えるわけだね、じゃなくて、ですね? そうすると真ん中の数字がマイナスの場合はどうするの……ですか?」

「……無理して敬語使わんくていいぞ」


 たどたどしい言葉遣いに早川が突っ込みを入れると彼女は


「はっ、すみません。先生話しやすいもんだからつい……」


 と恥ずかしそうな顔をして弁明する。


「はは、そりゃどうも。マイナスの場合はマイナスの数字も考慮に入れるよ。かけてマイナスになるってことは片方の数字がマイナスってことでしょ? そう考えたら後はさっきまでと全く同じだよ」


 手元の用紙に書き込みながら早川がゆっくり解説すると、ようやく広橋茜は合点がいった様子で手を叩いた。


「なるほど! 先生の説明すごく分かりやすい!」

「理解できたようでなにより……と、時間大丈夫か?」


 早川は近くの時計に目を向ける。時刻は午後五時を過ぎている。他の生徒や一部の先生は部活にいそしんでいる時間であろうが、早川には関係がなかった。


「あ、もうこんな時間。すみません、私『第六格闘部』に入部の申し込みしてこなきゃいけないので……」


 早川は眉をよせる。浅倉先生の話では、広橋はまだ部活に入っていないのだ。ベルヒットの経験者である彼女はやはり格闘部に入部したいのだろう。


「そっか。入部出来るといいな」


 早川がそう伝えると、広橋茜は大きく頷いて


「はい! どうもありがとう先生! また分からなくなったら教えてください! じゃ!」


 そう言うなり、急いで職員室から出て行った。


「ふぅ……結局三十分近くかかったな……」


 必死になって教えていたらかなり時間が過ぎてしまっていた。


「お疲れさま。随分懐かれたようだな」


 後ろから声がかけられる。早川はその声の主を一瞥し、嫌味を送った。


「おかげさまで、浅倉センセ」


 そこにいたのは老年の男教師、浅倉だった。

 もとはといえば、彼が余計な事を言ったために広橋茜の質問責めに遭う羽目になったのだ。

 体操着姿の浅倉は首に体育教師がよく使う笛をぶら下げていた。自分が悪戦苦闘していた間に部活に顔を出してきたのだろうか。早川はそう思った。


「ところで、その手元にあるノートは早川のか?」


 浅倉が尋ねる。早川は、ん? と手元を見て、目を丸くした。


「しまった。広橋のやつ、ノート置いていきやがった」

「おやおや、しょうがないな。明日にでも会ったら渡すしかないのう」


 浅倉はそう言って笑ったが、早川は少し違う考えがあるようで席を立った。


(第六格闘部の部室に向かったなら、今行けばまだ間に合うんじゃないか?)


 そう思い彼は浅倉へこう言い残して、職員室を後にする。


「届けてきますよ。今日の夜、家で勉強するのに使うかもしれないしね」





「買ってきましたよ。先輩」


 同時刻、麻衣と由紀は第六格闘部の部室に到着した。

 彼女達は両手にスポーツドリンクを抱えて部室の扉を開いたのだった。


「おう、お疲れさん」


 すると中にいたのは先ほどと変わらず五人の生徒。彼女らは部室に備え付けられた椅子に座りふんぞり返っていた。麻衣は思わず舌打ちしそうになる。


(何が部活の準備だ。結局私らにジュース買いに行かせたかっただけじゃないの)


