第19話
その後も翌日、その翌日と練習は行なわれた。
毎日フォーム確認に加え、試合を意識したスパーリング形式のフットワークを行い、これらが練習時間のほとんどを占めた。三十分ずつのクイックブロー練習は欠かさず行なわれ、試合の前々日からは本格的なスパーリングも開始した。練習後には毎日麻衣の特訓もやっていたが、いつぞやのように彼女が再び動けなくなってしまう事はなかった。
早川の指導による、第七格闘部の二週間に渡る練習は、これといったトラブルに見舞われることなく最後まで終了した。
そしていよいよ約束の期限は迫り、第三格闘部との練習試合当日となる。
当日の学校、四時限目の授業にて。
数学教師早川一騎は悩んでいた。
(三組の授業になると、麻衣と由紀がいてなんだか気まずい……のはいつものことなんだが……)
彼はただいま教壇の上に立ち、一年三組の授業を行なっているところだったのだ。
三組には部活の教え子である麻衣と由紀がおり、普段とは異なる距離感で微妙に居心地が悪い、というのが普段の早川の感想だったのだが。今日は少し状況が違う。
(今日練習試合だってのに……なぜ寝ている)
早川は少し怪訝そうな目つきで、とある少女の様子をさりげなく観察していた。
その少女の名は、樋口麻衣。第七格闘部の部員であり、今日の練習試合を提案した、最も試合にかける意気込みの大きかった生徒である。
だが、彼女は今机に突っ伏して寝ていた。完全に意識を失っているのだろう。
(試合当日に寝不足かよ。体調管理はしっかりしとけよなー……)
彼は歯がゆい思いに駆られていた。本来であれば、試合のために充分な休息をとって貰いたい。部活の事を考えるなら、麻衣の事は起こさずに寝かせておいてあげたいのだが、
(いやいや、俺だって教師のはしくれ。部活と授業はきっちり分けなきゃな……)
やはり授業中寝ている生徒は叩き起こすのが教師の務め。ここは厳しくいかねばならぬ。
と、考えゆっくりと教室の中央付近、麻衣の席に近よって彼女に声をかけようとした。
が、その足は途中で止められた。
このクラスにいる、早川にとってのもう一人の教え子によって。
大星由紀。麻衣の斜め前の席に座っている彼女は、周りに気付かれないよう早川に向かって突然ノートを広げて見せたのだ。
ノートには太いペン字でこう書いてあった。
『緊張しすぎて寝れなかったらしい。許して』
早川はすぐに、その文字が麻衣の状態を説明しているのだと理解した。
(マジか。意外と小心者なんだなぁ。でも、だからって見逃すわけにはいかねえよ)
心を鬼にして、首を横に振る早川。
すると由紀が急いでノートに文字を書き足し、広げて見せる。
『お願い。見逃してあげて』
早川は首を横に振る。
『一生のお願い』
首を横に振る。
『ケチ。いじわる。すっとこどっこい』
「…………」
真顔でノートを掲げ続ける由紀に対し、早川は一瞬黙り込んでから、声を張り上げた。
「おい大星由紀、よだれ垂らして寝るな! みっともないぞ大星由紀! そのよだれを拭いてさっさと起きろ大星由紀!」
「なっ!? よだれなんて垂らしてませんし寝てません!」
濡れ衣を着せられた由紀は顔を赤くして否定したが、周りの生徒達はくすくすと笑っている。
「~~っ?」
周りを見渡し、早川のでまかせが信じられてしまった事に愕然とする由紀。
早川は上手く仕返しが出来たと内心ほくそ笑みながら、そんな中なおもこんこんと眠り続ける麻衣に視線を向けた。
早川の顔には、いつのまにか諦めたような微笑みが浮かんでいた。
(ったく、どんだけ熟睡してんだよ。……仕方ない。今日は見逃してやるか。由紀に免じてな)
「つーことで、熟睡したんだから体調は万全だよなぁ」
第七格闘部の部室。今は練習試合前の控え室と化しているその部屋で、パイプ椅子に座っている麻衣に対して早川が語りかけた。
「……その節は真に申し訳ない」
麻衣が、決まり悪そうに答える。彼女はすでに運動用の服に着替えてはいるが、まだ防具を装着していなかった。
「試合のたびに寝不足になってたら世話ないぞ。ま、そんな事はないだろうけどさ」
早川は鼻で笑う。冗談めかしてはいるが、早川には麻衣の気持ちがよくわかっていた。今回の試合は、彼女にとってとても重要な意味を持つ試合なのだ。
「もうすっかり、これ巻くのも慣れちゃいましたね。巻き始めたの四日前ぐらいですけど」
緊張のためか俯きがちになっている麻衣の隣で、由紀が呟いた。彼女は白い包帯のような物の一巻きを手に弄ぶ。彼女が持っているのはバンテージ。練習や試合の前に手に巻いて、拳を保護する目的で使用される。早川が馬鹿にした口調で言う。
「よく言うよ。茜に手伝って貰わなきゃまだ巻けないくせに」
「なにおう! 私だって一人で巻けますよーだ」
由紀は全身に防具を装着しているため、多少ぎこちない動きでバンテージを手に巻こうとした。だが、茜がすぐにそれを止める。
「待って由紀ちゃん。今日は試合だから、先にテーピングした方がいいんだよ」
茜の手には白い布テープのようなものが握られていた。早川は目を丸くする。
「拳にテーピング? 強打するわけじゃなし、学生の試合にそんなもんいらないだろ。もったいない」
しかし茜は、何を言われているのかわからないような顔つきでこう答えたのだ。
「え、練習試合でも試合なんだからテーピングは必須でしょ。私、小学校の頃なんてスパーリングのたびにテーピングさせられてたんだよ」
「スパーのたびにって、テープの費用も馬鹿にならんじゃないか」
