第20話

体育館の一角。第三格闘部の練習場所を借りる形で用意された試合会場では、すでに試合の準備が整えられていた。会場は端的に、広い。第七格闘部の普段の練習場所と比べれば、それだけで相手の部活がどれほど大きな勢力なのかが伺える。

 すでにそれぞれの陣営の待機場所まで設営されている用意周到っぷりに感心しながら、早川は単身第三格闘部陣営に歩み寄る。生徒達に指示をしている第三格闘部顧問、黒木牧子教諭へと挨拶をする。


「今日はどうも、よろしくお願いします。あ、これオーダーシートです。審判は……」


 早川は薄っぺらい一枚の紙を大事そうに手渡した。黒木はそれを丁重に受け取り一言。


「こちらこそよろしく。審判はこっちの部員で全部やるわ。はい、こっちのオーダー」


 黒木から早川のと同じ紙が返される。その内容を見て、早川は安堵する。


(よかった、天見は予定通り三番手か。他はどうやら知らない選手だけど……)


 それから彼は黒木に返答した。


「審判そっちに任せちゃうのは申し訳ないですよ。こっちも審判の仕方は教えてあるんで」

「試合出て疲れた選手に審判やらせるのもどうかと思うわよ? ここはこっちに任せなさい。心配しなくても、文句言わずやってくれる良い子ちゃんばかりだから、ね?」


 黒木がそう言って周りを見回すと、周囲の部員たちは若干引きつった顔で笑う。


(言わされてんじゃねえか、怖えー)


 黒木の女王っぷりに肝を抜かれながら、もう一度挨拶し撤退しようとする早川。


「んじゃ、時間になったら始めましょう」

「了解。いい試合にしましょうね」


 そうして、試合前の顧問同士による話し合いは終了する。


 早川が自陣に戻ってから、黒木も待機場所の椅子に座り、一人の生徒を隣に呼んで話をしていた。


「向こうの三番手、樋口麻衣って選手らしいよ、千佳?」


 黒木の隣に座っていたのは、短く真っ直ぐな黒髪の少女。第三格闘部の一年生エース、天見千佳だった。彼女は体操着に身を包み、防具をつければいつでも戦えるという状態になっている。


「そうですか」


 千佳の返答は素っ気無い。黒髪の下から覗く彼女の眼光は、ナイフのような鋭利さを見る者に感じさせていた。


「知らないんだ? 隠し玉って言ってたけど、やっぱり無名選手なのかね」


 今度は何も答えない千佳に向かって、追って質問する黒木。


「にしてもよくこんな試合引き受けたわね。承諾しといてあれだけど、多分期待できないわよ。いくら隠し玉って言っても、無名の選手じゃあなたに勝ち目なんかないって。まあそれは、あなたもよく分かっているはずなんだけど……」


 千佳は黒木から試合の話を聞かされた時、断る素振りも無く引き受けたのだった。驚くほどあっさりと、だ。黒木にとっては、いまだにその理由が飲み込めずにいた。だから彼女はもう一度、先ほどの質問を繰り返した。


「千佳、もう一度聞くけど、本当に相手の選手に心当たりはないのね?」


 すると千佳は、顔は無表情のまま口だけを動かし


「ええ、全く」


 と答えたのだった。黒木はそれ以上千佳に尋ねる事はしなかった。ただ黒木の頭の中では、何かがわだかまっていた。


(……そう言うわりには、随分肩に力が入ってるみたいじゃない、千佳……?)





 第七格闘部陣営。いよいよ試合開始の予定時間が近づき、そわそわとウォーミングアップをする由紀の姿があった。


「うー、やっぱり初試合は緊張しますー」


 早川がその脇で椅子に座り、注意事項を確認する。


「相手の選手の名前は伊藤美里いとうみさと。有名選手じゃないが経験者だろうな。審判がコールしたらフィールドの中央に行って、相手の選手と利き手のグローブを突き合わせるんだ。それで審判が合図したら試合開始。間違えて恥かくなよ」

「間違えませんよー」


 ややむくれ気味に言い返す由紀。早川は気にせず今度は試合運びについての指示を出す。


「最初は相手と接近した位置から始まるからな。相手のタイプはわからんが、いきなり突進してくると思っとけ。こっちは最初からとにかく退いて距離を取る。近づかれそうだったら早めにクイックブローで牽制しろ。手を出してさえいれば、向こうだって下手な攻め方は出来なくなるから」


 具体的な指示に由紀はうんうんと頷き、最後に元気よく返事する。


「わっかりました!」

「審判が出てきた。すぐに名前呼ばれるぞ」


 早川がそう言うや否や、赤いシートで丸く区切られたフィールドの中に審判役の学生が入り、声を張り上げる。


「ただいまより、第七格闘部対、第三格闘部の練習試合を開始します。第一試合は、第七格闘部『大星』選手と第三格闘部『伊藤』選手で行ないます。両選手はフィールドの中央に来てください」