 麻衣はなるべく不快な感情を顔に出さないようにしつつ、座っている部員一人ひとりにジュースを手渡ししていく。

 全員に配り終わると、不意にその中の一人がこんな事を言い出した。


「あれ、私スポドリ頼んでないよ」


 すると他の数人も口々に文句を言い始める。


「私もなんだけどー」

「お茶が飲みたかったのになぁ」


 当然、由紀が反論する。


「ちょっと待ってください。『買ってくるのはスポドリでいい』って……」


 すると最初に由紀と麻衣を迎え入れた茶髪の女生徒が、軽々しくこう言い放ったのである。


「ああ、それ言ったのあたしだけだよね? ってことはこいつらの意見はまだ聞いてなかったわけだ。そりゃあ文句も言われるさ」

「何言ってるんですか! それなら買いに行く前に伝えとくべきでしょ!」


 由紀が必死に食い下がるが、茶髪の彼女は全く悪びれる様子もなく


「先輩にわざわざ言わせんのかよ。お前らが気ぃ効かせて聞くべきだろ」


 由紀に一歩歩み寄って凄んで見せた。その剣幕に由紀はたじろいでしまう。


「由紀、いいよ。……すみません、先輩」


 そう言ったのは麻衣。彼女は俯きがちに目を伏せながら謝罪をしたのだ。


「分かればいいのよ。んで、何その手は」

「お金を」


 麻衣はなるべく茶髪の女生徒と目を合わせないようにしながら、手のひらを上に向けて代金を催促した。すると茶髪の女生徒は合点がいった様子で口を開く。


「ああ、立て替えといてって言ったやつね。気付いてるとは思うけど、あれも言ったのあたしだけだからね」


 その発言に、由紀は目を見開く。周りでは部員達がにやにやと意地悪く笑っている。


「そ、そんな……、まさか他の人はお金払わない気ですか」


 由紀の問いかけに、答えるのは周りで座っている部員の一人。


「だって、私買ってきてなんて一言も言ってないよ。勝手に買ってきて勝手に手渡されたんだし、金払う必要なくねぇ?」

「そうそう。甘和が私達のために買ってくるようお願いしてたみたいだけど、私達がお金払うかどうかについては一言も喋ってないしさぁ」


 続けざまに理不尽な理屈を浴びせかける彼女達。

 その暴言を身体に浴びながら、由紀はとうとう我慢の限界を迎えようとしていた。


(この人達、最初から筋を通す気なんてないみたいです……)


 そう悟り、由紀が怒りを露にしようとする。が、


「ふざけるな……」


 由紀が声を出すよりも先に、麻衣の右手が茶髪の女生徒の襟首にかかった。


「私だけならともかくね……買ってきたお金には由紀のも含まれてるんだ……。つべこべ言わずさっさと払いなさいよ……!」


 由紀よりも先に、麻衣の怒りが限界を超えていたのだ。


「おいお前、誰に何やってるか分かってんのか」


 茶髪の女生徒は自分の襟首にかかっている麻衣の右手を、今しがたグローブを外した自分の左手で逆に掴んだ。

 その瞬間、麻衣の顔が一気に苦痛の表情に変わる。


「痛っ……!」


 数秒後には、麻衣の腕がぎりぎりと締め上げられ、彼女は完全に無防備な体勢にさせられてしまう。周りの部員達が口々に呟く。


「あーあ、甘和キレちゃったよ。この子達大丈夫かな」

「ああなったら何するかわかんないからねー。おまけに無茶苦茶強いし。中学時代には後輩ボコボコにして部活やめさせた事もあるんだって」


 由紀はその言葉を聞き逃さなかった。甘和、というのは麻衣の腕を締め上げている茶髪の女生徒の名前だ。聞いた感じではかなり物騒な人物らしい。由紀が表情を変え、今まさに掴み合おうとしている二者の間に割り込もうとした。


「おいクソガキ、序列ってもんを教えてやる」


 直後、甘和という女生徒が麻衣の腕を放し、両者の間に僅かだが空間が生まれる。

 甘和が腕を大きく後ろに引いた。グローブをつけた右手を固く握り締め、自らの前方に狙いを定める。彼女の目前に立っていた麻衣は、咄嗟に両腕を身体の前に構えた。

 しかし、遅かった。鈍く大きな音が部屋に響く。その瞬間、部屋の中央付近にいたはずの麻衣の体が後ろに投げ出され、そのまま仰向けに倒されてしまう。


「麻衣、ちゃんっ?」


 由紀が驚き、倒れた彼女に駆け寄る。


「うぅ……く、はぁ……ぁ……」


 麻衣は腹部を片手で押さえ、非常に苦しそうなうめき声をあげている。


「おいおい、一発でダウンされちゃあ入部なんてさせられないよ。……入部したら、あたしらのサンドバッグになるってのにさぁ!」


 グローブをパンパンと打ち合わせ、不敵な笑みでそう言い放った甘和。

 周りで部員達が囁きあう。


「つーか、防具も無しで甘和のパンチまともに食らったら、素人じゃなくても悶絶するでしょ」

「あはは、あの子しばらく立てないだろうね」


 由紀は理不尽な暴力に歯噛みし、今すぐにでも飛び掛りたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えて苦しんでいる麻衣の背中を支える。