「費用って言っても、一巻きせいぜい五百円もしない物だし……」
「いや、その五百円が積もったら結構な額に……」
「?」
早川と茜は結局わかり合えない様子で、じっと顔を見合わせてしまった。
由紀がふぅ、と息を吐きながら仲裁に入る。
「無駄ですよ。茜ちゃんは私たちとは違って超絶お金持ちなんですから。家の庭にプールがありますから。私たちの金銭感覚とは違うんですよ」
その発言に早川と麻衣までもが食いつく。
「それマジか!?」
「家にプールあんの!? なんで!?」
形相を変えた二人に若干引きながら、茜が必死に由紀の発言を否定する。
「プールなんて無いよー!」
すると、にやりと笑いながら舌を出す由紀。早川はほっと胸を撫で下ろした。
「なんだ嘘かよ……。……とりあえず由紀と麻衣のテーピングは、するにしても足だけにしとけ。茜の方は任せるが……」
「皆もした方がいいと思うんだけどなぁ」
珍しくぶつくさ文句を言いながら、テープを長机の上に置く茜だった。
「まあいいですよ。私にはこの素敵アイテムもあることですし」
由紀はバンテージを巻きかけた手で、机の腕に置いてある丸みを帯びた容器を手に取る。
その容器は何かのケースで、端の部分から開閉出来るようになっている。
由紀はそのケースをぱかり、と開き、中からU字に湾曲したある物を取り出した。それはマウスピース。明るいオレンジ色のそれを、由紀は口に含んでしっかり噛み締める。
「マウスピースか……。それだって、お前には必要の無いもんだと思うがな」
得意げにマウスピースをつける由紀に対して、早川は冷ややかな視線を向ける。
「マウスピースは大事だよ。コンタクトスポーツじゃ、つけない方がおかしいもん」
すると早川の言葉を批判するように茜が言い、由紀と同じように自分のマウスピースをケースから取り出して見せたのだった。
「……あんなもんいらないよな。な? 麻衣」
早川は後ろを振り返り、そこに座っているはずの麻衣へと声をかける。
麻衣は練習の時にもマウスピースをしていなかった。だから早川は麻衣を自分の味方と確信していたのだが、
「ごめん先生。一週間前ぐらいに歯型送ってて、昨日届いた」
麻衣が気まずそうに自分のマウスピースのケースを持っていたのだ。
「な、お前まで! 裏切ったな! しかもオーダーメイドかよ!」
「いや、別に裏切ったわけでは……」
早川は悔しそうに歯噛みし、マウスピースをつけ口の中でもごもごしたり、大事そうに抱えたりしている三人に向けて説教を始めた。
「あのなぁ! 俺が学生のときはマウスピースなんて買う金なかったんだ! お前らに穴の開いたグローブを縫って練習用に使っていた俺の気持ちがわかるか!」
「それは大変でしたねー」
由紀が全く興味無さそうに返事をしたため、早川はその場に崩れ落ちてしまう。
「くっ、これが今時の女子高生か……無念」
その様子を見て茜が苦笑い。
「試合前なのに燃え尽きないで、先生。ほら、由紀ちゃんも早く準備しないと間に合わなくなるよー」
「やっぱりバンテージが巻けません……手伝ってください」
「はいはーい」
そんなこんなで彼女らは着々と試合の準備を進めていくのだった。
ショックから立ち直った早川が三人に向かって
「今日のオーダーは……、由紀、茜、麻衣の順番で行く。本来なら強い選手を後に持って来るところだが……今回は」
と言葉を濁し、さらに何か言おうとする。
麻衣は早川が試合順をそう決めた理由を知っていた。第三格闘部の三番手は実力順で間違いなく天見千佳。天見と麻衣の試合を実現する為に、セオリー外ではあるが茜の後に麻衣を持って来たのである。
麻衣は茜と由紀がどんな反応をするか気にしていた。茜はひょっとしたらこの並びに文句を言うかもしれない。その時に早川がどう説得しようとするのか心配だったのだ。
だが、麻衣の予想を裏切り由紀と茜の反応は素っ気無かった。
「いいですよー。私は一騎お兄ちゃんの決定に任せます」
「私もー」
二人は、さも当然の事のように早川の決定に従ったのだった。
(二人とも、先生のこと信用してるんだ……)
麻衣はしみじみと思う。早川が拍子抜けした様子で
「そっか。それじゃ、茜もすぐに試合出れるよう準備しとけよ。由紀が一瞬で負けたらすぐ茜の出番だからな」
と指示すると、由紀がわかりやすく反発する。
「なんですかー。私だってあれだけ練習したんだから、そんなにあっさりとはやられませんよ!」
その言葉にも、麻衣の心に響くものがあった。
(そうだよね。時間は短くても、あんなに一生懸命練習したんだ。練習の成果をしっかり出せば、必ず結果に繫がるはず)
麻衣は思い浮かべる。かつての親友であり、自分の裏切りによって絆を引き裂いてしまった一人の少女の事を。今日の試合で、麻衣は彼女に心から誠意を示さなければならない。
真剣な表情で集中を高めていく麻衣。
そんな彼女の脇で、思い出したように由紀が一言呟いた。
「でも、茜ちゃんのおうちあれだけ大きいんですから、何か他人の家にはないものがあってもおかしくないですよねー。何かないんですか?」
すると茜は困ったように笑いながら答えた。
「そんな、ええーと……エレベーターとか? なら、あるけど」
一瞬、その場の空気が凍った。
「それマジか!?」
「家にエレベーターあんの!? なんで!?」
早川と麻衣が同時に食いつき、茜は慌てて身を引いたのだった。
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