 審判のコールを聞き終わる前に、由紀が元気よく飛び出していく。


「行ってきます!」

「おう、練習通りにな」

「頑張って!」


 早川と茜は激励して彼女を送り出した。麻衣は彼らの隣で座ってそわそわとしており、うっかり由紀への応援の言葉を言いそびれてしまった。


「茜は次入るからな。しっかりアップしとけよ」

「りょうかーい」


 茜は伸脚などの体操をしながら、試合の場所であるフィールドを見つめる。

 床にしっかりと固定されたマットは、赤い大枠の内側に半径三メートル程度の青い円が描かれたもの。青い円の中がフィールドであり、この外に出てしまうと場合によってはペナルティの対象となる。

 由紀はそのフィールドの中央で、相手の伊藤選手と向かい合い、グローブごと拳を突き合わせようと右腕を持ち上げる。

伊藤は肩にかかる程度の黒髪を後ろで縛っており、由紀と似た髪型だった。顔つきは童顔の由紀とは正反対に、目は切れ長で鼻筋も通った大人しい印象である。

 伊藤は慣れた様子で、拳を突き合わせる前に一度会釈をし、それから右腕を上げた。


「準備が出来次第、笛の合図で開始します」


 審判が横から指示する声。だが、由紀の耳にはそれほど深く届いてはいない。

 とうとう両者の拳が突き合わされ、試合開始の合図を待つのみとなる。


(相手も右利き……)


 由紀はそんな事を考えながら、睨まない程度にじっと伊藤の様子を見据える。

 伊藤も由紀を見つめ返し、二人の緊張感が最高潮に達した時、

 甲高い笛の音が鳴り、試合が開始された。


 まず最初の動き。由紀は指示通り後ろに下がって相手との距離を取ろうとする。

 対して相手の伊藤も追おうとはせず、二人は中距離でお互いの動きを警戒しあう。

 待機席で見ている早川が呟いた。


「相手も回避型かな? こっちにとっては嬉しいね」

「そだね。フォームも右前のオーソドックスだし、練習通りでやりやすいはず」


 茜が膝の屈伸をしながら答えたのだ。

 相手の選手は由紀と同じく防御主体の選手らしい。その上フォームも練習で想定していたものと同じであり、由紀にとっては普段通りの動きをすればいい事になる。

 ただ、由紀は結局相手と距離を保ったまま動かない。本来はもっともっと距離を離して逃げたいのだが、ベルヒットでは相手選手と必要以上に離れようとする事はペナルティの対象であるため、それが出来なかったのだ。

 しばらくそうやって向かい合っていると、伊藤が痺れを切らして由紀に詰め寄ろうとしてきた。由紀は咄嗟に斜め右後ろへと後退する。場外に出てしまう事を警戒しながら。伊藤は気にせず追いすがり、逃げ場を塞ぐように先回りして由紀へ近づく。


(わわっ。これ以上下がったらまずいです。右は危ない気がするし……えっと、こういうときは……)


 由紀は早川の助言を思い出す。近づかれたらとにかく手を出す。彼はそう言っていたはずだ。


「ふっ」


 短く息を吐き、近づいてくる伊藤に対し右拳を鋭く打ち出す由紀。

 まだ相手に当たるような距離ではなかったが、基本に忠実なフォームから繰り出されるクイックブローは、伊藤を確かに驚かせその足を止めた。

 伊藤が立ち止まった隙に、由紀は空いている左側に逃げ込む。

 すぐに追いかけようとする伊藤。だが由紀が右拳で再び牽制すると、驚くほどあっさりその動きを止めてしまう。

 由紀は戦々恐々としつつも心の中で小躍りしていた。


(一騎お兄ちゃんの言うとおり、手を出すだけで全然近寄ってこなくなります……! ていうか私、結構戦えてるかもっ……)


 由紀は距離を取りつつ、近づいてくる伊藤をクイックブローで牽制し逃げ続ける。




 第三格闘部陣営、総顧問の黒木が顎に手を当てる。


(やっぱり初心者らしく、回避型で仕上げてきたか。ま、この辺は予想通りね)


 そう考えしげしげと試合の様子を観察する黒木に、横合いから話しかける少女の声。


「なかなかメンドクサイ試合になりそうですな」


 彼女は黒木の隣に座り、口をすぼめてそう言った。少し染めているような茶髪のショートヘアーを揺らしながら、試合よりも黒木の思考に興味を見せている。


「可奈かな。あんた次出るんだからアップしときなさいっての」

「そんな事言っても、どうせこの試合3ラウンドまるまる使うでしょ。まだ大丈夫ですよ」


 そういう問答をしてから黒木は大儀そうに息を吐き、愚痴るような雰囲気で語り始めた。


「伊藤ちゃんは自分から攻めるのが苦手なのよね。まるっきり逃げ腰の相手とかだともう最悪。今日はその苦手克服のつもりなんだけど、想像以上に相手の選手が上手くて驚いてるわ」