「なんてことを……」


 由紀の抑えようのない怒りが、唸るような低い声として口から溢れた。


「うっ……」


 腰を起こした状態で麻衣が急に前のめりになり、両手で口を覆った。

 苦しそうに冷や汗を流している彼女の姿が、由紀の感情を高ぶらせていく。


「先輩だからって、こんな事していいと思ってるんですか……!」


 由紀は目前で立ちはだかっている部員達を、決して怖じずに睨みつけた。

 だが、茶髪の女生徒、甘和はまるでうるさい小言を聞き流すかのような調子で


「あーうるせえうるせえ。そんなに欲しけりゃ返してやるよ」


 そう言い返し、由紀と麻衣のそばにつかつかと歩み寄ったのだ。

 由紀は至近距離で相手を見上げる姿勢になり、目を丸くした。

 ゴミでも見るような視線で見下ろす甘和。

 直後、由紀は頭にひどく冷たい感覚を覚える。冷たい感触は脳天から徐々に下へと伝わり、鼻筋やこめかみを経由して首の下までずっと流れて行く。

 由紀の体中にぞわりとした悪寒。そして彼女は、自分が何をされたのか気付いた。

 由紀の頭の上から、何らかの液体が注がれたのである。

 その液体の出所は、茶髪の女生徒甘和の右手。グローブ越しに握られていたのは、麻衣と由紀が先ほど買ってきたスポーツドリンクだった。


「ほら、飲めよ。これで金の貸し借りの話はチャラ。さっさと失せな、目障りだ」


 ドリンクはなおもどくどくと注がれ続け、由紀の髪を濡らし、顔を濡らし、買ったばかりの新しい制服を無残に汚していく。だが、由紀は動けなかった。

 あまりにも理不尽な仕打ちに、由紀は口も利けなくなってしまったのだ。


「な、んで……」


 辛うじて口から出たのは、そんな要領を得ない言葉だった。


「なんで? ど素人が調子にのんな。お前らみてーのがベルヒットできるわけねえだろ。サンドバッグ以下のポンコツが」


 厳しく言い切る甘和。人間らしい思いやりなど、全く感じられない。

 由紀はその言葉でようやく、相手の今までの発言が全て嘘だったのだと気付いた。


(ひどい……、最初から入部させる気なんてなかったんだ……。麻衣ちゃんは、真剣に格闘部に入りたくて、無茶苦茶なこと言われても我慢してたのに……)


 憤りが彼女の心を埋め尽くす。


「何ガンつけてんだ。しばくぞテメーも」


 しかし、何も出来ない。先ほど殴られて今も苦しそうにしている麻衣の姿が、由紀の視界に映ってくる。目の前にいる人物は自分よりずっと強くて、怖い。


(こんな、こんなやつに……、悔しい……!)


 立ち上がって戦えない自分が情けない。

 目頭が熱くなり、自然とこみ上げてくる悔し涙。

 由紀の心が折れかけたその瞬間だった。

 バシャン、と大きな音を立てて、甘和の手に握られていたはずのボトルが、壁に叩きつけられたのだ。ボトルはその最中に宙を舞い、部屋中に細かい飛沫を散らした。

 たった今手に握っていたボトルを弾かれた甘和の目が、ぎろりと蠢く。

 由紀が驚いて見上げる。

 先ほどまで誰もいなかったはずの空間。

 麻衣の隣で座り込む由紀と、仁王立ちする茶髪の女生徒との間に、一人の少女が立っていた。

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