 可奈、と呼ばれた少女は目を丸くし聞き返す。


「あれが? まあ初心者の割には動けてますけど、そんなに言うほどですかね」

「形には見えづらい上手さ、っていうのもあるのよ。それを知ることがあんたの今日の課題。後で質問するから、しっかり考えときなさいよ」

「うわ、やぶへびでしたわ……」


 黒木が冷たい目つきで指示し、可奈は露骨に嫌そうな顔をした。




 フィールド上ではなおも変わらず鬼ごっこじみた戦いを続ける由紀と伊藤の姿がある。

 何度も追いすがる伊藤に対し、由紀は素早いパンチを見せる事でその動きを止める。

 そうして何度もフィールド端の攻防を続けていると

 シッ、と細い息を漏らしながら、伊藤が強く床を蹴り由紀に接近しようとした。

 伊藤の顔にはわずかに苛立ちの色。由紀はそれを見逃さなかった。


(これは、ちょっと強引です)


 慌てず回避に移ろうとしながら、伊藤の動きに注意を向ける。右手を突き出し由紀へと襲い掛かる伊藤。持ち上がった右腕の下は腕のガードも無く、がら空きだった。


(いける?)


 由紀は咄嗟に左前へと飛び出した。

伊藤の腕をかわしながら、その無防備な脇腹へと。パシ、と軽く当てるだけのパンチが見事に決まる。胴への一撃、3ポイントの打撃だ。


(やった、当たった!)


 由紀はすぐに身体の向きを戻し伊藤の反撃に備える。

 伊藤は由紀を目で追いながら憎らしげな表情を浮かべた。


「よし、いいぞ。その3ポイントを守りきれ!」


 早川が椅子から軽く立ち上がりガッツポーズをする。

 試合中の選手への指示は禁止されているのだが、早川はついそんな事を忘れて声を出してしまう。幸い選手にも審判にも聞こえていない音量だったので咎められはしなかった。

 早川はフィールド横の電子得点板を見る。タイマーの役割も果たしているそれには、現時点での両者の得点が3‐0と、さらに残り時間が三十秒弱と表示されていた。


(上手く逃げれてるからか、早く感じるな。このラウンドは一発も貰わずに逃げ切るぞ)


 早川の意志を汲んだように、由紀はその後も冷静に身をかわし続ける。

 伊藤は先ほどの反撃で肝を冷やしたのか深追いを止めるようになった。

 結果的に由紀にとっては楽な状況が続き、残り三十秒も難なく経過してゆく。

 繰り返し由紀の退路を断とうとする伊藤。彼女が由紀へとにじり寄り、再び素早く駆け寄ろうか、という瞬間に、1ラウンド終了の笛が鳴る。


「いいぞ由紀、戻ってこい!」


 早川がすぐに声をあげ由紀を手招きした。由紀は嬉しそうに笑って待機場所へと引き返してくる。彼女の顔にはじわりと汗が浮かんでいるものの、まだ疲労の様子は見えない。


「ほい、タオルだよ」

「わ、ありがとうございます」


 茜が白いタオルを由紀に手渡し、由紀はそれで自分の顔と首周りを拭う。

 汗を拭いている由紀に早川が声をかけた。


「良かったぞ。次もこの調子でな」

「はい!」


 と元気よく返事をする由紀。早川は、ただし、と前置きしてから続ける。


「向こうもこのまま終わらせやしないだろう。次は多分方針を変えてくる。何にせよこっちのする事は同じだ。とにかく逃げて逃げて逃げまくる。焦るなよ」


 由紀は胸を張り、にやりと笑う。


「わかってますって。……ところで、麻衣ちゃんは?」


 由紀はきょろきょろと辺りを見渡す。どこにも麻衣の姿がないのだ。最後とはいえすぐに試合の番が回ってくるのに、一体どうしたのか。由紀は気になった。

 すると早川が左手の手のひらで顎を擦りながら呟いたのだ。


「緊張しすぎてお腹痛いってよ。由紀、お前の試合終わっても戻ってこなかったら、ちょっと呼んできて貰うかもしれんわ」

「あらら」


 苦笑いする由紀だったが、早川には麻衣の心境が分からなくもなかった。

 向かいの第三格闘部陣営には、先ほどから座って出番を待つ天見千佳の姿がある。

 彼女こそ、麻衣が今回の練習試合を希望した原因。顔を合わせるだけで、心が激しく揺さぶられる相手に相違ない。にも関わらず、麻衣は自分の席で待つ間もずっと、天見千佳と向かい合った状態にならざるを得ない。


(そりゃあ、腹痛くもなるか……)


 麻衣を若干気の毒に思いつつも、早川は思考を切り替える。

 休憩時間は長くない。今は、由紀の試合に集中しなければならないのだ。

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